飯部磐座神社の社殿は丘陵の頂上にあり、巨石群は石段の左側、南斜面の中腹に集中している。




寄せ集め、積み重ねられたように点在する巨石群。


現在の拝殿・幣殿は、大正4年(1915)7月に再建されたもの。
 飯部磐座(いべいわくら)神社は、福井県の中央部、武生市と今立町が合併して誕生した越前(えちぜん)市の芝原地区に鎮座している。

 当社は『延喜式』神名帳に記載されている「越前国敦賀(つるが)郡 伊部(いべ)磐座神社」に比定されている。しかし当地は、律令時代の敦賀郡ではなく、丹生(にう)郡に属しており、当社を比定地とする根拠はあくまで伝承によるもので、確証となる文書は存在していない。
 吉田東伍の『大日本地名辞書』には、「延喜式、伊部磐座神社は敦賀国に収めたり、一書にこれをば吉野村芝原の岩倉神に引きあてしは従い難し、芝原の地勢は丹生郡丹生郷の中にて、敦賀国に混入すべきものにあらず。伊部は忌部に同じ、織田の社司を忌部氏とす」と記されている。
 こうした郡名の相違は、古代から中世にかけての郡域変遷によるものとする説もあるが、伊部磐座神社は現越前町(旧織田町)岩倉の地にあったとする説もあり、当社を比定社と断定するのはむずかしい。

 「伊部」は当地の豪族・伊部氏に因む名称で、平安時代初期の『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』山城国諸蕃に「伊部造 出自百済国人乃里使主也」とあり、伊部氏は百済国の人、乃里使主(のりのおみ)で、渡来系氏族の子孫とみられている。
 「伊部」の読みはおそらく「いんべ」であったと思われる。伊部氏は、古代朝廷において中臣(なかとみ)氏と並んで宮廷祭祀を担った氏族・忌部(いんべ)氏(斎部氏とも書く)に由来するとされているが、詳細は定かでない。
 しかしながら、越前町織田に鎮座する越前国二の宮の劔(つるぎ)神社(別名織田明神(おたみょうじん))の歴代の神官は忌部氏で、越前町織田は、織田信長公をはじめとする「織田一族」発祥の地とされている。
 織田氏の出自については、平氏説・藤原氏説・忌部氏説など諸説あるが、吉田東伍の見解にもあるように「伊部は忌部に同じ、織田の社司を忌部氏とす」とみて、まちがいないだろう。

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 大野市西大月の大槻磐座神社から車で西に約1時間。飯部磐座神社は、ゆるやかな傾斜をもった小さな島状の丘陵上にある。丘陵の周辺は平坦な住宅地で、南側の入り口から参道に入り、鳥居をくぐり石段を上ると、10数個の巨石が折り重なるように点在している。
 巨石群は、石段の左側、台地上の南斜面に集中しているが、捨て置かれた石のように雑然としていてまとまりがない。社殿は台地のほぼ中央にあって、拝殿と繋がった幣殿のなかに流造りの本殿が納められている。案内板によると祭神は天照大神、猿田彦命、八幡大神の3柱である。

 当社に伝わる由緒によると、境内の巨石群は『日本三代実録』貞観15年(873)12月2日条に登場する越前国敦賀郡の豪族・伊部造豊持(いべつくりとよもち)が、遠方より大磐石を運び、積み重ねて磐座を造り、社殿を建てたものとある。
 また、1873年成立の『神祇志料(じんぎしりょう)』にも「此地近傍に石をとるべき所なきに、社地は人力もて運び難き大磐石を畳み積敷たる磐座なりと云い」との記載がある。

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 こうした伝承から、当社の巨石群は人の手によってつくられた磐座祭祀の場とも考えられるが、Googleマップの航空写真で当地を眺めてみると、また異なった見方もできるのではないだろうか。
 巨石群のある丘陵の大きさは、東西約56m、南北約100mほどである。私は、平坦地に佇む丘陵の周囲を一巡りするなかで、この小丘陵は古墳の跡地ではないかとの思いが、頭をかすめた。

 これを古墳とみれば、点在する巨石群は石室を造るために集められた石であり、前方後円墳、または前方後方墳の横穴式石室が、後世に墳丘が失われて露出し、後に崩れたものとみることもできる。
 ただ、石室の遺構とすれば、岩の散らばり方にまとまりがないことが気にかかるので、巨石が集められた後に、古墳の造営が中止されたのではないかとも考えられる。

 古墳の祀るために、後世、古墳上に神社もしくは祭祀場(磐境(いわさか))が造られることは珍しいことではない。そもそも「磐境」とは、岩や石を用いて、神を迎え、祭る神聖な場を区画する石積みのことをいう。当神社に見られるような、ここまで大きな石を集めて磐境を築いたとは、ちょっと考えにくいのだ。
 この巨石群が、どのような磐座祭祀の遺構であったのか、その正体は謎のままである。

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2020年10月22日 撮影


幣殿の中に収められている本殿。


当社の神紋は、仏具の輪宝を図案化した輪宝紋。


案内板。