本尊の薬師如来像が安置されている薬師堂(県重要文化財)。
本堂裏の安置堂に、国重要文化財の本尊・薬師如来坐像と両脇侍像(日光・月光両脇侍)、
さらに市重要歴史記念物の木造二天立像と木造十二神将立像が安置されている。


境内東南隅の一角にある「影向石」。


万治年間、薬師堂が火災にあうと、本尊の薬師如来はみずから堂を出て、この石の上で難をのがれたという。


影向石のくぼみにたまった水で眼を洗うと、眼病が治ると言われている。


影向石の背後に、駒型青面金剛庚申塔(左)と7体の石仏が並べられている。
 多摩丘陵の東南端、野川地区の標高およそ40mの高台に天台宗の寺院「威徳山(いとくざん)影向寺(ようごうじ)」がある。
 山門の左右に大きなケヤキ、本堂の前にはサルスベリの古木が鮮やかな紅色の花を咲かせている。また、境内の右奥には、高さ28m、幹周8m、推定樹齢約600年の堂々たる乳イチョウの大木がそびえており、この老樹の気根を削って飲むと、乳の出がよくなるという伝承が残されている。

 当山最古の縁起によれば、奈良時代の天平11年(739)、光明皇后が眼病を患った折、聖武天皇の夢のなかに一人の僧が現れ、「武蔵の国橘樹郡(たちばなぐん)橘郷に霊石があり、その石の上辺中央のくぼみにいつも霊水が湛えられている。ここに伽藍を建立し、薬師如来を安置して祀るならば、皇后の眼病は立ちどころに癒されるであろう」と告げた。
 聖武天皇は直ちに、高僧・行基(668〜749)を当地に遣わし霊石に祈願したところ、霊験あらたかに光明皇后の眼病が快癒されたという。天皇の勅令(ちょくれい)により、当地に伽藍が建立されたのは、翌年の天平12年(740)のこととされている。

 創建当時は「栄興寺」と呼ばれていたが、のちに「養光寺」となり、さらに江戸時代初期の万治年間(1658〜1661年)に「影向寺」に改名された。また、応永13年(1406)の『武蔵国栄興寺再興勧進状』には、平安時代の僧・慈覚大師 円仁(794〜864)によって再興され、天台宗の寺院となったと伝えている。

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 寺名の由来となった「影向石」は、境内東南隅の一角に鎮座している。そもそも「影向」とは、仏・菩薩が仮の姿をとって、この世にその姿を現すことをいう。影向石とは、仏の顕現される霊石のことであり、神社の磐座に相当するものである。

 伝承によると、万治年間、当時の薬師堂が火災で焼失した際、本尊の薬師如来がみずから堂を出て、この霊石の上に避難し、難を逃れたと伝えられている。以来、霊石には神仏が馮依(ひょうい)しているとして影向石と称されようになり、寺名も「影向寺」に改められたという。

 現在、創建当時の建造物は残されていないが、昭和50年代からの寺域の発掘調査によると、境内から出土した軒丸瓦(のきまるがわら)の様式等により、創建の時期は奈良時代以前にまで遡るとされている。
 7世紀後半頃に、現在の薬師堂とほぼ同じ場所に金堂と思われる建物が建てられ、ついで8世紀中頃に金堂の規模が拡大され、金堂の南東約50mの地点に三重塔(推定)が建立されたと考えられている。

 影向石の大きさは、最大径約190cm、高さ約50cmほどで、石の上辺中央にくぼみがある。この形状から、影向石の実際の用途は、かつて当寺にあった三重塔の心礎石であろうといわれている。塔が失われて以降、そのくぼみに溜まる水は、「霊水」として近隣から眼を患う人々が訪れて、その効験によって癒やされていたという。

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 日本の塔建築は、6世紀末、わが国最古の寺院とされる奈良県明日香村の飛鳥寺(法興寺)の五重塔にはじまった。最古の三重塔は、慶雲3年(706)に建立された 高さ23.9mの奈良県斑鳩(いかるが)町の法起寺の三重塔とされている。

 仏教建築における仏塔は、本来、お釈迦様の舎利(遺骨)を納める仏舎利塔を形どったものであり、古来においては、仏教信仰の中核となるものであった。

 塔の心礎が「影向石」に変容したのは、日本人の「石」に対する特別な思いがあるからだろう。石に病の治療を祈願するという形は、日本の民間信仰の中に多く見られるものである。そのなかでも、くぼみのある石は特別な霊力が宿ると考えられていた。
 くぼみは「小さな洞穴」であり、洞穴のもつ再生・復活の力を象徴する神聖感に由来するものと思われる。

 三重塔が失われて以降、心礎のくぼみにたたえられた霊水が、光明皇后の眼病を癒やしたという創建のいわれとなり、江戸時代、薬師堂の火災から本尊の薬師如来が霊石の上に避難し、難を逃れたという伝承によって、影向石と呼ばれる霊石となったのも、石のくぼみに霊威が宿るという信仰が生きていることによるものだろう。

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2023年9月16日 撮影

影向寺の乳イチョウ(かながわの名木100選)
銀杏の古木で、樹皮に多くの瘤状のものが現れている。
これが女性の乳房に似ているとされ、
乳の出のよくない産婦の信仰の対象となった。




太子講によって昭和60年に建立された太子堂。
疾病消除の祈願が込められた聖徳太子孝養像
(鎌倉時代後期、市重要文化財)が安置されている。




影向石の側にある力石。江戸から明治時代にかけて、
力石を用いた力試しがごく普通に行われていた。
石には「品川 綱島 太尾」などの地名が刻まれている。



『江戸名所図会』3巻「稲毛 薬師堂」(国立国会図書館デジタルコレクションより)
 丸で囲った部分に影向石が記載されている。