永遙の花嫁

第八話 〜来訪〜


 

 

 ヒノエの両親と対面し、そしてヒノエの許嫁の存在を知らされた翌朝。
 前日の緊張と思いがけない出来事とで疲れたのか、望美はなかなか目を覚まさなかった。
「望美様、そろそろお目覚めの時刻でございます」
 頃合いを見計らって望美の寝所を訪れた凪乃が望美に声をかけた。
「う〜ん」
 声をかけた凪乃の声に望美は反応するも、起きる気配はない。
「望美様、お時間でございます」
「もうちょっと寝かせてぇ……」
「望美様、朝餉の用意もそろそろ整う頃でございます」
「う〜ん、ご飯……食べる〜」
 もぞもぞと動きつつも、やはり横になったままである。
 凪乃は小さく微笑んだ。
 熊野別当の奥方となる女性のお付きになるのだと聞かされていただけに、どんな高貴な女性なのかと緊張していたのだが、この数日の様子から感じる望美は、気取ったところがなく親しみやすく、侍女達にも気軽に話しかけてくれる。
 そしてこんなふうに朝起こしたりしていると、まるで手のかかる妹に声をかけているかのようだった。
 近いうちに奥方となる方を『妹』と思うのは恐れ多いことだと思いながらも、凪乃は望美に好意を感じていた。
「さ、望美様」
 もう一度呼びかけた凪乃は、不意に肩を軽く叩かれたことに気づき、振り向いた。
「あ、別と……」
 振り向いた途端、凪乃は口を覆われた。
 気配を消して望美の寝所に現れたのはヒノエだった。
 ヒノエはスッと人差し指を自分の唇に持って行き、静かに、という合図を凪乃に送る。
 その意を理解した凪乃はコクッと頷いた。
 するとヒノエは凪乃の口を押さえていた手を離し、感謝するとでも言いたげに軽くウインクをした。
 そしてヒノエは寝ている望美のそばに行くと腰を下ろし、そのまま望美の隣で横になった。
 褥に肘をつけた右手で頭を支えながら望美の顔を見る。
 すやすやと寝息を立てて眠る望美。
 ヒノエにまったく気づかずに望美は眠り続けていた。
 ヒノエが来た事で望美を起こすことのできなくなった凪乃は所在なげに二人の様子を見つめていた。しかし、二人の様子を見ているうちに、次第に見てはならないものを見ている気がしてきた。
 望美の寝顔を見つめるヒノエの瞳は優しい。
 ただ黙って見つめているだけなのに、ヒノエの望美への愛が伝わって来そうで、見ているだけでドキドキしてくる。
 凪乃は二人を邪魔してはいけないと思い、軽く一礼すると黙って部屋を出て行った。
 ヒノエは凪乃がいなくなったことに気がついたものの、特に気にする事はなく、視線を望美に向けたままだった。
 一度は目覚めかけたが、凪乃が声をかけなくなったことで再び眠りについた望美。
 しばらく黙ってヒノエは望美を見ていたが、ふいに望美の髪を一房手に取り指に絡ませた。
 艶やかな髪はするりとヒノエの指から滑り落ちる。
 ふと何を思ったのか、ヒノエは望美の髪を手に取るとその髪の先端を望美の鼻へ持って行き小さく揺り動かした。
 それがくすぐったかったのか、望美は顔をしかめ、そして息を吸ったかと思うと。
「は、くしょんっ!」
 望美は大きなくしゃみをしたのだった。
「う〜ん……」
 望美は一つ大きな伸びをする。
「やっとお目覚めかな? 眠り姫」
「……う〜ん?」
 まだ目がとろんとしていて半分眠りかけている望美は、何度か瞬きをした後、ハッと何かに気づいて飛び起きた。
「ヒ、ヒノエ君?!」
 望美は布団代わりにしていた薄衣を胸元をかくすように引き寄せた。
「な、なんで私の横にヒノエ君がいるの?!」
「望美がなかなか起きて来ないから、オレが起こしに来たの」
「お、女のコが寝ているところに、か、勝手に入るなんて、し、失礼よ!」
「目覚めて一番最初に見るのがオレの顔じゃ不満だった?」
「そ、それは……」
 そう訊かれれば否とは望美には言えない。
 目覚めて最初に見るのが好きな人の顔なのは、むしろ嬉しい。
「あぁ、目覚めの口づけをしなかったから怒ってるんだ?」
「お、怒ってないけど……って目覚めの口づけなんて勝手にしないで! と、とにかく、着替えるから出て行って!」
「着替えならオレが手伝うよ。これ、脱がせばいい?」
 ヒノエは望美を背中から抱きしめながら、望美の白い単衣の襟元に手をかけた。
「ヒ、ヒノエ君!」
 このままだと本当に脱がされそうで、望美は顔を真っ赤に染めて抗議した。
 そんな望美の様子に、ヒノエは笑い声をあげる。
「その様子だと目はしっかり覚めたようだな?」
「ヒノエ君のバカ!」
 さすがにからかわれたのだとわかった望美は怒った。
「望美がいけないんだぜ? オレは早く会いたかったのにお前はぐーすか眠ってるんだから」
「そ、それは私が悪かったかもしれないけど、だからって……」
「お前がオレの寝所に来てくれればこんなことはしないけど?」
「で、でも……」
 ためらう望美の口調にヒノエは小さくため息をつく。
「それは祝言の日までダメだって言うんだろう? あ〜、早くお前と一緒に朝を迎えたいもんだぜ」
 正式に祝言をあげるまでは寝所を別々にしたいと言ったのは望美だった。
 ヒノエと一緒にいたい気持ちは強いが、やはりまだ恥ずかしさの方が強い。ヒノエの自分を想う気持ちはわかっているし悪いと思うのだが、口づけ以上のことにはまだ踏み出せなかった。
「そんな顔するなよ。望美が嫌がる事はしないよ。それにすぐに祝言の日取りを決めてやるさ。そうしたら寝てる隙なんてないから覚悟しておけよ?」
 ヒノエはぎゅっと望美を抱きしめた。
 その時、急いでこちらに向かってくる足音が聞こえて来た。
「べ、別当殿!」
 さきほど出て行った凪乃が大慌てで戻って来たのだった。
「どうした、そんなに慌てて」
 ついさっきまで望美と楽しげに戯れ合っていたヒノエだったが、屋敷の主人らしく落ち着いた口調でヒノエは訊いた。
「あ、あの、今、別当殿にお目通りをいう方がいらっしゃって……」
「こんな朝早くからか? 一体誰だ?」
「そ、それが……」
 ちらりと凪乃は望美に視線を送る。
 その様子にヒノエは望美には知られたくない人物が来たのではないかと察する。
 それならその人物がいるところまで自分が行くしかないかと思った時だった。
「お、お待ちくださいませ!」
 別の侍女が慌てて誰かを止めている声がヒノエと望美の耳に届く。
「どうか向こうでお待ちくださいませ!」
「こちらにヒノエ様はいらっしゃるのでしょう?」
 慌てる侍女とは正反対に、落ち着いた声が聞こえる。そしてあっと言う間もなく二人の前に姿を現したのは胡蝶だった。
「ヒノエ様、おはようございま……」
「あ、あなた……」
 望美は胡蝶がこの場に現れたことに驚く。
 そして胡蝶もまた一瞬驚きの表情になった。
 胡蝶が目にしたのはヒノエ一人ではなく、単衣姿の望美を後ろから抱きしめているヒノエ。
 褥でそのような姿をしている男女を目にしては、さすがに戸惑うものがあるのだろう。
「朝から……仲睦まじいことですわね。お邪魔してしまいましたかしら?」
 そう言った胡蝶だったが、その表情には悪かったという含みはまったく見られなかった。
「お前、何故ここに来た?」
「あら、丹鶴様よりご連絡ありませんでしたかしら?」
「母上から連絡だと?」
「別当殿! 火急の用件でございます!」
 やり取りの最中、今度は屋敷に仕える男が現れた。
「今度は何だ?!」
「別邸より使いの者が参りまして、これを別当殿にお渡しいただきたいと」
 その男は一通の書状をヒノエに手渡した。
 サッと、その書状を広げてヒノエは文面に目を走らす。
 内容は簡潔なものだった。

 『胡蝶を別当屋敷に迎え入れなさい』

 それだけだった。
「丹鶴様からの書状ですわね。わたくしったら、ヒノエ様に会いたい一心で急ぎ参りましたものだから、丹鶴様のお使者を追い越してしまいましたのね」
 胡蝶は笑顔でそう言った。
「ヒノエ君、それには何て……」
 望美は気になってヒノエに訊いたが、ヒノエは答えずに書状をくしゃりと握りつぶした。
「……凪乃、椿に部屋を用意しろ、と伝えろ」
 椿とは、屋敷に関して取り仕切っている古参の侍女である。
「えっ、お部屋を、ですか? 恐れながら、この方は……」
「……母上の客だ」
 ヒノエは短くそう言ったが、胡蝶はその言葉に反論した。
「ヒノエ様、ちゃんと紹介してくださいな。わたくしはヒノエ様の許嫁なのだと」
「い、許嫁?!」
 ヒノエに会いたい女性が訪れたとなれば、事情はしらないまでもヒノエに関係のある女性だとは思っていた。しかしまさか許嫁と呼ぶ女性だとは凪乃も思わなかった。それなら望美はどうなるのだろうかと心配になり、視線を望美に向ける。
「『母上の客』だ。いいから、早く行け、凪乃」
「は、はい」
 イライラした口調で告げられたヒノエからの命令に凪乃は従い、その場を後にした。
「意地悪ですのね、ヒノエ様は」
 断固として許嫁と認めないヒノエの言葉に、胡蝶は少し恨めしそうにつぶやいた。それでもすぐに表情は笑顔に戻る。
 視線をヒノエから望美に向けた胡蝶はにっこりと笑顔を見せた。
「ということで、本日からわたくしもこのお屋敷に住まう事になりましたの。どうぞよろしくお願いしますわね、望美様」
「え、あ、はい。こちらこそよろしく……」
 展開が早過ぎて何がどうなっているのか事情が飲み込めない望美だったが、胡蝶の笑顔につられてこんなことを口にする。
 そう言いながらも、何故こんな挨拶を交わしているのか、望美は理解できずにいた。



 

第七話                                     第九話 

 


<こぼれ話>

 前半無駄に長過ぎたような……(^^;)
 ほっとくと、いつまでもいちゃいちゃするヒノエ君と望美ちゃんです。
 別当屋敷に乗り込んで来た胡蝶さん。
 いよいよ、望美ちゃんと直接対決です。
 
 
 

    

   

  

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