その日は月も星も見えないほどの暗い雲におおわれた夜だった。
時折見える夜空に走る光。そしてかなり遅れてかすかに聞こえるのは雷鳴であろうか。
嵐でも来そうなそんな危うい夜だった。
昼間の水干姿から寝巻き代わりの単衣に着替え、そして薄い衣を羽織った花梨は、明日の準備をしていた。
衣服にたきしめるための梅香を用意し、それに火を移そうとした時だった。
パチン。
小さい音ではあったけれど、静まり返った場所に響いた扇を閉じる音。
花梨は手を止めてその音のした方を見た。
「誰かいるの?」
室内のほのかな灯りに照らされる人影。長い髪に、着崩した着物姿。それは花梨がよく見知った人物であった。
「翡翠さん?!」
「まだ休んでいなかったようだね」
「どうしたんですか? こんな時間に」
先触れもなく、いや、こんな時間に訪ねて来られたのは初めてで、花梨は驚いた。
「姫君にどうしても逢いたくなってね。忍んで来たんだよ」
すっと優雅な仕種で室内に入り、翡翠は花梨の前に座る。
「そんなこと言っていいんですか。翡翠さんの恋人が泣きますよ」
突然の訪問に驚いたものの、それが怪しい人物ではなく信頼する者の一人だとわかると、花梨は冗談まじりにそう言って笑った。
「それは梅香かい?」
「はい。服にたきしめようと思って用意していたんです」
にっこりと笑いながら楽しそうに香炉を見た。
ふいに翡翠は手を延ばし、花梨の手の中にあった香炉を取り上げた。
「翡翠さん?」
「姫君は梅香ばかりを使っている。たまには違う香も良いのではないかな。例えば侍従なんてどうだい?」
「侍従も素敵な香りですよね。でも梅香は一番好きな香りだから……」
ほのかに花梨の頬が赤く染まったように見えた。
「好きなのは、香りではないだろうに」
「えっ? 翡翠さん、今なんて……」
小さくつぶやいた翡翠の言葉が聞こえなくて訊き返そうとした時だった。
今まで聞こえて来なかった雷鳴がすぐ近くに聞こえてきた。
「きゃっ」
あまりの音の大きさに花梨は耳をふさぐ。わずかに肩が震えているのもわかる。
「姫君は雷が嫌いかな。そうして怖がっていると、小さな子供のように見える」
「もう! からかわないでください、私だって子供じゃないんだから」
翡翠の年齢からすると自分はまだまだ子供の域を出ていないのかもしれないが、突然の雷に驚いたくらいで子供扱いはして欲しくなかった。
またからかうように笑われるかと思ったのだが、翡翠は笑っていなかった。
翡翠が持っていた香炉が床に転がる。
「そう、子供じゃない。だからこの時間に来たのだ」
「えっ?」
ふいに右手を取られて引き寄せられたかと思うと、視界が揺れ、あっと言う間もなく褥の上に組み敷かれていた。
「ひ、翡翠さん?! 何するんですか?! じょ、冗談はやめてください」
「そう、冗談じゃない。私はいつでも本気なのだから」
翡翠は花梨の左手を取ると、その細い指に口づけた。そしてそのまま翡翠は花梨を見る。
一瞬花梨の背筋にぞくりとするものが走った。翡翠の瞳に冗談やからかいは含まれていない。
本気で組み敷かれたのだとその時になって初めて花梨は感じた。この先に翡翠が何をしようとしているのかもおのずとわかる。
「は、放してください。じゃないと、誰か、人を呼びますよ」
「この雷鳴に君の声などかき消されてしまう。誰の耳にも君の声は届かない」
翡翠の言葉通りに、再び雷鳴が響く。
聞いたことのないほどの大きさの雷鳴に、花梨は身を震わせた。
翡翠は花梨を気遣う言葉を口にするでもなく、細い両手首を花梨の頭上で片手で押さえ込んだ。
「本気で私が嫌ならはねのければいい。本当に来て欲しい誰かに助けを求めればいい」
翡翠のあいた手が花梨の頬に触れる。
ビクッと花梨の身体が震えた。
翡翠の少し冷たい指先が花梨の頬から唇へと移動する。その形を確かめるかのように指が唇をなぞっていく。
「……!」
何かを言おうと花梨の唇が動いたが、それは声にはならなかった。
「沈黙は私を受け入れるということだよ」
翡翠はそう言って花梨の首筋に唇を落とした。
初めて受ける感触に、花梨の身体は強張る。翡翠が触れている首筋の一点が熱く感じた。
そして、翡翠の唇がつっと徐々に胸元へと滑り降りて行く。単の襟元に、翡翠の手がのびた。
「やっ! よ、頼忠さん!!」
思わず花梨は目の前にいる男ではない別の名を呼んだ。
その瞬間に翡翠の動きがぴたりと止まった。
「……それが答えなのかい?」
翡翠は静かに問う。
花梨は答える代わりに目に大きな涙を浮かべて、頼忠の名をもう一度くり返した。
「泣かないでおくれ。姫君を泣かせるためにこんなことをしたわけではない」
花梨に覆いかぶさるような体勢でいた翡翠が、花梨から身を離す。
「すまなかったね。姫君の本心がどうしても知りたかったとはいえ、やりすぎたようだ」
そっと花梨の涙を袖口で拭う。
「翡翠さん……?」
「姫君のあまりの可愛らしさに心を奪われた者がいてね、ちゃんと釘を差すために姫君の本心が知りたかったのだ」
「……」
花梨はゆっくりと身を起こした。
「君が彼の事を想っているのはその者もうすうす気がついてはいた。しかしはっきりとした確信がある訳ではなかった。想いがまだ彼に伝わっていないなら、彼と結ばれる前ならば、と、その者はわずかな望みにかけて強い想いを君にぶつけてしまうかもしれない。君の意に沿わず、そうなっては姫君は悲しい思いをするだけだ。それだけは避けたいと思っていた。だから姫君の本心が知りたかった」
「だったら……、ちゃんと言ってくれれば私……」
「『姫君が好きなのは頼忠か』とまともに訊いて教えてくれたかい?」
自分で言っておいておきながら、そう訊かれてもきっと答えないと花梨は思った。訊かれて『はい、そうです』と言えるほど余裕や自信があるわけではない。
「2人を見ているとどうにもじれったくなってね。想い合っているなら、早く伝えた方がいいと思ってしまう。この先何が起こるかわからない。今を大事にしないといけないよ」
もう片方から流れた涙も、翡翠は袖で拭った。
再び大きな雷の音が響いた。
「きゃっ」
雷が苦手なのは本当で、身がすくむ。震えは止まらなかった。
小さく震えるその身体を、翡翠は抱き寄せた。
「やっ、離して……」
「大丈夫、もうあんなことはしないから」
「で、でも……」
「雷が苦手なのだろう? こうしておけば雷も聞こえない」
翡翠は自分の胸に花梨を抱き寄せ、そしてその耳を覆った。
「君に心を奪われた者が無茶をする前に本心を聞けて良かったよ」
雷鳴に打ち消されながら、翡翠はつぶやいた。
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