苔むした石段と巨石。原始の領域を想起させる神秘的な空間だ。


鳥居をくぐると、圧倒的な量感をもった巨大な岩塊が見えてくる。


そびえ立つ岩塊。岩の表面にかなり大きな砕屑物が見られ、火山礫が多く含まれた凝灰角礫岩であることがわかる。


岩塊に押しつぶされたかのような覆屋。その後方に拝殿。


拝殿後方に建つ本殿。
 カーナビに従って辿りついた白山(はくさん)神社は、広大な神域を領する国の名勝「平泉寺(へいせんじ)白山神社」だった。どうやら目的地の設定をまちがえたようだ。福井県神社庁のホームページを調べてみると、勝山市内に「白山」と名のつく神社は40社ほどあった。カーナビ設定にはくれぐれもご注意を。

 大矢谷(おおやだに)白山神社は、平泉寺白山神社から東南に約6.5km離れた勝山市の東南部、大矢谷地区の農道「テラルふれあいロード」から細い脇道を250mほど入った突きあたりにあった。平泉寺白山神社に比べるとはるかに小さい、うら寂しい無住の村社(そんしゃ)である。

 森閑とした境内には、苔むした岩が点在し、静謐な空気が漂っている。石の鳥居をくぐると、前方に見上げるばかりの岩の塊が見えてくる。それにしても、何という巨大な岩であろう。高さ23m、横幅40m、圧倒的な迫力でそびえ立つ岩塊を前に、犯しがたい神聖感が感じられる。

 岩塊の下に建てられた拝殿と覆屋(おおいや)は、今にも岩に押しつぶされそうな状態で、覆屋に至っては岩側の屋根が造られていない。岩がそのまま屋根となって、雨風をしのぐことはできるためだろう。拝殿裏にある簡素な造りの本殿は、岩塊から少しだけ離れたところに鎮座している。『福井県神社誌』によると、大矢谷白山神社の創建は、大永2年(1522)で、祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)及び白山大神(別名:菊理媛大神)とされている。

 当社のご神体である巨大な岩塊は、今からおよそ3万年前、不安定になった経ケ岳(1625m)や保月山(1272.8m)の南西側部分が大規模崩壊を起こし、大量の岩塊や土砂が「岩屑(がんせつ)なだれ」となって流れ出たものである。
 岩質は大小の角礫が火山灰によって固められた凝灰角礫岩(ぎょうかいかくれきがん)で、同じ種類の岩塊は経ヶ岳の南西尾根付近と、その周辺耕作地に多数点在しているという。

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 白山信仰は、越前国(福井県)麻生津(あそうづ、福井市浅水町付近)で生まれた奈良時代の名僧・泰澄(たいちょう・682〜767)大師が、養老元年(717)、白山に登拝し、頂上に社殿を建て十一面観音を祀ったことがはじまりとされている。
 白山(2702m)は、富山県、石川県、福井県、岐阜県の4県にまたがる両白山地の中央に位置し、駿河の富士山、越中の立山とともに日本三名山の一つに数えられている。
 中世には、白山修験の霊山として広く知られることとなり、多くの修行僧や信者が白山に登拝するようになる。明治10年(1877)に、石川県白山市の加賀国一宮・白山比v(しらやまひめ)神社が、全国に3000社あるとされる白山神社の総本社となった。

 当神社がある平泉寺町は、白山の越前側登山口にあたり、泰澄によって開かれた「白山平泉寺」は、最盛期である室町時代の後半には、48社、36堂、6000坊、僧兵8000人要する、白山信仰の巨大拠点として繁栄した。
 戦国時代の天正2年(1574)に、一向一揆の焼き討ちで寺院の伽藍は灰燼と化すが、その後、豊臣秀吉の時代に再興され、明治時代になると神仏分離令により寺号を廃止し、平泉寺白山神社となって現在に至っている。

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 わが国では、太古から山岳や洞窟、滝、巨石、巨樹などの自然物が崇拝の対象とされ、特異な景観を有する地は「神の座す聖地」、すなわち目に見えない神の宿る場所とされていた。

 当社岩塊の岩陰には、泰澄大師が「一の宿」として籠もられたとされる伝承が残されている。また、岩塊の下から、縄文時代の石器や平安時代の須恵器なども見つかっている。当社の創建が大永2年(1522)であるとすれば、神社が建立されるはるか以前から、この地は磐座信仰の聖地として崇められ、元は大矢谷地区の総氏神として信仰されていたものであろう。社殿や祭神は、後世の付け足りにすぎぬものと思われる。

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2020年10月22日 撮影


「テラルふれあいロード」から神社に入る細い脇道。
入り口にある看板が目印となる。


案内板。


覆屋のある岩陰部。このあたりで古代の磐座祭祀が行われたと思われる。