海に突出した亀型の巨岩「大野亀」。6月上旬から中旬にかけて約50万株のトビシマカンゾウが群生する。
頂上には、善宝寺の石塔が祀られている。善宝寺は山形県鶴岡市にある曹洞宗の寺で、
海の守護神である龍神を祀るお寺として、漁業関係者に厚く信仰されている。


二ツ亀。周辺海水の透明度は佐渡随一を誇り、二ツ亀海水浴場は「日本の水浴場55選」にも選ばれている。


遊歩道から眺める二ツ亀。「願(ねがい)」の集落名は、磯へ小舟をこぎ出すという意味の「ねぶ」に由来するという。


賽の河原につづく岩場の中の遊歩道。正面右に大野亀が見える。


大野亀と二ツ亀のほぼ中間にある「願の賽の河原」。


洞窟内には無数のお地蔵様が林立し、手前に子供たちの人形などが供えられている。



 外海府(そとかいふ)の「龍王大明神」から北進して「入崎(にゅうざき)弁天堂」、さらに石名(いしな)の清水寺(せいすいじ)を訪ねる。佐渡屈指の古刹・清水寺には、念仏遊行者・木喰弾誓(もくじきたんぜい)を慕って天明元年(1781)に佐渡に渡った仏師・木喰行道(ぎょうどう)の地蔵尊立像と薬師如来座像の2体が安置されている。ちなみに木喰とは、個人の名前ではなく、木喰戒という五穀(米・麦・粟などの穀物)を断ち、火を通した物を食さず、山菜や木の実を食べて生活する修行僧のことをいう。

 木喰仏を拝観し、島最北端の二ツ亀(ふたつがめ)と大野亀(おおのがめ)に向かって車を進める。真更川(まさらがわ)集落の手前あたりから、佐渡一周線の道幅は狭くなる。大ザレ川に架かる海府大橋(昭和44年開通)を渡ると、次に北鵜島(きたうしま)、願(ねがい)、藻浦(もうら)、鷲崎(わしざき)と小さな集落がつづく。鷲崎を除くと、いずれも人口30〜40人の過疎の集落である。

 大正9年(1920)6月、柳田國男が佐渡の雄大な自然に感動したのも、外海府北部のこの海岸だった。柳田は紀行文「佐渡一巡記」の中で次のように述べている。
 「強く記憶に印せられているのは、この晴れたる午前の外海府の風光であった。弾崎(はじきざき)の燈台を出てから、真更川の村に取り付くまでの間、海端(うみはた)の平地があって大きな阪もなく、磯や砂浜の美しい変化は、一歩ごとに濃(こまや)かになって行くように思われた。(中略)大野亀の鼻につづいた一つの小山では、麓から頂上まで萱草(かんぞう)の花一色で、飾り立てたような景色を見た」

 佐渡を訪れた柳田は、このとき両津の港から小型の発動船に乗って鷲崎に渡り、木村という旧家に一泊し、翌日徒歩で相川に向っている。佐渡の外周は約280km、車なら6〜7時間で一周できる。現在の外海府を秘境とはいえないが、柳田の時代には、周囲から隔絶された「佐渡の秘境」であったのだろう。

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 藻浦集落の大野亀は、外海府の海に突き出た高さ166.5mの半島で、東の麓に高さ50mの広い段丘面が付随している。マグマが地殻内部を通ってきた粗粒玄武岩の貫入岩体から成り、貫入時期は新第三紀中新世前期(2300万年前から500万年前までの時代を指す)と推定されている。

 案内板には、波打ち際から頂上まで一枚の岩からなる「日本三大巨岩」のひとつで、「亀」は「神」、アイヌ語の「カムイ」に通じる神聖な島を意味していると記されている。また、一説によると、修験道では亀と名のつく石は、神仏が来臨する影向石(ようごういし)のことであり、海に鎮座する亀石は、海神の影向する磐座のことであるという。

 大野亀から北に2.1km。願集落の二ツ亀は佐渡島の北端、弾崎とほぼ同緯度にある小さな島で、高さ67mの「沖の島」、高さ約80mの「磯の島」の2つの丘陵から成り、大きな2匹の亀がうずくまった形に見えることから「二ツ亀」の名がついた。吉田東伍の『大日本地名辞書』には、「賀茂島」ともいうとある。

 離れ島でありながら、干潮時にはトンボロと呼ばれる陸繋砂州(りくけいさす)があらわれ、島に歩いて渡ることができる。昭和の中頃までは、二ツ亀に牛が放牧されていて、のんびり草を食べる風景を見ることができたという。

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 二ツ亀と大野亀をつなぐ約2.6kmの海づたいの遊歩道は、かつての旧道であり、昭和の半ばまでは藻浦と願の集落を結ぶ大切な生活道路であった。右手は外海に面し、左手は切り立った断崖である。足場の悪い岩場の道は、ひとたび海が時化(しけ)れば、岩に打ち寄せる荒波にのまれ、通行は困難になるだろう。
 この遊歩道を、二ツ亀の海辺から大野亀に向かって約10分(850m)歩くと、垂直に切り立った高さ数10mの断崖に、海に向かってポッカリと口を開けた海蝕洞「願の賽の河原(さいのかわら)」にたどりつく。

 波音しか聞こえてこない、うす暗い洞窟の中には高さ10〜15cmほどの地蔵さまが林立し、風車や人形などのさまざまな玩具が供えられ、海辺には子どもの供養に積まれた石の塔が散見される。
 「岩屋」ともよばれるこの海蝕洞は、江戸時代前期の天正18年(1590)に佐渡に渡った木喰弾誓が参篭し、弾誓以後はその弟子の但唱(たんしょう)や長音(ちょうおん)らの木喰僧が修行にはげんだと伝えられる霊場であった。
 やがてここに、回向(えこう)のための地蔵菩薩が安置され、江戸後期から明治にかけて、幼くして命を失った子どもたちの冥福を祈る信仰の地、現在の「賽の河原」となったのだろう。

 えも言われぬ、賽の河原の寒々しい風景は、出雲地方の「猪目洞窟」や「加賀の潜戸」で感じたうら悲しさと同じ心象であった。古来より、集落を離れた山間や海岸の洞窟は、死者を風葬する葬送の場としてつかわれた例が多い。五来重(ごらいしげる)の『石の宗教』にも「自然洞窟の風葬墓では、その入口を石で塞いだのが、賽の河原の積石の起源であったことは疑いがない」と記されている。当地も、古くはこうした風葬洞窟であったと推察される。

 賽の河原といえば、「一重つんでは父のため、二重つんでは母のため……」と詠われる『西院河原地蔵和讃(さいのかわらじぞうわさん)』だが、これについては「恐山霊場」に記している。こちらを参照されたい。

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2021年6月27日 撮影


毎年7月24日には「賽の河原祭り」とよばれる
慰霊祭が行われている。


遠くに見える二ツ亀。海辺には小石を積んだ石の塔が散見される。