[[[ 驟雨 ]]]


 峰岸に着くと、親父は相変わらず窓口の向こうでスポーツ新聞を読んでいた。
「うなぎ、うまかったです」
 と、声をかけると、鼻眼鏡越しにじろりと見て、
「そうだろう」
 と、窓口から出てきて、相好を崩した。
「で、なんていってた、川勝は?」
「とても混んでいて、忙しそうだったので、声をかけませんでした」
「なんだ。ちょっと一声かけりゃいいものを」
 途端につまらなそうな顔になった。
「申し訳ありません」
「まあ、いいや。アキラ!」
 親父は奥に向かって怒鳴った。しばらくして、Tシャツにジーパン姿の、背のやたらに高い青年が眠そうな顔をしてやってきた。
「この人だ。春日屋んとこまで、送ってってくれ」
「はい」
 よろしくと、私は青年に頭を下げた。青年は大儀そうに大きな体を折って、挨拶した。
「車は裏の方ですから」
 そういって、私を裏口の方へ案内した。
 私らの背中に浴びせかけるように、親父が怒鳴った。
「アキラ! シンコのいいのが入ったってぇから、ちゃんと貰ってくるんだぞ。それから途中でアブラ売ってるんじゃねぇぞ。三時から受付、交代なんだからな!」
 青年が、私の方を見て、顔をしかめた。私も、しょうがないねという表情で、これに応えた。
 車は軽のワゴンだった。車内はむっとするような暑さだった。それでも走り出してしばらくすると、いくぶん暑さがやわらいだ。
「あそこ、ダフレン町っていうんだってね」
 私が話しかけた。
「ええ」
「どういう意味なの?」
「さあ、自分は興味ないっすから」
 それっきり会話が途切れた。
 程なく春日屋旅館の前に着いた。
玄関前にはきちんと打ち水がしてあって、すでに客を迎える体制ができていた。
 青年が先に立って中に入り、奥へ声をかけた。昨夜の老人が片たすきと前掛け姿で、小さな風呂敷包を手にして出てきた。
 昨夜と同じように上がりがまちに座ると、ごくろうさんと、青年に風呂敷包を手渡した。青年は腰を屈めるようにして頭を下げ、これを受け取った。
「それじゃ」
 こういって、私の方を見ると、すたすたと車の方に戻っていった。その背中にありがとうと声をかけた。
 老人はきちんと座りなおして、
「いらっしゃいませ」
 と、深々と頭を下げた。
「お世話になります」
 と応えると、老人は身軽に腰を上げ、
「お部屋はお二階です」
 と荷物を持って、私を招き入れた。
案内された部屋は、一番奥の、二畳程の控えの間がついた八畳間だった。ぐるりと見回したが、エアコンらしきものはどこにもなかった。その割には涼しかった。開け放たれた窓から、よしずの簾を通して、心地よい風が吹いてきた。
 床の間には枯山水の軸が掛けられ、青銅の壷が置かれていた。あとは部屋の中央のがっしりとした座卓と、隅の方のこじんまりとした姿見が置かれているだけだった。余計なものは何もなかった。
 私は、たちまちこの部屋が気に入ってしまった。
「ご覧のように、手前どもではエアコンもテレビも置いてございません。ご不自由かもしれませんが、どうぞお許しください」
「とんでもありません。私はとてもこの部屋が気に入りました。本当に」
「お気に召したらなによりです」
 老人が階下に降りた後、私が畳の上にごろりと大の字になった。
 懐かしい気持ちが全身に広がった。背中の畳の感触が心地よい。
 その感触を楽しんでいるうちに、いつのまにかうとうとしてしまったらしい。
 ポツ、ポツと、軒を叩く雨の音で目が覚めた。
 気圧がぐんと下がり、外はもう真っ暗になっていた。あわてて起きあがり、簾を巻き上げると、あたりはすっかり夕立の気配だ。急いでガラス戸を閉めて回る。窓の外はうっそうと木が繁り、その木々の間から神社の甍らしいものが見え隠れしている。涼しさの一部は、この境内の木立がもたらしてくれたものであることがわかった。
 そうこうしているうちに、雨足が一層早くなってきた。庇を打つ雨音が激しくなった。 床柱に寄りかかり、私はその音をじっと聞いていた。美しい音色だった。子供の頃、一人でこんな風に雨音を聞いていたことが思い出された。つらい思い出が一つひとつ浄化されていくような気がした。じっと聞き入った。
ゆっくりと、ゆっくりと、時間が流れていく……。
壮大な交響曲(シンフォニー)が、やがて最終楽章(フィナーレ)を迎えようとしていた。
 あたりが少しずつ明るくなっていった。そして、最後の音色が消えた。
静かになってからも、自然がつくり出したすばらしい演奏の余韻にひたって、しばらくは身動きができなかった――。
「失礼いたします」
 老人の声がした。
「たいへんな夕立でございましたね」
「本当に」
 老人は持ってきた小鉢を卓の上に置き、慣れた手付きでお茶を入れた。鉢の中には、なすときゅうり、こかぶの漬物が盛られていた。それをすすめながら、こう話し出した。
「私は、こんな夕立の後の夕暮れの景色がとても好きでございましてね。この裏の天祖神社の木立の向こうの空が、刻々と色を変えていく様は、それは美しいものです。こんなごみごみした町ですが、そのときばかりはここで暮らしていて本当によかったと思います。いかがですか、夕食までのいっとき、このあたりを散歩なすってみては‥‥」
「そうですね。そうします」
 老人の入れてくれた熱いお茶をすすって、私はそう答えた。
「お帰りになる時分には、お風呂のご用意もできております。恐れ入りますが、宿帳の方を‥‥」
 差し出された宿帳に記入しながら、私は思い切ってこう切り出した。
「迷惑ついでといっては何なんですが、二、三日ご厄介になることはできませんか。もちろん前金で」
 ここが果たして一泊幾らなのかわからなかったが、とりあえず適当に見当をつけて、四、五日分に相当する金額を差し出した。
「こちらはいっこうに構いません。こんなところでよろしければ、どうぞ。では、確かにお預かりいたします。後ほど預かり証を持ってまいります」
 意外なほどあっけなく答えて、階下に降りていった。
 こうして私は、昨夜なかば成り行きで口にした言葉をきっかけにして、ダフレン町に逗留することになったのだった。


◇◆◇次章へ続く◇◆◇