左の石段は禅師峰寺。右の石段を上がると磐座神社。


太鼓橋(手前)をわたり、石段をのぼって本殿に向かう。


拝殿右手にある3つの石。当社の磐座とみなされている。


磐座とされる3つの石。庭園に配置された景石のようにも見える。


雪囲いのサッシに覆われた本殿。
 勝山市の大矢谷白山神社から西に7.8km。大槻磐座(おおつきいわくら)神社は、九頭竜川の中流域にある大野盆地の北部、九頭龍川の支流・赤根川のほとりに鎮座している。
 県道170号線を直進し、赤根川に沿って西に走ると、行く手右側に、山に向かう2つの石段が現われる。向かって右の石段が磐座神社で、左の石段が道元禅師ゆかりの古刹・禅師峰寺(ぜんじぶじ)である。

 大槻磐座神社のある「大月」の地名由来について、当社案内板の由緒書きに以下のように記されている。
 古代、大野盆地が湖であった頃、大槻村の租先はこの神社の周辺に住んでいた。ある深夜、突然当社が炎上、村人がご神体を案じて馳せ参じたところ、すでにご神体は、神社境内の大槻の樹上高くに避難され、燦然と光り輝きながら遷座されていた。村人は大槻を賛歎し、以後部落を大槻村と呼び 最も敬神の念厚い氏子として大いに栄えたと伝えられる。
 何時の日か定かではないが、この大槻も朽ち、その位置から臨む大野盆地は湖と月とが素晴らしく調和していた。人々はその眺望を称え、大月村と呼ぶようになり、東西の大月に分かれ現在に至つている。

 「大槻」は平安期に見える古い地名である(角川日本地名大辞典)。「槻(つき)」は「欅(けやき)」の古名とされているから、ご神体が避難された「大槻」とは、ケヤキの大木を指しているのだろう。この「大槻」が、いつの時代か「大月」に転訛したのが地名の由来とされている。

◎◎◎
 石鳥居をくぐり、磐座神社の石段を登ると、段丘上に平地があって、沢をまたぐ小さな太鼓橋がある。これをわたり、その先の石段を登ると、入母屋造りの拝殿があり、さらに石段を登ったところに、サッシで雪囲いされた流造の本殿がある。広い境内に人影はなく、山裾の閑寂な気配につつまれていた。
 神社の創建は1200年前とも1300年前とも伝えられているが、詳細は不明。祭神には天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が祀られている。

 当神社は、『延喜式』神名帳に記載の「越前国大野郡 大槻磐座神社」で、大野郡式内9社の1社とされている。「大野郡9座」は次の通りとされている。
 1. 磐座神社
 2. 篠座(しのくら)神社
 3. 椛(かむは)神社
 4. 大槻磐座神社
 5. 坂門一事(さかとひとこと)神社
 6. 風速(かさはや)神社
 7. 国生大野(くになりおおの)神社
 8. 高於(たかお)磐座神社
 9. 荒嶋(あらしま)神社

 1の磐座神社は、現在福井市大宮町の八幡神社と比定されており、本殿の前あたりに磐座と思われる岩が点在しているという。8の高於磐座神社は、現在大野市木本にあるが、旧社地の境内に高さ数mの岩があったと言われている。
 「大野郡9座」のなかに、「磐座」と名がつく神社が3座あるのは、決して偶然とは思われない。大野郡に磐座神社が寄り集まった要因は不明だが、この地方に磐座信仰が盛んであったことはまちがいないだろう。

◎◎◎
 さて、当神社においては、拝殿の右側(東)にある苔むした3つの石が「磐座」とみなされている。しかし、案内板には「磐座」に関する記載は見られない。さらに、いつの時代かわからないが、3つの石を村人が掘って、ここに立てたという伝承が残されているという。

 本来、磐座とは人の力では動かすことのできない岩であり、自然岩のもつ不動性、不変性が神聖感の根源となっている。こうした点を踏まえて、3つの石をながめてみると、石や拝殿、本殿が建てられている社地は、山を崩して造成されたもので、人為的に造られた平地のようにみえる。3つの石も、一見古そうに見えるが、庭園に置かれる景石(けいせき)の感覚で配置されたもののようで、往古の「磐座」とは思えない。

 元々、当神社は違う場所にあったが、いつの時代かこの地が造成されたときに、当地に遷されてきたのではないだろうか。3つの石は、旧社地にあった磐座を移したものか、あるいはそれに似た石を見つけて運んできたかのどちらかだと思われる。
 当社の3つの石は、社名にある「磐座」の片影を残しておきたいという思いから、村人によって運ばれ、置かれてものではないだろうか。

◎◎◎
2020年10月22日 撮影


鳥居扁額。


サッシのガラス越しに見た本殿。
祭神として瓊瓊杵尊が祀られている。


案内板。