おまじない

後編


 ヒノエがカナタを連れて航海に旅立つその当日が来た。
「ホントに大丈夫かしら……」
 望美はヒノエの出立の準備を続けながら、ぼそりとつぶやく。
「まだ心配しているのか? カナタには鷹夜をつけているし、オレの船の上で危険なことが及ぶようなことはない」
 鷹夜とはヒノエの部下で、ヒノエよりも3歳ほど若かったが、若いながらも落ち着いた性格で武芸にも秀でていた。
 それを買われてカナタの守役として抜擢され、いつもカナタのそばに控えている役目を担っている。
 その鷹夜はもちろん、頭領の息子が船に乗るのだから、船に乗る者達全員がカナタに気を配るのは確実であり、問題が起こり得る筈がなかった。
「それとも姫君はオレを信じられない?」
「それとこれとは話が別。私の目の届かないところに行くんだもの。ヒノエ君がいても心配は心配なの」
 そばにいれば守ることができる。離れていたらできることもできない。全てを自分でするには限界があるのはわかってはいるけれど、できないことがあるのはもどかしかった。
「何が起ころうとも、必ずカナタは守るから。だから望美は安心して待っていてくれ」
 ヒノエは準備する手を止めて望美を抱き寄せた。
 広い胸に顔を埋め、望美はあたたかいぬくもりを頬に感じる。
 誰よりも信頼でき、ただ一人何もかもをまかせても良いと思える人だから、望美は全てをヒノエにゆだねる。
「うん。カナタの事、お願いね」
「まかせとけ」
 ヒノエはさらに望美を強く抱きしめ、その後望美の頬を触れて軽く上を向かせる。そして薄い紅色に彩られた唇に自分のそれを近づけた。
 2人の唇が触れ合うほどに近づいたその時。
「かあさまぁ……」
 奥のふすまが開いたかと思うと、眠たい目をこすりながら寝間着姿のままのはるひが入って来た。
 良い雰囲気のところでの娘の登場に、ヒノエと望美は顔を見合わせ、ほんの少し苦笑する。
「オレ達の大事なちび姫のお目覚めでは仕方がないか。おいで、はるひ」
 大好きな父に呼ばれ、眠気も吹っ飛んだのか、はるひの顔が明るくなる。
 両親の邪魔をしたとはしらないはるひは、喜んでヒノエのところへと行く。
 ヒノエに抱き上げられ、嬉しそうに笑顔を見せたはるひだったが、ふいにヒノエの衣服が外出用のものだと気づく。
「とうさま、どっかいくの?」
 笑顔が急に曇りだす。
「ちょっと海に行ってくるよ。帰ってくるまで良いコで待ってな」
「や〜! はるひはとうさまといっしょがいいの〜! とうさまといっしょじゃなきゃイヤなの〜!」
 大人しくヒノエの腕に抱かれていたはるひが急にヒノエの服にしがみつく。
「今回はすぐに帰ってくるから。いつものように母様と待っててくれよ?」
「とうさまがどっかいくなら、はるひもいっしょにいく!」
「はるひ、わがまま言わないの。父様が困っているでしょう」
 望美ははるひをヒノエから離そうとしたが、はるひはしっかりとヒノエの服を握っているため、なかなか離すことができなかった。
「とうさまといっしょじゃなきゃイヤなの〜!」
 とうとうはるひの目から大粒の涙がこぼれた。
 一度泣き出してしまうとなかなか泣くのを止める事はできない。
 ワンワンと泣く娘に望美は困り果てる。 
 ヒノエもまたどうしたものかと、ぴったりとしがみついたままの娘を見つめる。
 出立の時刻も迫って来ているため、それほど猶予もなかった。
 そこでヒノエはこうつぶやいてみる。
「姫君の流す涙は綺麗なものだけど、男を困らす涙は嫌いだな」
 ヒノエの『嫌い』という言葉に、はるひはぴくりと肩を揺らす。
 大好きな父に『嫌い』と言われのは、何よりもはるひにとってはイヤなものだった。
 果たして、それは絶大な効果をみせる。
「とうさまは、はるひがきらいなの?」
 大きな瞳に涙を浮かべたまま、はるひはヒノエを見上げる。
 不安に満ちた瞳をする娘に、ヒノエは笑顔を見せた。
「はるひを嫌いなわけないだろう。でも泣き顔のままだと好きにはなれないな」
 そう言われてははるひもいつまでも泣いているわけにはいかない。
 泣きたいのをぐっとこらえる。
 そうして涙がひくと、ヒノエははるひの頭を撫でた。
「泣き止んだな。ようし、偉いぞ」
「とうさま……」
「うん?」
「とうさまははるひといっしょじゃなくてもさみしくないの?」
 恐る恐るヒノエを見ながらはるひは訊く。
「淋しいさ。可愛い姫君の顔を拝めないのは心が痛いくらいに淋しく思うよ」
「はるひもとうさまがいないととってもさみしいの」
「土産をたくさん買ってくるから、ちょっとの間だけ我慢してくれな?」
「じゃあね、はるひがさみしくないようにおまじないしてくれる?」
「おまじない?」
「おでこにちゅーってするの」
「お安いご用さ」
 はるひの前髪を掻きあげて、ヒノエはその小さな額に口づけた。
「これでもう淋しくないな?」
「さみしいけど、がまんする」
「姫君に我慢させるのはつらいけど、そう言うはるひが大好きだよ」
『大好き』の一言で、はるひの顔にぱぁっと花が咲いたように輝いた。
「母様のこと頼むな」
「うん!」
「さ、着替えておいで。立派な姫君はいつまでも寝間着でいるもんじゃないぜ?」
「はーい! とうさまもはやくかえってきてね」
 最後にはるひはチュッとヒノエの頬に口づけて、ヒノエの腕から離れた。
 そして、入って来たふすまの向こうへと戻って行った。
「ふぅ、やっとちび姫の機嫌が治ったな」
 少しばかり疲れたような素振りで、ヒノエはつぶやく。
 そんな様子のヒノエを、望美は無言で見つめていた。
「どうした?」
「……なんだか浮気の現場を見たみたい」
「はぁ?」
 ぼそりとつぶやいた望美の一言に、ヒノエは驚く。
「だって、ヒノエ君の口調、女性を口説いているみたいなんだもん」
 ヒノエは今のはるひとのやりとりを思い返してみる。
 確かに考えようによっては、別れを惜しむ恋人を諭しているようにも思えた。
 しかし。
「ぷっ、はははは!」
 突然ヒノエは楽しげに笑い出した。
「ヒノエ君ったら、笑う事ないじゃない!」
 どんなにふうに見えたとしても、実際は父と娘とのやりとりである。『浮気の現場』などと言われては、笑うほかはなかった。
「はるひが相手じゃいくら望美でも勝つのは難しいかもな」
「もう、ヒノエ君ったら……」
 そして望美も笑い出した。
「それにしても、はるひもやっぱり望美の娘だな」
「どういう意味?」
「夫婦になった頃、航海に出るオレにお前は『離れて淋しくないのか』ってよく言ってたよな?」
「そ、そうだったかしら?」
「『離れるのはイヤだから私も一緒にに行く!』とも言ってたよな?」
 水軍は女人禁制のため、一度は男装して入り込もうとしたこともあった。
「望美は、今はもうオレがいなくても淋しくないのか?」
「言わないとわからない?」
「はるひのようにはっきり言わないとわからないな」
「言わなくてもわかってるくせに。淋しくないわけないじゃない」
「それなら、望美にもおまじないしないといけないな」
 そうして、ヒノエは望美にも淋しくないようにとおまじないをする。
 しかしそれははるひの時のように額への口づけではなく、唇へのおまじない。
 離れるのを惜しむかのように、長いおまじないだった。
「気をつけて行って来てね」
「ああ。オレの帰り、待っててくれな」
 2人は見つめ合って微笑んだ。
「なぁ、望美」
「なあに?」
「オレは淋しくないようにおまじないをしたのに、オレの神子姫様は航海の無事を祈ってくれないのかな?」
「えっ?」
「『神子姫の航海安全の祈りをぜひ』」
「……もう、ヒノエ君ったら」
 望美は小さく笑うと、ヒノエの首に手を回し、そっと唇を重ねた。

                                    終

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<こぼれ話>


望美「やっぱりヒノエ君って女の扱いが上手よね」
ヒノエ「女の扱いって、まだ幼子じゃないか」
「幼くても手を抜かないでしょう」
「望美、自分の娘に妬いているのか?」
「そ、そんなわけないでしょう!」
「甘い言葉が欲しいのならいくらでも言ってやるぜ。もちろんそれ以上のこともね」

 

子供編、最後は夫婦らぶらぶ〜って事で。
後編のちび姫ちゃんネタは友達の子供を見て思い付きました。
その時は、私と友達と2人で出かけようとして、大泣きされました(^^;)
『ママと一緒じゃなきゃヤダ〜!』と。
パパ(友達の旦那様)はとっても困っていました(^^;)

   

 

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