永遙の花嫁

第十七話 〜満月〜


 

 

 月が中天を少し過ぎた頃。
 足音を忍ばせてはいるが、誰かが近づいてくる気配が感じられた。

 やっぱり来たか。

 ヒノエは口には出さなかったが、呆れたようにつぶやいた。
 こんな予想が当たっても何もおもしろくない。
 屋敷に泊まらせることなどせずに、さっさと追い出しておけば良かったと思う。
 姿を見ずとも、誰が近づいているのか、ヒノエにはわかっていたのだった。
 
「春風に たなびく雲の たえ間より
   もれいづる月の かげのさやけき 」

 頃合いを見計らい、ヒノエは歌を詠む。
 その瞬間、ギクリと息を飲む雰囲気が伝わって来た。
 ゆっくりとした動作でヒノエは振り向いた。
「おや、三嶋屋殿ではないですか」
「べ、別当!……殿」
 思わず大きな声をあげてしまう。
 まさかこんな夜更けに誰かと出会うとは思わなかった三嶋屋は、驚きの表情を隠せなかった。
「どうされましたか? こんな夜更けにこのような場所で」
「あ、いや、寝付けかなかったもので、そ、そのちょっと気晴らしに……」
「客間からここへはずいぶんと遠いのに、よほど寝付かなかったご様子ですね」
「あ、あまりにこの屋敷が広くて、ちょっと迷ってしまいましてな」
 ハハハ、と力なく三嶋屋は笑いを漏らした。
「別当殿こそ、このような時間にお一人で何を……?」
「私ですか? 先ほどまで、月を愛でておりました」
「月、ですか?」
 唐突に「月」の話を持ち出され、三嶋屋は不思議そうな顔をしながら空を見上げるが、そこには暗闇が広がるばかりである。
 そんな三嶋屋には構わず、ヒノエは続ける。
「それは美しい満月で、そしてあまりにも可憐でしてね」
 そこでヒノエは意味ありげに口角を上げた。
「つい熱く愛でてしまったのですよ」
 その言葉から、三嶋屋は何か勘づいたのだろうか。
 一瞬表情が固まる。
「そういう訳で、慈しみ過ぎて火照った躯を冷ましていたところなんですよ」
 単衣姿のヒノエ。
 襟元を若干乱したその姿は艶っぽい。
 それはまるで睦事の後のように。
「三嶋屋殿も月にご興味がおありでしたか? 残念ながらもう姿を隠してしまったようですが」
「そ、そこまで別当殿が愛でられる月なら見てみたいものでしたが、それは残念、残念だなぁ」
「もっとも、誰もが愛でられる月ではないですけどね」
 そう言ったヒノエの眼光は鋭い。
 さっきまでとは違う射るような視線に、三嶋屋はたじろいだ。
「そ、それでは私はこれにて部屋に戻らせていただきます。あ、明日は早くここを発ちますので。し、失礼」
 三嶋屋は逃げるようにそそくさと戻って行った。
 その後ろ姿を眺めつつ、ヒノエは重いため息を吐いた。
「人の屋敷でこうも大胆に夜ばいをかけるとは。ある意味大物だな」
 寝付けないなどとは大嘘である。
 三嶋屋の目的は望美であった。
 ヒノエは三嶋屋が今宵望美のところへ忍んで来る事を予想していた。
 望美の見事な舞を見て興味を持った三嶋屋がその後どんな行動を取るか、それはヒノエの想像通りだった。
 深夜、皆が寝静まったところにこっそりと望美の許を訪れるつもりでいたのだ。
 どこで望美の居場所を探り当てたのかはわからないが、間違いなく三嶋屋は望美の部屋を目指していた。
 望美のいる場所へ行くにはこの渡殿を通るしかない。
 そこでヒノエは、ここで見張っていれば必ず三嶋屋の夜ばいを阻止できると考えた。
 単衣姿でこの渡殿にいれば、はっきりと口に出さずとも向こうが勝手に誤解する筈である。
 ヒノエが何を、いや、誰を愛でていたのかを。
 満月の別名は『望』。
 美しい満月は、すなわち『望美』を示している。
 ヒノエは直接望美の名を出しはしなかったが、「月」という表現で望美を指していたのだった。
 遠回しの表現ながら、それを理解できた三嶋屋も馬鹿ではないのだろう。
 それ以上踏み込んだりせず、慌てて逃げ出したのだった。 
「誤解ってのが悔しいところだけどね」
 本当に望美と共寝していれば、こんな手のこんだことはしなくても良かったのだ。
 たとえ望美のところまで三嶋屋が辿り着いたとしても、二人の仲を見せつければ良いだけの事なのだから。
 睦言の最中に押し入って来るような愚か者はいないだろう。
 それなのに、ヒノエは深夜まで待ち伏せしなくてはならなかったり、望美を罰という口実で姿を隠したりしなければならなかった。
 望美を塗籠に閉じ込め、凪乃には誰かが訪れた場合に望美の不在を伝えるように計らったのは、ただの罰ではなく、万が一を考えての事である。
 渡殿を通らずに侵入できる方法が皆無という訳ではないからだ。
 本当の理由を知らない望美には気の毒だったが、念には念を入れておかねばならなかった。
「オレでさえまだ共寝してないというのに、誰が許すか」
 ヒノエは吐き捨てるように言うと、その場に横になった。
 念のため、という訳ではないが、もうしばらくヒノエはその場に残り、見張りに徹するのだった。







 

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<こぼれ話>

 大事な姫君に夜ばいをかけるそんな不届き者は、捕まえて簀巻きにして熊野川に捨ててやる!というのが本音でしょう(笑)


 
 

    

   

  

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