短編小説

 雪色想い 
 

  雪が降る。
  空を見上げれば、白い結晶が静かに降りてくる。音もなく、ゆっくりゆっくりと。
  何も聞こえない夜。
  こんな雪の日が来る度に思い出す。
  あの冬の日の出来事を。
  忘れられないあの出来事を。
 
 

◇ ◇ ◇

「オレンジジュースは嫌だって言ったでしょう! グレープフルーツが飲みたいの!!」
 差し出された紙パックのオレンジジュースを、少女は思いっきり降り払った。
「わ、わかったわ。すぐに買ってきますからね、深雪ちゃん」
 少女の母親は床に落ちたオレンジジュースを拾った後、すぐに病室を出て行った。
 白いベッドの上で少女は溜め息をひとつつく。
 開けっ放しのドアの向こうで、二人の看護婦がこっそり中を伺っているのに気がついた。
 少女が怒鳴った声が大きくて聞こえてのか、その事について二人は何か言っている様子だった。
 きっと、またあのわがままよ、とか言っているに違いない。
 二人のうちの一人と目が合った。看護婦は少し慌てた様子で行ってしまった。
 自分がいつもわがままなことを言っているのはよくわかっている。でも好きで言っているわけじゃない。何度も入退院を繰り返しても、いっこうに病気はよくならず、ちょっとしたわがままくらい言いたくなっても仕方ないじゃない。
 少女は声に出さずに自分で自分にいいわけをした。
 永居深雪、十四歳。
 艶やかな黒髪は肩の所で切り揃えられ、肌は雪を思わせるくらいに白い。その白い肌のせいなのか、形のよい唇は紅をさしていないのに赤く見える。そして少し大きめの瞳が印象的な少女。まるで日本人形を思わせるような造作の少女だった。
 長年通い慣れた病院の、住み慣れた病室で、深雪はまた過ごすことになった。
 心臓にある大きな欠陥。
 何度手術を繰り返しても、それでも普通の人のように動いてはくれない深雪の心臓。
 今回もその心臓の手術のための入院だった。 学校も休みがちなため、なかなか親しい友達ができない。こうして入院しても、見舞いに来てくれるような友達はいなかった。
「友達なんて……」
 母親に八つ当たりをして後味の悪い気分だった深雪は、ぼそっと呟いた。
 その時。
「ピィ、ピィ」
 その声は、窓際のテーブルの上に置いてあった鳥かごの中からだった。
「わかってるよ。ユキは友達だよ。たった一人の……、じゃない一羽のね」
 深雪は鳥かごの中にいる一羽の鳥にむかって微笑んだ。
 くちばしと目のまわりが紅く、体が真っ白な雄の白ぶんちょう。何年か前、自宅療養していた時に、偶然通りかかったペットショップで、まだヒナだったユキに出会った。その時、どうしても欲しくなって買ってもらった鳥だった。
 入院するたびに、一緒に連れてきた。ユキはなかなか友達のできない深雪にとって、大切な友達だった。話すことはできなくても、ユキは深雪の気持ちがわかってくれるように返事をしてくれる。
「来週、また手術だって。何回やればわたしの心臓はきちんと動いてくれるのかしらね」
 その問い掛けに、ユキはピィと一回だけ鳴いた。
 その日の夜、消灯時間を過ぎてもなかなか寝つけずにいた深雪は、こっそり病室を抜け出し、屋上へ行った。もちろん冬になりかけの夜だったから、毛糸のセーター、靴下、手袋にジャケットを着込んで。
 外は風が冷たくてひんやりとしていた。
「雪でも降ればいいのになぁ」
 深雪は冷たくなったベンチに座り、空を見上げた。
 名前に『雪』があるせいか、深雪は冬が、特に雪が降っている日が好きだった。音もなく、しんしんと降り続ける雪を、ただぼうっと一人でよく眺めていた。
「こんな時間に何しているの?」
 突然背後から声が聞こえ、驚いて振り返った。いつの間に現れたのか、すぐ近くに、深雪と同じくらいの年齢の少年が立っていた。
 真っ白いセーター、真っ白いマフラー。
 全身真っ白の人だった。
 目が合うと、彼はにっこりと微笑んだ。
「こんな夜じゃ風邪ひくよ」
 少年はそう言ってベンチに座った。
「わ、わたしが風邪をひこうが、あなたには関係ないじゃない」
 少年の人懐っこい笑顔につられて笑顔になりそうなのを我慢して、深雪は文句を言う。
「そりゃあ君が病気になっても、僕には関係ないけどね」
 深雪の体のことを気にしているのかと思えばこんなことを言う少年に、深雪は興味を持った。
「あなたこそこんなところに何しに来たの?」
「うん? 雪を見ようと思ってさ」
「雪? 雪なんて降ってないじゃない。どうしたら降ってもいない雪が見られるの?」
「君だって雪が見たいんじゃないの? さっきそう言ってたの聞こえたよ」
 少年は再び子供のような無邪気な笑顔を見せる。
 深雪は独り言を聞かれたことに対して、少しムッとした。しかしそう感じながらも、不思議とこの少年と一緒にいて不快な気分にはならなかった。
「好きな娘(コ)が入院しているんだ」
「えっ?」
 突然話題が変わって深雪が驚いた。
「雪が好きな娘でさ。見せてあげたいと思ったんだ」
「その好きな人って病気なの?」
「ああ。かわいいんだけど、すっごいわがままでさ。時々本当に病気なのかなって思う時があるくらい、見た目は元気なんだけどね」
 そう言った彼の表情は、本当にその人の事が好きなんだとわかるくらいような優しい表情だった。
 深雪は空を仰いでいる少年の横顔を黙って見つめた。
 しばらくして、少年は小さく溜め息をついた。
「今日はだめみたいだな。雪は降りそうにない。君も早く病室に戻った方がいいよ」
 少年は自分の真っ白なマフラーを深雪の首にかけ、そして立ち上がって歩き出した。
「あ、あの! 名前!」
 少年の後ろ姿を見て、深雪は思わず声をかけた。少年は深雪の呼び掛けにゆっくりと振り返って答える。
「ゆき」
「えっ?!」
「行くって書いて『ゆき』っていうんだ。じゃあね、深雪ちゃん」
「!!」
 行は手を振り、そしてドアを開けて中に入っていった。
 どうしてわたしの名前を?
 深雪はそう思いながらも声に出して訊くことはできなかった。そのままただ立ち尽くしていた。そして、行くと書いて『ゆき』と呼ぶその名前に、なぜか聞いたことのあるような感じを覚えた。
 夜風は冷たかったが、首にかけられた真っ白いマフラーは、とても暖かかった。

◇ ◇ ◇

 夢かと思った。
 朝、目が覚めた時、昨夜『行』という少年と出逢ったことは、幻だったんじゃないかと深雪は思った。しかしそれが夢じゃなかったという証拠に、ベッド脇のテーブルの上には真っ白いマフラーが置いてある。
「ユキ、昨日不思議な人に逢ったよ。もう一度逢えるかなぁ」
 ユキにエサをあげながら小さく呟いた。
「ピイ」
「ち、違うのよ。別に好きになったとかそんなんじゃなくて……。ただなんとなく不思議な感じがする人だったから……」
 深雪はユキにあわてて言い訳をした。
 ユキを見た時、その人のこと好きになったの? と言っているように感じからだった。
 好きという気持ちとはちょっと違う気がした。昨日出逢ったばかりで、それもほんの十分くらいのことだったのだから。
 でも、何かが心に引っ掛かる。優しそうな笑顔に何かを感じる。
 もう一度逢えたらいいなぁ。
 そう思った時、ほんの少し深雪の頬は赤く染まった。

◇ ◇ ◇

 味気無い朝食と昼食を食べ、特に何もすることがなく、深雪は暇を持て余していた。
 入院していると、いつも暇だった。静かな病室では一分が一時間にも感じられてしまう。
 深雪は何かを思いついたのか、ベッドから降りた。屋上に行ってみようと思った。もしかしたら、行に逢えるかもしれないと思って。
 深雪は屋上へと続く階段に向かった。その途中、ある一室の前を通りかかった時だった。
「……506の永居さんでしょう?」
 急に自分の名前が聞こえてきて、深雪の足が止まった。
 看護婦の休憩用の部屋から聞こえてきたようである。開いていたドアの影からこっそり中を伺ってみる。三人の看護婦が遅い昼食をとりながら話をしていた。
 深雪はドアの影に隠れるようにしながら、看護婦たちの会話に耳を傾けた。
「そう、そう。あのわがまま娘」
「来週手術するじゃない? 成功率低いって話よ」
「へぇ。で、どうなの? その娘の病状って」
「もう何回も手術しているらしいんだけど、今回の手術が成功しないと危ないそうよ」
「それどころか、失敗したらその場でアウトって話」
「今回はかなりの大手術なんだって。とてもじゃないけど奇跡でも起きなきゃ無理ね」
 深雪はその話を最後まで聞かないうちに、その場を離れた。
 嘘だ……。わたしの心臓が直らない?
 今度手術をすれば大丈夫って主治医の先生は言っていた。
 あれは嘘だったの?
 わたしは普通に生活することは出来ないの?
 深雪は急いで病室に戻って、布団を頭からすっぽりとかぶった。
 ユキの鳴声がかすかに聞こえていた。
 いや、いやだ……。

 夕食をろくに食べない深雪に、母親は心配していた。一言も口をきかない深雪を見て困っていたが、面会時間も終り、仕方なく家に帰っていった。
 やがて消灯の時間がきて、部屋は真っ暗になった。それと同じく深雪の心も真っ暗だった。
 いつまでたっても眠ることができない。
 昼間聞いた会話が耳から離れない。
 いつのまにか深雪の足は病室をあとにして、屋上に向かっていた。
 屋上には誰もいなかった。昨日よりも冷たい風が頬を通り過ぎていく。
 星ひとつ輝いていない真っ黒な空。何も聞こえない夜。
 その時の深雪は何も考えていなかった。
 ただ、足が一歩一歩フェンスの方へ向かっていた。少し高く感じられたフェンスだったけれど、決して登れない高さではない。目の前のフェンスに右手をかける。ギュッと力を込めて左手もかける。スリッパを脱いで裸足のままフェンスを登り始めた。
 半分くらい登った時だった。
 急に体がフワリと浮かんだ。
「ばかやろう!! 何やっているんだ!!」
 いきなり深雪の体はフェンスから引き離された。
「深雪! わかるか? 深雪!!」
 肩をつかまれ、思いっきり体を揺すられた。けれど、深雪は何の反応もしなかった。
 パンッ!
 左の頬に衝撃が走った。大きな音がしたわりには、痛くはなかった。
「行……くん?」
 フッと正気に戻った深雪の目の前にいたのは、昨日出逢った行だった。
「お前、何しようとしたのかわかっているのか?!」
 行は真剣な表情で深雪を見た。
 どうしてそんな顔をしているのか、深雪は一瞬わからなかった。
「何って……」
 深雪は自分が何をしようとしていたのか思い出そうとした。
 ゆっくりとまわりを確かめてみる。
 こんな寒い屋上で、そしてフェンスを登っていた……?
「フェンスなんか登って、死ぬ気だったんじゃないのか?!」
 死ぬ気……?
 そうだ、昼間、看護婦の話を聞いて……。
「……離して。離してよ! もういいんだから!!」
 思い出したように、深雪は叫び、肩をがっちりと掴んでいた行の手を振りほどこうとした。
「落ち着け! 深雪!」
 急に暴れ出した深雪を、行はさらに力をこめて抱きしめた。
「離して……、離してよ!」
 あたたかい行の腕の中で、深雪は泣き叫ぶ。
「死にたくない。まだ死にたくない……。いや……」
 深雪は行にすがりついた。
「何があったんだ? 深雪」
「手術しても直らないって。もうダメだって……」
「本当にそう言っていたのか? ほかに何か言ってなかったか?
「奇跡でも起こらなきゃ、もう無理だって。もうわたしの心臓はダメなんだ……」
「大丈夫だ」
「どうして?! どうして大丈夫なんて言えるの? もう何度も手術しても直らなかったのよ! 今度だってダメに決まっているわ!」
「信じろよ。奇跡は起きるって信じてみろよ」
「できない! 奇跡なんて起きない!」
「俺が起こしてやる。必ず手術は成功する。いいか、必ず手術は成功するんだ!」
「あなたに何ができるっていうの?! 奇跡を起こせるって言うなら、今すぐ雪を降らせてみせて! どう? できないでしょう? 奇跡なんか起こせる筈ないんだから」
「できるよ」
「えっ?!」
「雪、降らせてあげるよ。ほら、空を見て」
 行はゆっくりと空を指差した。そして空を見上げる。深雪もそれに続いて空を見た。
 月も星もない、真っ暗な空しか見えない。 雪なんて降る筈ない。
 そう思った時、小さな何かが瞳に映った。 な……に……?
 さっきまで吹いていた冷たい風が止んでいる。
 チラチラと小さな何かが降りてくる。
 それは手のひらでスッと溶けていく。
 空から降りてきたものは、白い小さな結晶。
「うそ……」
「嘘じゃない。雪だよ」
 寒さも忘れ、雪に見入っていた。手のひらですぐに消えてなくなっていく。しかしそれは確かに雪だった。
 あとからあとから降りてくる雪が、深雪の頬を流れる涙に溶けた。
「俺の言う事、信じてくれる?」
 深雪はこっくりと頷いた。
 夢を見ているかのようだったけれど、行の言う事は信じられる気がした。
「死にたいなんて思うなよ。手術は成功する。奇跡は起こるんだ」
「……本当?」
 ゆっくりと行は笑顔で頷いた。
「風邪ひくから、もう部屋に戻ろうな」
「うん……」
 深雪は行の肩にもたれかかり、瞳を閉じた。
 行は深雪の髪をそっとなでながら、軽く抱きしめた。
 いつのまにか雪は止んでいた。ほんの数分の不思議な出来事。今年最初の雪が舞い降りてきた夜だった。
 深雪は、大切な宝物でも抱きしめているかのような行の腕の中があまりにも心地好くて、眠くなってきた。そしてそのまま、いつのまにか眠ってしまった。
 だから深雪はこの言葉を聞くことができなかった。
「俺が絶対に死なせたりはしないから」

◇ ◇ ◇

 気がつくと、深雪は病室のベッドの中にいた。
 カーテンの隙間から、眩しい朝日が差し込んでいる。
「昨日の事……、夢じゃないよね」
 外を眺めながら、深雪は呟いた。窓の外は昨夜雪が降ったなんて思えないくらい天気がいい。
「ユキ、逢えたよ。また行君に逢えたんだ」 深雪は鳥かごの中にいるユキに声をかけた。しかしユキは返事をしなかった。いつもなら深雪が話しかけるたびに元気に返事をしてくれる筈なのに、今朝に限ってユキの鳴声は聞こえてこなかった。
 不思議に思い、鳥かごの中を覗いてみると、ユキはやはり元気がなさそうに見える。エサも水もあまり減っていない。
「ユキ、どうかしたの?」
 心配そうに声をかけると、ユキは鳴かずに顔だけを深雪の方へ向けた。
「ユキ?」
 もう一度呼び掛けてみた。するとユキは小さくピィと一回だけ鳴いた。

 それから数日が過ぎ、とうとう手術の当日となった。
 窓の向こうにはちらちらと雪が降っている。
 手術室へ行く直前に病室に来た担当医は、何事もないかのように大丈夫だと言った。安心させるために、心配はないと告げた。その言葉を聞いて、かえって深雪は緊張してしまうのだった。
「そろそろ時間だそうよ。深雪ちゃん」
 朝早くから病院に来ていた母親が深雪にそっと声をかける。
 深雪はそれに小さく頷いた。それから視線を鳥かごに移す。ユキはやっぱり元気がないように見える。
「ママ、ユキ元気ないと思わない?」
「そう? ユキもあなたの事を心配しているのよ」
「永居さん、時間です」
 看護婦が呼びにきた。
 布団の下の手の震えが止まらない。何回も手術をしてきて、こんなことは初めてだった。こんなに緊張しているのも初めてだった。
 始まるんだ。
 手術がもうすぐ始まる……。
 大丈夫。きっと大丈夫。
 必ず奇跡は起こるんだから……。
「ユキ、行ってくるね」
 病室を出る直前、深雪はユキに声をかけた。
「ピィー!」
 ユキはめずらしく大きく鳴いた。
 やがて、麻酔をかけられた深雪は深い眠りについた。
 そして……。
 手術は始まった。

 ピッ、ピッ、ピッ。
 手術室の計器の音が響く。
「先生!」
「どうした?!」
「心拍数が急激に低下しています!」
「カンフルを!」
「体温が下がり始めました!! このままでは……」

 気がつけば、真っ暗な闇の中にいた。
「ここ、どこ……?」
 深雪はゆっくりとあたりを見回した。深雪以外には何もなく、暗闇だけがあった。
「わたし、手術中だった筈なのに」
 そっと立ち上がってみる。
「誰か! 誰かいないの?!」
 大声で叫んでみるが返事はなかった。
 どこかもわからない場所にたった一人。急に不安が襲ってきた。
 その場に黙って立っているのも怖い気がして、とりあえず歩いてみることにした。しかしどんなに歩いてみても暗闇は暗闇でしかなかった。
「深雪」
 ふいに声をかけられ、その声がした方へ振り向いてみる。一瞬眩しい光が目の前に広がった。
「えっ?! 誰?」
「深雪、俺だよ」
 聞き覚えのある声。
「行君?」
「そうだよ」
 光の中から姿を現したのは、初めて逢った時と同じ白い服を着た行だった。
「ここ、どこなの?」
「ここは生と死の狭間」
「生と死……? わたし死んだの?」
 行は首を左右に振る。
「深雪、まだ信じきっていないだろう? 奇跡が起こるって言った俺の言葉を」
 深雪は返す言葉がなかった。どんなに奇跡は起こると思ってみても、やはり不安で仕方がなかった。心のどこかで、奇跡というものを信じることが出来ずにいた。
「大丈夫だよ。俺がついている。深雪は死なないよ」
「本当?」
「言っただろう? 奇跡は起きるって。だから深雪は死なない」
 行はきっぱりと言い切った。
「わたしはどうすればいいの?」
「信じていればいい。『奇跡は起こる。わたしは絶対に死なない』って」
「うん。わかった」
 今度こそ深雪は、はっきりと『深雪は死なない』と言った行の言葉を信じることにした。
「じゃあ、あとは俺にまかせて」
 そっと深雪の額に口づける。ふれたかどうかわからないくらいの軽い口づけ。
 そして行は一歩後ろへ下がった。
「待って! あなたはどうしてわたしにそんなことを言ってくれるの? あなたは一体誰なの?」
「……」
「行君?」
「いつも深雪の側にいたよ。ずっと、ずっと大好きだった。これからも深雪の事、見ているから……」
 眩しい光が行を包む。
「待って! 行君、行かないで!」
 光が眩しすぎて目を開けていられなかった。かすかに見える行の姿がどんどん小さくなっていく。
「行君!」
 そう呼んだ瞬間、光ははじけるように目の前に広がった。そしてその光が徐々に消えていくのと同時に、白い何かが降ってきた。それは雪のようだったが、やがて羽のようなフワフワした何かに変わり、そして降り続けた。「行君!!」
 深雪はもう一度自分に希望をくれた少年の名前を呼んだ。
 しかし、暗闇から明るい空間へと変わったその場所で、深雪の声だけが響いていた。

  
「……ちゃん、深雪ちゃん」
 自分の名前が呼ばれているのが遠くで聞こえている気がした。
 深雪はゆっくりと目を開けた。最初に目に入ってきたのは、母親の顔だった。
 そして次に母親のその隣にいるもう一人の人物の顔が瞳に映った。
 麻酔の切れかかった状態の深雪は、夢を見ているかのような気分でその人物の名前を呼んだ。
「ゆ……き?」
 その人はゆっくりと頷いた。
 深雪はそれを見て、安心したかのように、再び眠りについた。

◇ ◇ ◇

 手術は無事に成功した。行が言った通り、奇跡は起こったのだった。
 手術後の経過もよく、もうすぐ退院を迎えることになっていた。
「深雪、入ってもいい?」
 そう言って病室に入ってきたのは、人懐っこい笑顔を見せる少年。
「うん。どうぞ」
 その少年に、深雪は笑顔で答える。
「はい、お見舞い」
 少年は黄色いミニバラの花束を差し出した。 花束を受け取りながら、深雪は少年の顔を見つめた。
 どうして思い出せなかったのだろう。何年も逢っていなかったとはいえ、あんなにも好きだった人のことを。
 今、目の前にいる少年は、おさななじみの羽村行。小学校に入学する直前に引っ越していった初恋の人。大好きだったから、行が引っ越した時はすごく悲しかった。悲しすぎて、いつのまにか行のことを思い出さないようにしていたのだった。思い出さなければこんなに悲しい気持ちにならない、そう思った深雪は行のことを忘れようとしたのだった。
 そのせいもあって、屋上で行と逢った時、すぐに思い出せなかったのだと深雪は思った。
 行は両親の仕事の都合で、また深雪の住む街に引っ越してきた。そして引っ越してすぐ、深雪が入院していることを知り、見舞いに来たのだった。
「深雪、何か元気ない?」
 行はベッドのすぐそばに座って心配そうに深雪に顔を覗き込んだ。
「うん……。ユキが……、ずっと飼っていた小鳥が急にいなくなっちゃったの」
 手術が終り、病室に戻って目が覚めた時、すでにユキは鳥かごの中にはいなかった。誰も鳥かごには触っていない筈なのに。
 もうすぐ退院なのに、ユキはいなくなったままだった。
 ふと、深雪は白いマフラーのことを思い出した。
「そうだ、これ、返さなきゃ」
 深雪はマフラーを大事そうに手に取って、行に渡そうとした。その時、一瞬行の表情が曇った。
「これ、僕のじゃないよ」
「えっ?!」
 深雪は戸惑った。確かにこれは屋上で行にかけてもらったマフラーの筈なのに。
「でも、このあいだ屋上でこれわたしにかけてくれたよね?」
「屋上って何のこと?」
「手術の少し前に夜中に屋上で逢ったじゃない? その時……」
「ちょっと待って。僕がはじめて病院に来たのは手術のあった日だよ。僕は屋上で深雪には逢っていない」
「えっ?! だって、じゃあ……」
 訳がわからなかった。確かに屋上で逢ったのも、目の前にいるのも同じ人である。でも、目の前にいる行は知らないと言う。
 では、屋上で逢った行は誰?
 あんなにも励ましてくれたのは一体誰だったのだろう。
「ゆき……」
 深雪は小さく呟いた。今呼んだのは目の前にいる行なのか、それともいなくなったユキなのか、それとも屋上で逢った行なのか、深雪自身にもわからなかった。ただ、白いマフラーを見て、深雪は呟いた。
 街ではまた冷たい風が吹き始めた。
 深雪は無事に中学生活を送っている。もう発作で倒れることもない。
 ただ、あの奇跡が起こってから一年が過ぎたのに、深雪にはずっと気になっていることがあった。それは屋上で出逢った行のこと。そして、手術後にいなくなったユキのこと。
 どちらも深雪の前に姿を現すことはもうなかった。だから手元に残った白いマフラーを見ては思い出していた。奇跡を起こしてくれた行と友達でいてくれたユキ。
 でももう彼等がいなくても大丈夫。初恋の行がいつも側にいてくれるから……。
 でも忘れない。彼等がいなかったら、自分は生きていなかったと深雪は思う。
 だから忘れない。
 薄曇りの空を見上げる。
 今年ももうすぐ冬がくる。
 忘れられないあの夜の、奇跡の雪が舞い降りた冬がくる。
 

Fin        

 

 
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