雷が鳴り響き、激しい雨が降ったがそれも一時のことで、しばらくすると雷雨は去り、静寂な夜に戻っていた。
そして、土御門のその館も一段と静まり返っていた。
そんな館の広い庭の小道を、頼忠は少し早足に歩きながらとある場所へと向かっていた。
その途中、暗がりに誰かが近づいてくるのがわかった。賊かと思い身構えようとするが、それよりも先に同じ基質の気を感じた。
「翡翠殿?」
「あぁ、こんなところで会うとは……」
庭先を歩いていた翡翠はばったりと頼忠とはち合わせし、苦笑する。
「こんな時刻にいかがされましたか?」
「そんなことを訊くのは不粋というものだよ」
不粋といわれ、頼忠は眉間にしわを寄せて不快な表情をする。
確かに男がこの時間に夜歩きしていれば、考えられることはただひとつである。いつの間にこの屋敷に恋人ができたのかと思う。八葉として何かとこの屋敷に来ることが多いのだから、女房の一人や二人、翡翠の目に止まってもおかしくはないが……。そんなことを考えていた頼忠が、急にハッとして翡翠を見た。
翡翠が歩いて来た方向には花梨に当てられた離れしかない。
「翡翠殿、もしや今まで神子殿のところへ行っておられたのですか?」
よく考えるよりも先に言葉が出てしまった。
思わず口にした言葉に気まずい思いをしている頼忠に対し、翡翠は余裕たっぷりの笑みを浮かべた。
「その質問は私と姫君が『そういう仲』だということになるが?」
「……」
頼忠は言葉を詰まらせる。翡翠が『不粋』というからには、女性の許で夜の睦み事があったということを示していると思われる。頼忠の一言は翡翠の相手であったその女性が花梨だと疑っているのと同じである。
龍神の神子と八葉という立場である以上、そのような関係になりえるはずがない、あってはならないと頼忠は思う。
翡翠が花梨の住まう場所の方角から歩いて来たというだけでそう思うのは短慮であった。
「失礼いたしました。とんだ思い違いを……」
「何故そう思う?」
「は?」
ばかなことを口にしたと、素直に謝罪しようとした矢先に口をはさまれ、頼忠は戸惑う。
「思い違いだと何故そう思ったのだ? 龍神の神子とはいえ、彼女も一人の女性。それも通う男がいてもおかしくはない年齢だ」
裳着を済ませば、通う男性がいてもおかしくはないこの時代である。花梨の年齢なら、まさに花盛りといった年頃だ。
「し、しかし、神子殿は我々八葉の主であって、そのような不埒な思いを抱いては……」
「真心込めて人を想うことを不埒というのかい? それに姫君を主と仰ぐのは君であって私ではない。私は初めから姫君を女性としてしか見ていない」
「翡翠殿、まさか……」
頼忠の瞳に疑いと困惑の色が浮かぶ。
そんな様子の頼忠が何を言いたいのか、翡翠は聞かなくてもよくわかった。
「悪いがそれに答える義理はない。真実は自分で確かめるのだな」
不敵な笑みを残して、翡翠は歩き出す。
「翡翠殿!」
頼忠の呼びかけに翡翠は答えることなく歩き、やがて闇に飲まれて姿が見えなくなった。
◇ ◇ ◇
毎夜、頼忠は屋敷の警備、というより自分の主たる花梨ただ一人の安全のために自ら見回りをしていた。
この夜は院御所の警備のために館へ来るのが遅くなり、いつもの時間よりも見回る時刻は夜が更けてからになってしまった。そんな時間に誰かと会うと思っていなかったのだが、思いがけずに翡翠と会った。
その翡翠がもたらした波紋が頼忠の心に広がっていた。初めは小さかった波紋は次第に大きくなる。
疑い、不安、困惑。
心がしめつけられ、苦しい。
翡翠の口ぶりから、花梨との間に何かがあったということが感じられる。ただ、それが何なのかはわからない。
花梨の個人的なことなのだからそれに口を出す訳にはいかないと思う。しかし考えないようにしようと思えば思うほど気になってしまう。
心に広がる不安は、頼忠自身ではもう消し去ることはできなかった。
頼忠は花梨の寝所の前で立ち止まった。
室内から少し灯りがもれているのに気がつく。
「神子殿、まだお休みになられていない?」
いつもであれば灯りが消されているはずである。
この時刻に灯りがあるのは、見回りを続けて初めてのことだった。
やはり何かあったとしか思えなかった。
頼忠自らが毎夜警護しているのを花梨は知らない。
灯りが消され、周辺に妙な気配がないのを確認してその場にしばし留まる。白々と夜が明けるくらいになると自分の屋敷へと戻るのが常である。
今、いきなり声をかけては驚かせることになるだろうと思いながらも、今夜に限ってはそれを押し殺すことはできなかった。
頼忠は思い切って声をかけた。
「神子殿、頼忠です」
「えっ、頼忠さん?! ど、どうして……」
戸惑うような花梨の声音に、頼忠はさらに不安が広がり、思わず庭から室の中へと入って行った。
「神子殿、失礼いたします!」
頼忠は大胆に花梨の寝所へ押し入った。
御簾の中の花梨は単のままで、鏡で何かを見ていた様子だった。
「よ、頼忠さん、いったいどうしたんですか?! 何かあったんですか?!」
単姿が恥ずかしくて、花梨は慌ててうちぎを探す。やっと見つけてそれを手にした時には、頼忠はもっと花梨のそばに寄っていた。
「神子殿、何か変わったことはありませんんか?!」
「えっ?」
どこか普通と違う頼忠の様子に花梨は戸惑う。声音も何故か切羽詰まった感じがする。
花梨は気になって、もう一度どうしたのかと聞こうとしたが、それよりも先に頼忠が口を開いた。
「これは……」
花梨に詰め寄った頼忠の鼻に、花梨が好んで焚いていた香ではない薫りがわずかではあるが間違いなく感じられたのだ。
「この香は侍従? やはり翡翠殿がここにいたのですね」
「ど、どうして……」
すぐに侍従と翡翠を結び付けられ、花梨は驚く。
「神子殿、彼と何があったのですか?!」
「な、何って言われても……」
そう訊かれ、思わず単の襟元を寄せる。その仕種が返って頼忠を熱くさせた。
「神子殿、失礼!」
いつもであればそんな強引に花梨に触れることのない頼忠なのだが、今夜は違っていた。花梨の襟元をつかみ、軽く左右に押し広げる。
「やっ! 見ないで!」
必死で花梨は隠そうとしたけれど、ゆるくなった襟元から見える首筋の白い素肌に、わずかに赤くなった痕が頼忠の瞳に映った。
「まさか、これは彼が……」
頼忠は呆然とつぶやいた。
「よ、頼忠さん、違います! これは何でもないんです!」
花梨は慌ててその痕を手で押さえた。さきほど鏡を覗いた時に見えた痕。それは確かに翡翠が付けた痕ではあったが、それにはちゃんと理由があったのだ。とはいえ、理由があるにしろ、頼忠に見られて嬉しいものではなかった。
「彼をかばうのですか?」
声の響きが一段と低くなった。
「そうじゃなくて……。本当に違うんです! 頼忠さんの誤解なんです!」
「何がどう誤解なのです?! 貴女から彼の匂いがします。それでもまだ誤解と申されますか?!」
思わず声を荒げた瞬間だった。
パンッ。
乾いた音と共に頼忠の頬に衝撃が走る。
頼忠は一体何が起きたのかわからず呆然としていた。しかし次第に頬に熱を感じるのだけがわかった。
目の前にいる花梨の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちているのが頼忠の瞳に映った。それを見た瞬間に、自分が何をしたのかを正しく理解する。サッと血が引く感じがした。
「私が違うって言ってるのに、どうして信じてくれないんですか?!」
「神子……殿」
花梨の泣き顔は、これまで以上に頼忠の心を締めつけた。
「私が好きなのは……」
花梨は唇を噛みしめ、こぼれた涙をぐいっと拭う。そしてまっすぐに頼忠を見つめる。
「私から翡翠さんの匂いがするなら、頼忠さんが消してください」
花梨はまだ呆然としている頼忠に抱きついた。
「翡翠さんの匂いがしなくなるまで私を抱きしめてください」
頼忠の広い胸に頬を寄せた花梨がハッキリと告げた。
「み、神子殿、お放しください!」
やっと正気に戻った頼忠が、慌てて花梨の肩をつかんで引き離そうとした。しかし、花梨はしっかりと頼忠の着物をつかんだまま放さない。
「神子殿、その手をお放しください! そうでなければ、今度は私の匂いが貴女に移ってしまいます」
本当は抱きしめたいという衝動にかられているのだが、主として仰ぐ花梨にそんなことはしてはならないと、再度自覚した頼忠はなんとか自分を押さえようとしていた。
しかし花梨は一向に離れようとはしない。それどころか、さらに身を寄せて、頼忠の着物の襟をぎゅっと握りしめる。
衣の上とはいえ、花梨のぬくもりが伝わってきていた。
「……頼忠さんのならいいから」
花梨は小声ながらもはっきりとそう言った。
その一言がついに頼忠の理性の糸を断ち切った。
両手を花梨の背中に回し、強く抱きしめる。
「神子殿」
頼忠は花梨の唇に自分のそれを重ねた。少し強引なくらいの口づけ。抱きしめる強さと同じように、頼忠の花梨を想う気持ちが強く伝わっていくようだった。
頼忠は唇を花梨から離すと、再びその細い身体を抱きしめた。
「神子殿、申し訳ありませんでした」
「何を謝るの?」
唇に受けた熱と抱きしめられているぬくもりに、花梨はぼぅとなりながらも訊く。
「貴女を泣かせてしまいました。私が馬鹿な誤解をしたせいです。神子殿を疑うなど、私はなんて事を…。申し訳ありませんでした」
「いいの。それだけ頼忠さんが私のことを想っていたからだと思うから。私の方こそごめんなさい。頼忠さんに誤解させるようなそんな思いをさせてしまって」
頼忠の胸に頬をすり寄せながら花梨は話す。
「確かに翡翠さんはここに来ました。でも翡翠さんとは本当に何もなかったの。ただ私達のことを心配して来てくれただけなの」
「心配?」
「お互いに想い合っているのなら、ちゃんと気持ちを伝えた方がいいって。だから……」
花梨は顔をあげて、頼忠の顔を見た。
「私、頼忠さんが好きです」
「神子殿」
「頼忠さんだけが好きです」
嘘偽りのない真実の言葉。
花梨はこの言葉を本当は伝えてはいけないのではないかと思っていた。本来自分はこの時代にはいない存在なのである。役目を終えたら元の世界に帰るのだから、想いを残してはいけないと思っていた。
別れは仕方がないことと諦めていた。どんなに想っていても叶うはずがないと、自分から諦めていた。
『今を大事にしなければいけない』と言った翡翠の言葉を思い出す。
今は元の世界に帰ることよりも、いや、何よりも頼忠のことが大切だと思う。離れたくないと思う。
頼忠を好きだという気持ちがあふれていた。
それは頼忠も同じであったのだろう。
花梨を抱きしめる頼忠の腕の力がさらに強くなる。
「貴女に触れることは罪だと思いました。しかし、貴女に触れないことの方が罪だとわかりました。神子殿、私は貴女をお慕いしております」
「ホント?」
「はい。嘘偽りはございません。私は貴女だけをお慕いしております」
花梨を抱き締める頼忠の腕に、さらに力が込められる。
「もう貴女を離しません」
苦しくなるくらいの抱擁。しかし花梨はそれが何より嬉しかった。
「ずっとずっとそばにいてね……」
この夜、花梨は愛しい人に抱きしめられ、今までで一番しあわせな時間を過ごしたのだった。
終
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