瀧原宮の参道入り口。


向かって右に瀧原宮、左に瀧原竝宮があり、両宮ともに天照坐皇大御神をお祀りしている。


第62回式年遷宮で、平成26年(2014)秋に建て替えられた瀧原宮。


御船倉(みふなくら)。御船代(みふねしろ)を収納する倉といわれている。
瀧原宮のみに存在し、倭姫命が宮川をさかのぼってきた時の船にちなむとする伝承をもつ。
 伊勢市西部を流れる宮川の上流約40km、度会郡(わたらいぐん)大紀町(たいきちょう)滝原の山間(やまあい)に、伊勢神宮の別宮・瀧原宮(たきはらのみや)、瀧原竝宮(たきはらのならびのみや)の2つの社殿が並立し、鎮座している。神宮の地から離れているため、志摩市磯部町の伊雑宮(いざわのみや)とともに皇大神宮(内宮)の「遥宮(とおのみや)」とも呼ばれている。

 伊勢神宮は正宮2社、別宮14社、摂社43社、末社24社、所管社42社の125社の神社群によって構成されている。このなかで、瀧原宮は内宮、外宮の正宮2社につぐ第3位の格式を誇り、神域の面積においても内宮93万平方m、外宮89万平方mにつづく44万平方mの広さを備えている。

 国道42号線(熊野街道)に面した瀧原宮の駐車場から、社殿のある境内中央部まで約600m。杉木立に囲まれた長い参道には陽がささず、杜の空気はしっとりと湿り、凛とした佇まいが心地良い。
 参道と並行して流れる頓登川(とんどがわ)は、宮川の上流に注ぐ大内山川の支流で、小さな橋を渡り右に下ると、清らかな川の流れで手水をする御手洗場(みたらし)となっている。このあたりの景趣が、内宮のひな形と呼ばれる所以(ゆえん)だろう。

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 瀧原宮、瀧原竝宮の由緒について、鎌倉中期の神道書『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』には、天照大神の御杖代(みつえしろ・神や天皇の杖代わりとなって奉仕するもの)である倭姫命(垂仁天皇の皇女)が、大神の鎮座地を求めて諸国を巡歴し、宮川の河上にたどり着いたとき、川の急流を渡れずに困っていると、土地の神である真名胡神(まなごのかみ)に助けられ、この地にお宮を建てられたと記されている。

 両宮ともに祭神は天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)の御魂とされており、瀧原宮にはその和魂(にぎみたま)、竝宮にはその荒魂(あらみたま)が祀られている。
 一方で『倭姫命世記』には、両宮の祭神は速秋津日子(はやあきつひこ)・速秋津比売(はやあきつひめ)、別名・水戸(みなと)の神と記されている。速秋津の「速」は進む、「秋津」は明津で、水の流れで禊をして穢れを祓うことを意味している。また「水戸」は水の出入りする門口、すなわち港(湊)を意味すると考えられている。

 「滝原」の地名も、このあたりに大小四十八の滝があるというところからついた名前とされている。水戸の神は、天照大御神が国家神として神宮に祀られる以前の水に関わる自然神で、古くは宮川の「水の神」を祀った聖地、つまり真名胡神を祀る神社であったのではないだろうか。

遷宮を終えた瀧原宮の古殿地。




おむすび型をした潮石。石の前に小祠と「天照大神御遷行之旧跡」と記された石標が置かれている。
 「山の神」、別名「潮石(うしおいし)」と呼ばれる巨石をご神体とする小さな神社は、瀧原宮本殿から直線距離で南に約200m。国道42号線沿いの駐車場から約900mの地点にある。目印は「おおみやサイクリングターミナル」という宿泊施設だが、このあたりだと分かっていても、山の神はなかなか見つからない。ウロウロと探し回ること10分ばかり、やっとのことで鬱蒼としげる木々の間に鳥居を見つけ、山の神の社叢入り口にたどり着いた。

 境内といっても広さは猫の額ほどしかない。一段高くなった平地の上に、幅、高さともに2m弱のおむすび型をした潮石が鎮座しており、その前に小さな祠と「天照大神御遷行之旧跡」と記された石標が置かれている。

 また、社叢の入り口に「ここは、大岩の山の神 弁財天 秋葉神社 祝詞(のりと)山 道路を横断して→」と記された看板がある。この看板から察すると、どうやら山の神は当地の東南約1.8kmの地点にある神体山・祝詞山(554m)を祀る祭祀場であり、遥拝所もしくは里宮的な存在であったと考えられる。
 祝詞山の名は、倭姫命が大神の鎮座地を求めてこの山に登り、仮宮を建てられ、ここで祝詞をとなえたという伝承から名付けられたもので、仮宮は後に下ろされ瀧原宮となったといわれている。

 それにしても、祝詞山の「山の神」がなぜ「潮石」と呼ばれているのか。海の満ち引き・流れを表す「潮」と「山」では、相反するネーミングのように思えるのだが。
 大化の改新以前、南伊勢地方の県主(あがたぬし)は、渡会氏(外宮の禰宜(ねぎ)職を世襲した氏族)で、南伊勢から志摩半島におよぶ海岸一帯を拠点にしていたという。『続日本紀』の和銅4年(711)3月6日の条に「伊勢国の人、磯部祖父(いそべのおおじ)・高志(こし)の二人に渡相神主(わたらいのかんぬし)の姓(かばね)を賜った」とあり。渡会氏の出自は磯部氏と称した海人族であった。「潮石」の名は、この地に蟠踞した渡会氏の祖先をしのぶ、海の記憶の残滓なのではないかと想起される。

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 瀧原宮の参道入り口から神域の金網フェンスに沿って旧熊野街道を400mほど北上すると、神域の角地に「足神さん」と呼ばれる陸道神(ろくどうじん)が鎮座している。
 石の大きさは60cm×50cmほど、案内板には髑髏(どくろ)形の石とあるが、私には愛らしい赤子の顔のようにも見える。暗緑色で、すべすべした感じがあるところは蛇紋岩のように思えるが、素人の見立てなので当てにならない。

 陸道神(一般には道陸神(どうろくじん))は、村境や道の辻、橋のたもとなどにあって、邪霊や疫神などの侵入を防ぎ、通行人や村人を災いから守る道祖神(どうそじん)の一種である。道陸神はとくに足痛をやわらげる神として、旅人たちの信仰を集めてきた。
 ご神体の石を撫でて、自分の足、膝、腰を撫でるとご利益があるという。

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2022年6月26日 撮影

鬱蒼とした茂みの奥に山の神の参道が見つかった。


山の神の案内板。





























瀧原宮神域の北側角地にある足神さん。


玉砂利の中から顔を出す「足神さん」。