そこは万年雪におおわれた国だった。一年中溶けることのない雪と氷の国ロトルフィア。吐く息の白さがかなりの寒さを物語っていた。どんなに厚い防寒具と帽子を身に付けていても、外は肌を突き刺すような寒さである。じっとしているとそのまま凍ってしまいそうだった。
サーラスは初めてその国を訪れた。
ラクセルス大陸で最も北に位置するロトルフィア公国。話では聞いていたけれど、これほど寒いとは思っていなかった。彼が生まれたのは、ここから南西にある温暖な土地である。冬に雪が降ることはあっても、これほどには寒くはならない。こんな寒さは生まれてこのかた17年、体験したことのないものだった。
サーラスは獣の皮で作られた帽子をかぶり直した。その帽子から炎のような紅の色をした髪が見える。周りを確かめるように見ている黒い瞳はまだ幼さが残っていた。腰に携えた長剣には、剣士としての証である深紅の宝玉がはめられている。
サーラスはロトルフィアに足を踏み入れた瞬間から、驚きと戸惑いで声を出すことが出来なかった。
なぜなら、大きいとはいえないが、一国であるロトルフィアの国中が凍りついていたからだった。大人も子供も、小鳥や家畜までもが、まるで一流の氷細工師が作ったように、見事な氷像になっていたのだった。
それらは、食事の途中であったり、転びかける途中であったり、その形はまさについさっきまで普通に動いていたかのような動きのままに凍りついていた。
「どうなってるんだ……?」
祖国を出て丸二年。あちこちを旅してきたサーラスも、こんなことを見るのは初めてだった。
いくつも立ち並ぶ氷像は、太陽の光を反射させ、キラキラと輝いている。
サーラスはわけがわからず、とりあえず話のできる誰かがいないかと探してみることにした。しかし、どこへ行っても、同じだった。一通り見て回っても、話をできるような人物は見当たらず、生き物の気配がない。
「どうするかなぁ」
もうすぐ日も暮れ始める。宿を探して泊まるとしても、こんな状況ではそれもできるかどうかわからなかった。
そんな時だった。
ツンッと上着が引っ張られた。後ろを振り返ってみるが誰もいない。再びツンッと引っ張られた。視線を下に落としてみると、ちょうど腰のあたりに頭がくるくらいの小さな女の子が立っていた。10歳ほどだろうか、くせのない銀の髪が肩のところで切りそろえられている。透けるような色白の肌はこのあたりの特有のものであろう。少女は背の高いサーラスを見上げていた。
「お願い、助けて」
「へっ?」
やっと普通の人間に出会えたと思ってホッとしていたサーラスに、少女はサーラスを見上げて言った。
「ロトルフィアの呪いを解いて」
あまりにも率直な願いに、サーラスは戸惑いながらも、少女のこの言葉によって、どうしてこの国が凍りついたのかを理解した。不可思議なこの現象は、やはり何か人的以外のことが関わっていたのだった。
しかし一言で呪いを解くといっても、術者ではないサーラスには簡単にできるはずがない。サーラスは炎の魔法も操つれる魔法剣士なのである。魔物退治とかなら得意なのだが。
「あそこにいるから。この国全てを氷像に変えた魔物が」
少女は遠く山のほうを指差した。その方向に建物が見える。
「あそこ? あそこに呪いをかけた『魔物』がいるんだな?」
サーラスは『魔物』に力を込めて言った。魔物が相手ならサーラスでもどうにかできるかもしれない。魔物がかけた呪いなら、単純に魔物を倒せばそれは解ける筈。
しかしそう聞いたサーラスの問いに対して、少女の返事はなかった。視線を建物から少女へ移してみる。つい今まで側にた少女の姿がなかった。
「お、おい?」
あたりを見回してみるが、少女はどこにもいなかった。建物を見ていたのは一瞬だったのに、少女はまるで雪がとけてしまったかのように消えていた。雪の上には足跡さえ残っていない。
返事もしていないまま、少女に強引な願いを押し付けらたようで少々機嫌が悪くなったけれど、このまま街の中で途方に暮れているよりもいいかと思い直して、サーラスは山のほうの建物へと歩き出した。
◇ ◇ ◇
山の建物までは一本道だった。楽に行けそうだと思ったのも最初のうちだけだった。建物に近づくにつれ、しだいに吹雪いてきた。それはサーラスの行く手を故意に阻んでいるかのようである。視界は真っ白で、ほとんど何も見えない。
しかし、不思議なことに青い光がサーラスを導くかように前方で輝いていた。白い雪の向こうに見えるそのかすかな光を頼りに前へ進んで行く。
サーラスはやっとの思いで建物にたどりついた。
それはかなり大きな建物だった。太い柱が何本もあり、彫刻が施されている。ここへ来る前に行ったリンシャの街の神殿と造りがよく似ていた。多分ここも何かを祀る神殿なのだろう。
入り口の扉は大きかったが、ほんの少し力を込めて押しただけで簡単に開けることができた。中に入ってみる。よく磨かれた床を歩くたび、コツーン、コツーンとよく響く。その足音しか聞こえなかった。
入り口から回廊を通り、あたりを伺う。中は無気味なくらいに静まり返っていた。人の気配は感じられない。
回廊の先に大きな扉があった。女性をかたどった彫刻が施されたその扉が何故か気になる。
サーラスは思い切ってその扉を開けてみた。
部屋の中は広いようだが、薄暗くてよく見えない。
奥に何かが光ったのが見えた。しばらく目が慣れるのを待ち、それからその方向へと近づいてみた。
「これは……」
サーラスはそれを見上げて驚いた。部屋の奥に一人の女性が凍り漬けにされていたのである。街の中の氷像と違い、太く大きな氷の柱にその女性は封じ込まれていた。
ほっそりとした顔立で、肌は雪のように白い。形のよい紅を塗った唇が印象的である。銀色の長い髪を、まるで泳いでいるかのように氷の中で揺らめかせるその姿に、心が惹き付けられる。美しいという言葉では現せないほど、その女性は美しかった。
不思議な雰囲気をまとった美女。それは人間の持つ美しさと何かが違うようにも見える。
「どうしてこんなことになっているんだ?」
サーラスは氷をコンコンと叩いてみた。よほど固いのか、とても割れそうにない。
いったいどうしたら、こんなふうに氷の中に閉じ込めておくことができるのだろうか。
サーラスは中の女性を解放できないかと思い、氷の柱を手で触りながら見ていた。
その時だった。
「あぶない!」
聞き覚えのある声が危険を知らせてきた。
サーラスはその声に反応して振り返り、すぐさま横へ跳んだ。
たった今いた場所に、無数の氷の矢が突き刺さる。さらにどこからともなく氷の矢が、サーラス目掛けて降ってきた。
サーラスは慌ててそれを避ける。素早く移動して氷の矢を避けるのだが、矢はあとからあとから降ってくる。いくら避けてもきりがない。その場は広い空間となっているから、それを防いでくれる盾となるのようなものは何もない。自分でなんとかしなければならない。サーラスは、避けながら、呪文を唱える。右手に気を集中させ、そして氷の矢目掛けて火の球を発する。勢いよく発された球は、氷の矢がサーラスに突き刺さる前に跡形もなく溶かしていった。
「誰だ?! こんなことしやがって! 出てこい!」
返事はなく、部屋は静まり返っている。慎重に、集中して様子を伺う。
突然、カタンと物音が聞こえた。それと同時にサーラスは振り返る。
音が聞こえた方に人陰が見えた。よく見ると、それは小柄な少女だった。サーラスに助けを求めた少女ではない。それよりも年上の、サーラスに近いくらいの年令のようである。柱の影に隠れ、震えながらサーラスのほうを見ていた。
震えながら、今にも泣き出しそうな少女は、サーラスと目が合うと駆け寄ってきた。そしてそのまま少女はサーラスに抱き着く。
「お、おい?!」
やっとまともな人間に出会えたとほっとする間もなく、いきなり抱きつかれ、サーラスは戸惑う。
少女は服にしがみついて離れない。自分が氷の矢に襲われたように、この少女も恐い目にあったのかと思ったサーラスは、無理に突き放すことができなかった。
「たすけて……」
少女はか細い声で助けを求める。
「だいじょうぶか? ここで何があった? ここにはあんた一人なのか?」
続けざまにサーラスは質問する。しかし少女は何ひとつ答えてはくれなかった。
いつまでも離れない少女に困りながら、サーラスはふと危険を知らせてくれた声のことを思い出した。声は確か街で会った小さな少女の声に似ていた。いや、たぶんそうだろう。しかし姿が見えない。まさか氷の矢にやられたわけではないだろうが……。
「待っていた……」
「えっ?」
少女のつぶやきがかろうじてサーラスの耳に届いた。
「あなたみたいな人はじめて。あなたはとっても力がみなぎっているわ。あなたなら、あなたなら私を満たしてくれるかもしれない……」
「何のことを言って……!」
突然サーラスの右腕に激痛が走った。ポタッと真っ赤な血が腕を伝って床へと落ちる。
「何すんだよ?!」
サーラスは少女を突き飛ばして怒鳴った。
少女の手には透き通った氷で作られた短剣が握られている。
「とっても美味しそう。あなたのその力、この国中の生き物全てと匹敵するくらい。私が髪も骨も残らず全て食べてあげる」
まるで獲物を見つけた獣のように、瞳を輝かせながら、少女は再びサーラスに切り掛かった。
「止めろ、おい!!」
サーラスは剣を鞘から抜かずに、少女の短剣を受け止めてはかわしていく。しかし繰り返される少女の攻撃は終わらない。しだいにサーラスの息があがっていく。それとは反対に、少女の息は上がることもなく、それどころか先程よりも動きが早くなっていくような気さえしてきた。
疲れてきたサーラスの動きが一瞬鈍った。少女の攻撃をかわすのが一歩遅れる。短剣がサーラスの胸元に突き刺さるその刹那。
「ばか者! 守るばかりで、死ぬ気なのか?!」
その声と同時に目の前の少女が大きく横に弾き飛ばされる。少女は壁に身体を叩き付けられた。
一瞬何が起こったのかわからなかったサーラスの前に、声の主は現れた。それは、街で助けを求めてきた小さな少女であった。淡々と両手を広げ防壁をはる。
ぼぉっとしていたサーラスが、ふいにはっとしたかと思うと、口元がぴくりと動き、そして。
「お前、俺のことばかって言ったな! お前にそんなこと言われる筋合いねえぞ!」
突然目の前にあらわれた小さな少女にサーラスは怒鳴る。少女の一言は、今置かれている状況など忘れるほど、気にさわるものだった。
「そんなこと言っている場合か。あやつを倒さねばならぬというに、何をしておる?! 炎の魔法もその剣も、ただの飾り物か?!」
「言いたい放題言いやがって! 俺だってあれが魔物なら迷わず叩き切ってるさ! だけど人間を切る訳にはいかないだろうが!!」
魔物相手なら自信がある。剣の腕も、魔法の能力も負けないつもりだ。しかし人間相手となると、剣を向けるには少々戸惑いを感じる。
「だからばかだというのじゃ。外側に惑わされおってからに。あやつは人間ではない。器は人間に見えるやも知れぬが、本当のあの娘はとうに魔物に喰われておる。あれは喰らった娘の器であって、本当は魔物じゃ!」
「器? 魔物?」
さきほど抱きつかれた時のことを思い出す。少しだけ触れた手は、冷たかった。落ち着いて考えてみると、からだが冷えたというには冷え過ぎていたではないだろうか。しかし小さな少女の言葉は簡単には信じられるものではなかった。
魔物だという少女と目が合った。すると、少女はにたりと口元を歪ませた。
「私を満たしてくれる、その力、そして命。さあ、私にちょうだい!」
姿も声も普通の少女のものとしか思えない。本当に少女は、小さな少女の言う通り、すでに死して器だけを魔物に使われているのだろうか。サーラスにはそれを確かめる術はない。
少女は右手を上へ伸ばした。その途端、無数の氷の矢がサーラスに襲い掛かる。
素早く小さな少女はサーラスの前に立ち、両手を伸ばした。
「今のわらわにはこれを弾き返すことしかできぬ。お前が何とかするしかないのじゃ! 早くせい!」
「何とかって言われても……」
いくら小さな少女に言われても、やはり切りつけることにためらいを感じる。
「あぁ、まったく! お前の目は節穴か?! これを通してあれを見てみるがよい」
小さな少女は見えない防壁で氷の矢を弾きながら、サーラスに氷でできた丸い手鏡を放りなげた。
そう大きくはない手鏡は、鏡の部分が透けて向こう側が見える。
サーラスは小さな少女の言う通りに、手鏡を襲ってくる少女に向けてみた。
鏡には少女の姿が映っている。が、しだいにその輪郭がぼやけてくる。そして最後に残ったのは……。
「わぁ!」
サーラスはそれを見て思わず手鏡を放り出した。鏡を通して見た少女の姿は、腹部は今にもはち切れそうそうに膨らんだ、醜悪な魔物の姿だった。
「やっとわかったか。ばか者め。魔物退治はお前の本業であろう? 思う存分切ってやれ」
「言われなくたって、やってやるよ!!」
やっと魔物だと認めることのできたサーラスは、剣を鞘から抜く。
「あいつのそばに行ってこれで切ってやる。援護頼むぞ!」
「早く行け!」
サーラスは小さな少女の後ろから前へと飛び出した。そのサーラス目掛けて氷の矢は勢いよく飛んでくる。しかし小さな少女の見えない壁によって氷の矢は弾き飛ばされる。
それを見た魔物は顔を歪ませた。
「覚悟しろ!!」
サーラスは自分の長剣を振り上げ、魔物に切り掛かった。
その時だった。魔物であるはずの少女の表情が一瞬頼りなげなものに変わった。か弱いと思われる普通の少女の表情に。
それを見たサーラスは、ほんの一瞬剣を降り下ろすのを躊躇ってしまった。そのスキを魔物は見逃さなかった。
氷の矢がサーラスに向かって飛んでくる。まさか直前で剣を降り下ろすことをやめると思わなかった小さな少女は、防壁を張るのが一瞬遅れてしまった。
かろうじて致命傷になるような矢は避けたが、何本かはサーラスの頬や腕をかすめていった。
「ばか者! 何をしておる!」
小さな少女の声にサーラスはハッとする。
「そこにいるのは魔物じゃ。自分が死にたくなければ、斬るしかない! それは人ではない!」
小さな少女の叫びがサーラスの耳に届く。
か弱い少女の姿を利用し、惑わしてくる魔物。質の悪い魔物である。
しかしたとえ魔物だとしても、人間の姿を持つ者に剣を向けるのは、やはりそう簡単にできなかった。自分がしなければならないことを頭ではわかっていても、心がそれを許そうとしない。しかしこのまま何もしないでいるわけにはいかない。ここで死ぬわけにはいかない。
気を取り直し、サーラスは剣を構えようとした。
その時突然、魔物はサーラスの首筋目掛けて襲い掛かってきた。
避ける間もないほどの早さで近づき、鋭いツメの生えた手で首を絞められる。
気持ちの切り替えが出来なかった一瞬を狙われた。
ギリッと音がしそうなくらいにどんどん絞められていく。苦しくて、どんどん意識が遠くなっていく気がしてきた。
『お願い、殺して……』
意識を失いそうになったサーラスの頭に直接その声は響いた。
『私の体で人が殺されるのはもう見たくないの。私はこんなことをするために生け贄になったんじゃない。お願い、私を助けて』
声は魔物に喰われる前の少女の本当のものであった。
魔物に喰い殺された少女の魂は、まだこの世に残っていたのだ。
しかし魔物はギリギリとサーラスの首を締め上げていく。
「ばか者! 目を覚まさぬか! お前が死んだら誰が彼女を救う?! 誰がこの国の民を救う?! お前は魔法剣士であろう?! 魔法剣士が魔法を使わずしてどうする?!」
小さな少女の叱咤の声。
それが耳に届いた刹那、ハッと目を見開き、サーラスはごく短い呪文を口にした。すると魔物と化した少女の顔の前に炎が現れた。一瞬魔物の手が弛む。その瞬間にサーラスは魔物を突き飛ばして離れた。
咳き込むサーラスのそばに近寄った小さな少女は、二人の周りに見えない防壁を作った。
魔物は防壁に気づかず、思いっきり体を打つ。やがて見えない何かがあることに気づいた魔物は、威嚇するように二人を睨み付けながらじっとしていた。
一息ついたかと思った時、どこからともなく現れた淡い光がサーラスを包み込んだ。その途端、魔物につけられた傷がみるみるうちに癒えていく。それと同時に、サーラスの頭の中に、見たこともない映像が映し出された。
それは、少女が生け贄としてこの神殿に来たところから始まっていた。
長いこと続いている吹雪を止ませるために、人々はこの神殿に祀られている神に生け贄を与えることに決めたのだった。それに選ばれたのが、この少女だった。
国のため、人々のためにと生け贄に選ばれ、たった一人で神殿に向かった少女。しかし少女は神殿に辿り着くことなく、道中、魔物に喰い殺されてしまった。そして課せられた使命を果たすことなく、魔物に利用された少女。
そんな哀れな少女の映像が、サーラスの頭の中を流れていく。
『お願い、私を助けて……』
再び姿なき声がサーラスの頭に響く。
喰い殺され、その姿を写し取られて魔物の自由にされるのは、本人にとって苦しみでしかなかった。
サーラスにできることはただひとつである。
「何をしておった?! 魔物を倒さずして剣士と呼べるか! 防壁は少ししかもたぬぞ。どうする?」
サーラスを気づかう言葉もなく、小さな少女は次の行動を迫る。
「……彼女は俺に、助けて欲しいと言ってきた。もう彼女は人間に戻ることはできないのか?」
息を整えながら、小さな少女を正面から見据える。
「……無理だな。彼女は魂のみの存在となってしまった。あの器は魔物のまやかしであり、少女の体はもう滅びてしまった」
目の前の姿は魔物が写し取ったために少女に見えるだけで、本当は魔物の体なのだ。
「そうか……。それなら、魔物は俺が殺す」
サーラスは剣を持ち直した。
「もう迷わぬか?」
「大丈夫だ。俺の剣で彼女が救われるなら、俺はそうすることに決めた。だから援護頼むな」
少し悲し気な声だった。こんな気持ちで剣を持ったことはなかった。
視線を魔物に移す。
目が合うと、魔物は口元を歪めた。するとメキメキと音を立てて背中を裂けはじめたのだった。二つの黒い骨ばった翼が現れはじめる。このままの姿ではかなわないとでも思ったのか、元の姿に戻ろうとしていた。それから徐々に少女の体が異形の形へと変化していく。
サーラスは大きく深呼吸した。
「行く」
その一言を小さな少女にむけて、サーラスは魔物に向かって走り込んでいった。
肩から上は少女のままの魔物は、さっきと同じような表情を作ってみせた。
サーラスは一瞬眉を寄せたが、躊躇うことなく剣を右肩から斜めに斬り裂いた。その途端、傷口からどす黒い血が飛び散る。
声にならない、かん高い悲鳴が響いた。
そしてその悲鳴と同時に、パリンッと何かが割れる音がどこからか聞こえてくる。
さらにサーラスは剣を魔物の腹部へと根元まで押し込み、そして引き抜く。
再び、パリンッと音がした。さらにパリン、パリンと音が続く。サーラスはその音が気になり、後ろを振り返った。
振り返った先には、女性が閉じ込められている氷の柱があった。よく見ると、その柱に亀裂が入っている。一度大きく入った亀裂から、さらに全体に亀裂が細かく入っていく。あっと思う間もなく、氷の柱は割れていった。
柱から解放された女性が、落ちてくる。
サーラスは急いで彼女の落下地点に入り、受け止めた。彼女の体はふわりと軽く、体重を感じさせない。彼女の瞳がゆっくりと開いていった。その瞳の色の不思議なこと。薄い紫のような、見方によっては銀色にも見える不思議な色合い。一瞬、サーラスはその瞳に捕らわれ、今自分が何をしなければならないのか、何もかも忘れ、動きが止まってしまった。
そんなサーラスに向かって、彼女は言った。
「何をしておる?! さっさと奴を始末せぬか!」
突然の叱咤の言葉に耳を疑い、一瞬呆気に取られる。
「何を惚けておる?! 早くわらわを下ろして、奴にとどめを刺せ」
その口調は、今まで防壁を張ってくれていた小さな少女の口調そのものだった。
声の質も外見も違うのに、同じように思えるのは、ただの気のせいだろうか。
そんな複雑な思いを感じているサーラスのことなどどうでもいいように、色白の美女は怒鳴った。
「早くせい!それでもお前、魔法剣士か?!」
美女の言葉にぴくりと眉を動かし、サーラスは美女を下ろした。
「わかったよ。やってやるよ!」
サーラスは魔物の方へ向くと、素早く呪文を唱える。右手を天へ伸ばした後、手のひらを魔物へ向ける。
「破(は)っ!」
かけ声とともに、サーラスの手のひらから、炎が現れる。その炎はまるで生きている龍ような動きで 、すでにサーラスの剣で致命傷を負って動くことの出来ない魔物に向かって勢いよく走る。あっという間に炎は魔物の体を包み込み、燃え上がった。
しばらくすると炎は消え、魔物は黒い燃えかすのみとなってしまった。
「これでいいのか……?」
「ここまですれば魔物も復活することはないであろう」
銀髪の美女はサーラスの隣に立ち、頷く。
「いったいここで何があったんだ?」
真実を知っているのはこの美女だと思ったサーラスは質問する。
「この娘は儀式のために選ばれた生け贄だった」
「儀式?」
「降り続く吹雪きが晴れるようにと行われるものじゃ。だがたとえ生け贄を捧げようとも自然の行為を曲げるなど不可能なこと。もし今までに儀式を行って自然が回復したというのなら、それはただの偶然じゃ。偶然を信じて儀式を行うとは愚かにもほどがある」
美女から憤りが感じられる。
「娘は馬鹿な人間どもには利用され、一人でこの神殿へ来ることになった。しかしその途中、待ち構えていた魔物に殺された。下手にずる賢い魔物じゃった。己の気配を殺して少女になりきり、そして神殿にいるわらわを封じ込めた。そして己の獲物を調達させるために、わらわの能力を引き出して国中を凍らせた。お前が来なければそのうち一人ずつ魔物に喰われていたことだろう」
「娘を助けることはできなかったのか?」
「娘は神殿に来る前に殺された。わらわとてそこまでは関与できぬ。神殿に来さえすれば、死なぬよう守ることもできたのじゃが……。そして吹雪きが止めば娘は街に帰ることができたやもしれぬ。残念なことじゃが、不幸だっとしか言いようなないのう」
二人は黒い燃えかすに瞳をむけた。
突然、その燃えかすから、白く、小さな丸い球体がふわりと浮かんだ。
球体はゆらゆらと揺らめきながら、美女の手許へと飛んでいく。両手で包み込むようにした彼女は、しばらくその球体を見つめていた。
「なんだ? それは」
サーラスは不思議な輝きを見せたそれを覗き込む。
「娘の魂じゃ。どうやら転生を許されたようじゃ。次の世は魔物に掴まることなどないよう、暮らすがよい。逝け」
美女はすっと天へむけて両手を伸ばす。
球体は美女の手許を離れ、ゆっくりふわりふわりと浮かんだかと思うと、サーラスの頭上でぴたりと止まった。
『ありがとう……』
サーラスの頭の中に直接それは聞こえてきた。魔物から解放された少女の言葉。
これでよかったのだろうか。ふとサーラスは考える。魔物に殺された少女は本当に救われたのだろうか。何ともすっきりしない気持ちではあるけれど、それでも少女が礼を残したことで、サーラスの気持ちは少し晴れたような気がした。
そして、少女の魂である小さな球体は、天上へと旅立って行った。
サーラスと美女は、球体が見えなくなるまで見送った。
「やっと終わったか」
美女は目を細め、小さく微笑む。
「ところで俺に助けを求めたあのちっこい子供はお前だったんだな」
サーラスは美女に聞いた。美女が氷の柱から解放された後、小さな少女の姿が見えない。魔物にやられたわけがないし、忽然とその姿は消えていた。
上品で、おとなしそうな外見からは考えつかない美女の話し方は、やはり小さな少女とよく似ていて、いや、まさにそのものだとしか思えなかった。
「ちっこいとはなんじゃ。あれはわらわの分身ぞ。魔物に封じ込まれはしたものの、分身を遠くに飛ばせたのは、わらわだからこそ出来ること。それにさっきから聞いておれば、わらわをお前呼ばわりするとは何事じゃ。雪と氷の精霊達の頂点にたち、ロトルフィアの地を守護するわらわに向かってなんと言う言い種。本来ならお前ごとき者は、女王であるわらわの姿を見ることさえもかなわぬというに」
突然、雪と氷の精霊の女王は高飛車な態度を見せつける。しかしサーラスも負けてはいなかった。
「助けてくれっていうから助けてやったのに、こういう時は礼くらい言うもんじゃないの? それともお偉い方は下々の者には礼をいうことなんてしないのかな? えっ、精霊の女王様」
その言葉に精霊の女王の片眉がピクリと動く。
「ふむ。そなたの言い分はもっともじゃ。少女の魂を救い、このロトルフィアを救ってくれたお前に、礼を言うぞ」
本当に感謝して言っているのかわからない礼だった。あくまで高飛車な態度は変わらないけれど、悪気があってのことではないらしいと気づき、サーラスはこれ以上気にしないことにした。
「まったく、母さんの故郷だから一度見てみたいと思ってここに来たのに、とんだ災難だったな」
「ほう、お前の母はロトルフィアの生まれか?」
「ああ。そうだけど」
「母の名は何というのじゃ?」
「クラフィナだけど?」
「クラフィナと! なんともなつかしい名じゃ。そうか、そなたはクラフィナの息子か」
サーラスの母の名を聞いた途端、精霊の女王の表情が柔らかくなったような気がした。サーラスの呼び方も、お前からそなたに変わっている。
「母さんを知っているのか?」
「よく知っておるぞ。あの娘もなかなか気丈な娘だったが。なるほど、よく見ると似ておるな。紅い髪は母譲り。目元も口元もあの娘を思い出させる」
精霊の女王はサーラスの顔を両手で包み込むように触れながら、サーラスを間近に見る。
子供の頃は母親似とはよく言われていた。成長した今も面影はあるらしい。
しかし母が気丈というのには疑問が残る。サーラスの記憶にある母は、病がちでベッドの上にいることが多かった。
「して、そなたの母は健在か?」
サーラスの表情が一瞬曇る。
「……いや、二年前に亡くなった。風邪をこじらせて、そのまま治らなかった」
「そうか……。それは残念なことよ。もう一度会いたかったのう」
精霊の女王はうっすらと涙を浮かべ、残念がった。それからサーラスを見る瞳が優しくなる。
サーラスはそんな彼女の様子を見て、母とどんな関係があったのか気になった。そしてここで母がどんなふうに過ごしていたのか知りたくなった。
「知っているなら教えてくれるか? 昔の母さんってどんなだったんだ?」
「クラフィナか? 元気のよい素直な娘であったぞ。少女のくせに無謀なところもあったな。勇敢なところはそなたと同じじゃ」
自分の知らない母が女王の口から語られる。
「他には?」
「そうじゃな、それを話すには少しばかり時間が足らないようじゃ。いずれゆっくり語ろうぞ」
「いずれっていつだよ?!」
母のことをもっと詳しく知りたかった。
母はいつもベッドの上で淋し気な表情をしていた。それにあまり昔のことを語ろうとはしなかった。そんな母の様子は、幼い目に幸福には映らなかった。
ただ亡くなる少し前にロトルフィアの話をしてくれた。その話から、あまりいい思い出がなかったように思えたのは、ただの気のせいだったのか。サーラスは気になりつつもここを訪れるまで二年かかった。
今、母を知っているという者が目の前にいる。できるなら、ここで暮らしていた母は幸福であったと言って欲しかった。
しかし精霊の女王はサーラスが望むような話を語ってくれようとはしなかった。
「いずれはいずれじゃ。わらわもそろそろ精霊世界に戻らねばならぬ。そなたには本当に世話になった。クラフィナの息子であり、ロトルフィアを救ったそなたの名を聞かせてはくれぬか?」
「サーラスだ。サーラス・リーク」
「サーラスか。よい名じゃ。わらわはリンカティスキールという。リンカと呼ぶがよい。特別に許そう」
精霊の名を教えてもらうのは珍しいことだった。精霊の名を知った者はその精霊を支配することができる。もっとも、支配できるとはいえ、気紛れな精霊である。精霊よりも能力が上でなければ完全な支配はかなわないが。それでも呼べばそれなりの能力を借りることはできるだろう。
「炎を操りし剣士サーラス。これはわらわからそなたへの贈り物じゃ」
リンカはそう言うと右手をサーラスの方へ伸ばした。その手のひらから吹雪きがあらわれ、サーラス襲った。
「わぁ!!」
何が起こったのかわからず、驚くサーラスの体が一瞬で凍りついた。しかしすぐにパリンと音を立てて、体の表面を覆った氷は割れた。
「な、なんだ?」
「雪と氷の精霊の加護じゃ。どんな灼熱の炎でもその身を焼き尽くすことはできない。炎を操るそなたにはよい贈り物じゃろう?」
リンカはにっこりと微笑んだ。
「そろそろ時間じゃな。何かあればわらわの名を呼ぶがよい。気が向けば助けてやろうぞ」
気が向けばというのはなんともリンカらしい言葉だった。
「お前の助けなんていらないぞ!」
「リンカじゃ。お前などと呼ぶな。ではサーラス、次に会う時まで息災でいるのだぞ」
そう言い終えたリンカは、サーラスのあごに手をかけてくいっと上を向かせると、サーラスの唇に自分の唇を重ねた。
「わっ?! 何を!」
一瞬だったけれど、いきなりの口づけにサーラスは驚き、後ろへ飛び退いた。
「ほんの礼じゃ。気にするな」
「気にするなって、俺、初めてだったんだぞ!」
ついそう言ってしまったことを後悔する。人に自慢できるような話でもない。過去、そういう状況になりそうな場合がなかったわけでもないのだが……。
リンカは真っ赤になってたじろぐサーラスを、可笑しそうにクスクスと笑って見ていた。
「悪い女にひっかかるでないぞ。それではな」
そう言い残し、リンカは自らの右手から出した吹雪を身にまとい、雪とともに消えていった。
後に残されたサーラスは、誰にいうわけでもなく、ぽつりとつぶやいた。
「悪い女ってリンカじゃねえのか?」
サーラスはさっきまでリンカが立っていた場所をちらりと見た。そしてそこに氷のかけらが残っているのに気がついた。それを手に取ってみる。氷は小さくてすぐに溶けてなくなった。手の先に残った水を振り払い、サーラスは大きく深呼吸をした。そして雪と氷の神殿を後にして、外へ出た。
東の空から眩しい光が輝いている。いつのまにか夜は明け、朝を迎えていた。吹雪きも止み、青空が広がっている。
ほんの少しだけあたたかい風が通り過ぎたような気がする。
街のほうへ目を向けると、煙りがあちこちで立ち上っている。人々の呪いも解けたのであろう。
「さて、行くか」
降り積もった雪の上に一歩足を踏み下ろす。
サーラスの旅はまだ続く。
故郷を飛び出し、何を求めて旅をしているのかよくわからなかったけれど、いつか自分にしかできない何かに出会うはずだと思っている。
これからどんな出来事にあい、どんな人に会うのか、それはまだ誰にもわからなかった。
Fin
●「ちょっとふりーとーく」へ
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