西国三十三所巡り
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第十五番 今熊野観音寺  昔より たつとも知らぬ 今熊野 仏の誓い あらたなりけり
今熊野観音寺は、清水寺からだと、車も人もたくさん往来する祇園を抜け、渋滞が少し楽になったところにある泉涌寺道を入る。狭いのでうっかりすると見過ごす。少し登り坂で、車一台しか通れないような、山門をくぐりしばらく歩くと看板があり、左に折れる。第十五番 今熊野観音寺
小さな下り坂があり、紅い橋が架かっている。
橋を境に道は登りになり、登り切ったところに大きな銅像がある。
これが、子護弘法大師像で、子供達3人を大きな体で守っている。
本堂は、もとは奥の院順礼堂だったものというが、隆盛を極めた時期の本堂はすごかったに違いない。
二層の本瓦葺きで、質素である。
ここ今熊野観音寺は、東寺で修業していた弘法大師が、東山に奇端のあることを感じ、訪ねてみると熊野権現の化身という白髪の老人に会い、十一面観音を与えられた。
そこで、八二五年頃(平安時代)嵯峨天皇の勅願により弘法大師が開創したという。 
その後永暦元年(1160年)に後白河法皇が山麓に熊野権現を勧請し、新那智山と号し、今熊野観音と名付けたという。
当時は隆盛を極め、境内は20町もあったというで、熊野古道で歩いた、「今熊野神社」は同じ境内にあったことだろう。
しかし、応仁の乱で全山を焼失しすべてを失ったという。
現在の建物は、正徳年間(1711〜15年)宗恕祖元律師によって再興したものといわれる。
廃仏毀釈で仲を裂かれて別物となってはいるが、熊野権現の流れを汲むということで歴史の深い寺である。

頂いたパンフレットに、

第十五番 今熊野観音寺「今熊野観音には昔から珍しい枕の信仰があります。後白河法皇が頭痛でお悩みの時に観音様が枕元に立たれて、御霊験を発せられたことから枕の信仰が生まれました。今でも多くの人々が毎朝ご祈祷される「枕カバーのお護り」を授かっておられます。皆様も是非、この御利益を受けてお参り下さい」
とあった。古式ゆかしいところで、カバーという英語を使われると、いささか御利益が薄れるような気がする。もっと由緒正しい表現はなかったのかと、少し残念である。

ほかにも智恵授かりの霊験あらたかな本尊として広く信仰され、又ぼけ封じ観音第一番霊場ならびに京都七福神巡りの恵比須神を祀っている。
しかし、こうしてみると、観音様というのは何でもありで、そういう意味では、現代にも通じ、信仰が絶えない原因でもあるのかと思う。
境内には、ボケ封じ、ガン封じ、ヘルニア退治とか、病気の快癒を願った少しお年寄り風の小さな地蔵がたくさん置かれている。

五智水は、弘法大師が、錫杖で岩を突いたところ、清水が湧きたという。境内の鐘楼近くでその水が湧いているらしい。
小高いところに、二重の塔があり、そこへの道筋に三十三カ所の模型がある。
古道などのルートはともかく、こうした安近短的な作り物の巡礼コースはない方がいい。
第十五番 今熊野観音寺 第十五番 今熊野観音寺
(案内板と橋)
第十五番 今熊野観音寺
(大師堂)
第十五番 今熊野観音寺
(三十三カ所の模型)
第十五番 今熊野観音寺
(子護り弘法大師)
第十五番 今熊野観音寺
(ボケ封じ観音様の看板)
第十五番 今熊野観音寺
(五智水)
第十五番 今熊野観音寺
(観音様の足下にあるお地蔵さん)
第十五番 今熊野観音寺

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