鎌倉時代の中期から後期は、日本史上でも稀に見る混迷の時代であった。絶え間ない自然災害と飢饉、疫病の発生、蒙古襲来(元寇、1274・1281年)の恐怖、世情の不安と末法思想の広がりなど……。その中で、幕府に諫言し、激しい迫害や流罪を受けながらも信念を貫いた一人の僧侶がいた。日蓮宗の開祖・日蓮聖人(1222〜1282年)である。
文永8年(1271)、日蓮聖人50歳のとき。幕府や諸宗を批判したとして捕縛され、龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬)に引き出され処刑されそうになったが、あわや斬首になったときに江の島方面から満月のような光の玉が飛んできた。首斬り役人たちは恐れおののき、振り下ろされた太刀が折れ、刑の執行は中止となった。爾来、この怪異な出来事を「龍ノ口法難(たつのくちほうなん)」とよぶ。
斬首をまぬがれた聖人は、その後、佐渡ヶ島に流され2年5ヵ月に及ぶ過酷な流罪生活を強いられる。
文永11年(1274)、流刑を赦免された聖人は、鎌倉を離れ、甲斐国(山梨県)身延山(みのぶさん)の草庵に隠栖し、法華経の読誦と弟子の育成にあたっている。
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山梨県は、日蓮聖人が晩年の約9年間(1274〜1282年)を過ごした地であり、身延以外にも県内各地に聖人の足跡を伝える寺院や伝承の地が数多く点在している。身延山久遠寺から北に約60km離れた北杜市長坂町にある見法寺(けんぽうじ)もその一つである。
見法寺が管理する「高座石(こうざいし)」は、見法寺の大きな駐車場前の道路を隔てた東側にある。石の隣に建つ白壁のお堂が「八日堂(ようかどう)」で、ここが見法寺の発祥の地とされている。
石の前に立てられた案内板によると、
文永11年(1274)5月、聖人は身延山に入る前、甲斐国内と信州を1ヶ月にわたって歩いたという。その折、信州にへ向かう途中、井泉(せいせん)の湧く一家があり、聖人はそこで休息された。家主がこれを歓待したところ、聖人は。この石の上で3昼夜にわたり法華経を説法された。
のちの興国2年(1341)3月、大法阿闍梨(あじゃり)日善上人が見法寺を創立され、後日、日蓮聖人の像を高座石の上に安置されたという。
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石の高さは2.5mくらいあるだろうか。さすがに寺院なので、石に注連縄は巻かれていない。仏教には、神道の「穢れ(けがれ)」や「結界」という概念がないため、建物や石、木などの自然物に縄を巻く習慣はない。
磐座と思われる石の上に、仏像が安置されている姿はは、日本独自の「神仏習合」を象徴する光景といえる。仏教では、石の上に仏像を置いたり、仏像、梵字、経文などを彫り込むことは、功徳を積む行為とされているが、神道では、自然石そのものに神が宿っているとして、原則として石に人の手を加えることはない。
また、仏教では、神社の磐座に相当するものを「影向石(ようごうせき)」と呼ぶ。「影向」とは、仏・菩薩が仮の姿となって、この世にその姿を現すことをいう。
例えば、「影向寺の影向石」(神奈川県)には、当時の薬師堂が火災で焼失した際、本尊の薬師如来がみずから堂を出て、この霊石の上に避難し、難を逃れたと伝えられている。
一方、高座石は、お釈迦様が悟りを開いた「金剛宝座」になぞらえ、僧侶が座る高い座席(高座)として扱われる石で、高僧が民衆に教えを説くために「座った石」のことをいう。
日本古来の磐座信仰が、仏教と習合して影向石となり、その延長線上に高座石、または説教石が生まれたといえる。
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2026年3月1日 撮影
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佐渡市にある「佐渡歴史伝説館」では、 等身大ロボット人形による 「龍ノ口法難」の場が再現されている。
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