第一話 魔法使いの恋

 昔々ある国に、偉大な魔法使いがおりました。

 魔法使いはもう何百年も生きています。あらゆる知恵を修め、魔法の技を持ち、浮き世に生きる者どもとは、別の時間の尺度をもって暮らしておりました。

 何百年も生きているからといって、老人という訳でもありません。いつまでも魔法の力で若々しい姿を保っておりました。

 魔法使いはもう長いこと、人を愛したこともなければ哀れんだこともありません。

 魔法の妨げになる感情は、長い時の経つ間に使い古され、漂白され、失われて、いつしかないものも同然になりました。

 歌う鳥の声も、麗しい乙女の姿も、暖かいシチューの湯気ですら、魔法使いに笑顔をもたらす事はできないのです。

 そんな魔法使いを哀れに思う人もありましたが、彼はたくさん生きることに飽きないように、わざと人間らしさを捨ててしまったのです。

 こうして彼が得た力は、いつも国を救い、人々を救ってきたのでした。



 ある時、その国の王様が、ほかの国との戦争に勝ち、相手の国の王女を后として連れ帰りました。

 ほころびかけた睡蓮の花びらのような、生きる喜びが胸から溢れないように、ゆっくりと歩く王女でした。

 王女の心は澄み切った清水、戦争はその心に泥を巻き上げて、悲しみは澱となり、絶えず水底に降り注ぎました。

 国に着いた時には、王女の心は深い悲しみに病み、今にも枯れてしまいそうでした。

 しかし、美しすぎた王女の心を見る事のできる者は、国にはだれ一人いません。ただ一人を除いては。

 そう、ただ一人、魔法使いだけは、王女の見掛けの美しさに囚われる事なく、その痛々しい心を見やる事ができたのでした。

 そして、魔法使いは、王女の哀し過ぎる悲しみに、捕われてしまいました。

 故郷を失い、たった一人で憎い敵国で暮らさなくてはならなくなった少女。そして、この国の誰をも、憎みぬく事のできない少女。

 ただ悲しみ、生きる事も死ぬ事もできず、心の死ぬのを待つ事しかできなくなった彼女を、救ってやりたい。

 己の感情すら失ったはずの魔法使いは、王女の前に立つと、飽きるほどに長い命も、気の遠くなるような鍛練の果てに得た魔法の力も、まるで役にたたないことを認めねばなりませんでした。

 王女の心を暖めるには、真の心が、真の言葉が必要でした。悲しみをともに背負い、立ち向かうことを教え、生きる喜びを、その心に取り戻してやるのです。

 魔法使いは、これを叶えるための魔法を探しました。しかし、感情を忘れた魔法使いに、感情を操る魔法を使う事はできません。

 そこで魔法使いは、偉大なる魔女のもとを訪ねました。

 魔女は、魔法使いのような力はありませんが、心に関する魔法の知識が豊富なのです。

 魔女は魔法使いに言いました。

「貴方様のお心を、この世に具現して差し上げましょう。それは貴方様の心の結晶。魔法の力を使うのに最も必要なもの、つまり“意思”でございます」

 魔法使いは問いました。

「なぜそのようなものを作るのだ。吾は王女の事をそなたに頼んでおるのに」

 魔女は答えます。

「王女の冷えた心を、心の火にあてて暖める、簡単な仕組みでございます。その火を貴方様はお持ちでいらっしゃる」

 魔法使いは、眉間にしわを寄せます。

「つまり、それがあれば王女は救われるのだな」

「それは、あててやる火を作る貴方様のお心次第」

 魔法使いはうなずきました。

「ならば答えは簡単だ。吾の心は決まっておるのだから」

 魔女が作った魔法使いの心の結晶は、大きく赤いルビーとなりました。早速魔法使いはこれを使い魔に託して、王女に届けさせました。



 一人寂しい王女の部屋に、使い魔が訪ねました。

「王女様、これを届けにおいらはきたのさ、さあ受け取っておくれ。これをとれば寂しくないよ、きっと心が温まる」

 王女様は、愛らしく文句を歌いながらやってきた使い魔にクスリと笑顔を向けました。

「まあありがとう」

 石の中でちらちらと燃える暖かい光に、心細い思いをしていた王女の心は慰められました。

 遠い異国に連れてこられた王女は、自分の国を滅ぼした王様より、偉大な魔法使いを愛するようになりました。

 しかし、王女は王様の子供を孕んでいました。

 月日が経ち、国に一人の愛らしい王子が生まれました。初めての男の子に王様は大喜びして、王女に正妃の地位を与えます。そして息子に祝福を与えるために偉大な魔法使いを呼びました。

「偉大なる魔法使いよ、わしと后の子に祝福を与えたまえ」

 魔法使いは答えました。

「祝福あれ。王子は必ずや、天も地も統べる偉大な王になるであろう。吾の魔法の力の全てを、偉大なるその智恵の全てを、偉大なる王の子にささげよう」

 魔法使いはまだ赤ん坊の王子の額に、魔法の聖なる印を儀式用のナイフで刻み付けました。そして、血の染み出した王子の額に、自分の血をふりかけたのです。

 王様は、魔法使いの始めたこの異様な儀式に驚きました。

「魔法使いよ、何をしている!」

 これに魔法使いは答えず、王様に王子を差し出し自分は身を引きました。

 するとどうでしょう。魔法使いはその偉大さをなくしてただの若者となり、かわりに王子は偉大で高貴な力を身に付けたのです。

 魔法使いの高貴なささげものでした。王子に魔法使いは魔力も智恵も長命までもささげたのですから。王は驚き、国中は喜び、三日三晩の宴が始まりました。

 さて、力を失いただの若者となった魔法使い…いや、元魔法使いは、祭りの騒ぎに紛れて王妃に会いに行きました。

 王妃は産後の肥立ちが悪く、伏せっていたので、祭りにも参加していなかったのです。お付きの侍女すら祭りに興じて、病に不安な王妃はたった一人なのでした。

「愛しい人よ、吾はただの若者となり、卑しい姿なれどもそなたの姿を求めてここにやってきた。そなたの愛はもう、吾から離れようか」

 子を産んだ喜びも、王妃の心を晴らせませんでしたが、元魔法使いの顔を見た王妃の頬には、みるみる赤みが戻ります。

「いいえ、あなたはわたしにとって偉大なお方。寂しいわたしに、愛を与えて下さいました」

 力を失っても、王妃の心が変わらないことを知った元魔法使いは、とても喜びました。そして儀式の前につくっておいた、滋養のつく薬を王妃に飲ませました。

「良く効く薬だ、もう歩けるだろう。今宵国中は祭りの喧騒に包まれている。今のうちに吾とこの国をでよう。ともに二人、どこぞで幸せに暮らそうぞ」

 王妃は考えました。

「たとえ愛していない人の子供とはいえ、わたしの愛する王子。残していくのはしのびなくて…」

 元魔法使いは王妃の小さな両の手を握りました。

「吾の偉大な力の全て、そなたと王の息子にささげもうした。偉大なる力と智恵を持つ王子に、ほかに何が必要だろうか。しかし、吾にはそなたが必要だ」

 王女は迷いを振り払うかのように、ゆっくりと、しかし確実にうなずきました。

「偉大なあなたの力を持つのなら、わたしの子供はこの国の立派な王となりましょう。心配は何もありません。愛するお方、どうかわたしをこの城から連れ出して下さい」

 その夜、祭りでにぎわう城から、若者と美しい娘が固く手をつなぎ合って旅立ったのでした。

 祭りが終り、美しい王妃を失った王様はひどく悲しみました。でも王様にはまだたくさんのお后たちと、王妃の忘れ形見の王子がいました。

 王様はさすがに王様だけあって、駈け落ちした王妃への恨みを息子にかぶせたりはしませんでした。しかし、王子には一つ問題があったのです。