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先程閉めたガラス戸を開けると、老人のいう通り、神社の森の向こうが淡い薄紫色に変わり始めていた。 玄関に降りると、春日屋と刻印された大ぶりな下駄がきちんと揃えてあった。表の看板からすると、とてもこんなものが用意されているとは思いもよらなかった。鼻緒に足をとおすと頬がゆるんだ。満たされた気分になって、表に出た。黒々と濡れたアスファルトの遥か向こうの空が、薄紫色から橙色に染まっていく様が見えた。 その深い色の変化に吸い寄せられるようにして、私は神社の森へと急いだ。森の向こうは一段低い窪地になっていて、小さな仕舞た屋の瓦が幾重にもつながっていた。その瓦屋根に、虹色とも、紫色ともつかぬ、ひときわ鮮やかな夕焼けが映って、静かなロンドを踊っていた。光の表情は刻々と変わり、遥か向こうに見える高層ビル郡が逆光になり、濃いシルエットを描き出した。 心地好い風が吹いてきた。 この町に最初にたどり着いたときに感じた、べたっとした浜風とは違う、さらりとした感触の風だった。涼風と呼ぶにはいささか熱気をはらみすぎだが、それでも夕涼みに格好の風といえた。この森があのべたべたとした潮の香りを全部吸着してしまったかのようだ。 そんな風が吹いている間も、夕焼けは刻々と姿を変え、未来永劫ただ一度だけの風景を次々と産み出していた。 未来永劫ただ一度だけの――。 そう考えると、身の回りのものが果てしなくいとおしく思えてきた。足元の枯れ葉、暑く焼けて黒い土、暑さにふうふういっているごつごつした太い幹、自分の足、手、体‥‥。ぼんやりとしか思い出せない元妻や子の表情も、それはそれでよく、そのぼんやりとしたものをすっかり受け入れることも、苦もなくできそうな気になった。 千変万化、さまざまに表情を変えた夕日が、もう完全に沈もうとしていた。まだ辺りは明るいが、それでもここに足を踏み入れた時分からすれば、もう四分の一以下の光量になっていた。時間にしてわずか十数分なのだが、それは果てしない時間のようにも、あっという間の出来事のようにも感じられた。 気が付くと、私の頬を熱いものが流れていた。 無性にお栄に会いたくなった。 下駄を鳴らしながら、私は森を抜け、境内の石畳を踏みしめて、お栄の店の方へ向かった。 「あら、いらっしゃい」 藍染の暖簾をくぐると、あの笑顔が待っていた。 今日は私が口開けのようだ。店にはまだ客が一人もいなかった。それだけでうれしくなった。 「すごい夕立でしたわね」 おしぼりを差し出しながら、お栄が語りかけてきた。 「ええ。でも、よかった」 「えっ?」 「よかったというのは変か‥‥」 「まぁ!」 二人の視線が絡み合って、どちらからともなく自然に笑みがこぼれた。そんなたわいもない会話を交わせただけでもうれしかった。 「ビールをください」 今日は高校生並みの余裕は生まれていた。それでも軽口を叩くなんて真似はまだまだだった。 シッタカを甘辛く炊いた突き出しで、ビールを飲み始めた頃、 「いやぁ、まいっちゃったよ!」 といいながら、昨夜、親方と呼ばれていた男が入ってきた。私に気づいて、 「昨日はどうも‥‥」 と、軽く会釈しながら、私の二つ隣の席に腰をおろした。 「君島さん、大丈夫だった?」 お栄が声をかける。 「いや、どうも、こうもないよ。あいつ、今日んなって『息子に会いに行くから休みくれ』なんていって、いなくなっちまったんだ。そんなときに限って、昔の義理でどうしても断れない仕事が飛び込んでくるし、もうにっちもさっちもいかないよ!」 おしぼりで首筋を拭いながら、男はいかにも困り果てたという表情でお栄に語りかける。 「君島さんとこの息子さん、確か、来年、中学卒業よね」 「それなんだよ。なんでも急に高校行かないで働くなんていい出しちまったらしくって、それが奴っこさんの耳に入ったもんだから、あの通りよ」 「別れた奥さんが引き取っているんでしょ」 「その別れた女房ってのが、どうも身持ちが悪いらしくってね。男ができて、子供の面倒はさっぱりらしいんだな」 「それじゃ、君島さん、心配になるわよね」 「そうなんだよ。頭っから『休むな』ともいえず、こっちは大弱りさ。朝から他の仕事の手筈はつけたんだけど、義理の仕事だけはどうしても案配できなくってさ。結局、俺が行くことにはしたんだけど、一人じゃどうにもこなしきれそうもないんだ。アルバイトの学生だっていいんだけど、いまどきの学生はみんな遊びに行っちまって、ペンキ屋なんて汚れ仕事や嫌がるからね。それも明後日一日だけなんて、とっても乗ってきやしないよ。あー、ったく頭が痛いよ」 そこまで一気にしゃべると、男はグラスのビールをぐいぐいとあおった。 「あの〜、私でよければ手伝いましょうか?」 お栄の心配そうな表情を見ているうちに、つい口が滑ってしまった。こんなときに、こんな形で、いい格好をするなんて、やっぱりいまの私は初恋に目が眩んだ中学生並みだ。 いってしまってから、後悔した。 お栄も、親方も、びっくりしたように、私を見た。 もう後には引けない気配になった。 「もう十五年も前の話ですが、学生時代にペンキ塗りのアルバイトをしたことがあるんですよ。そんなんでよければ」 二人とも顔を見合わせている。 「ちょうどいまは仕事をやめて、ぶらぶらしているところだから、一日くらいなら手伝いますよ」 「いいんですか?」 まず、親方がその気になった。私を見、そしてお栄を見た。 お栄は、私ら二人をかわるがわる見て、 「島崎さん、そこまでいってくださるのなら、甘えちゃったら」 ねえ、という感じで私の方を見た。 先程の後悔が霧消した。 「それじゃ、サービスしなくっちゃ!」 と奥へ引っ込もうとするお栄を見て、私はあわてて告げた。 「今日はゆっくりしていられないのです」 「あらっ」 残念そうな表情に、またうれしくなった。 「いいじゃありませんか」 島崎も言葉を添える。 「そこの春日屋さんに泊まっているんですが、もうすぐ夕食の時間なんです。無理矢理泊めていただいているのに、食事の時間をすっぽかしたら申し訳ありませんから」 そこまでいうと、その場の雰囲気がちょっと変わった。 「春日屋さんに泊まってらっしゃるんですか? それなら、うかつなものはお出しできないわね。あそこのおじいちゃんの料理はうちなんかとは格が違うから。ねえ、お父ちゃん」 奥で、ぎょろりとした目のお栄の父親が、大きく納得するように頷いた。島崎も、同じような表情でこっちを見ている。 私がびっくりしたような表情を浮かべると、 「だって、あそこのお客さんはお馴染みさんばかりでしょう」 と、島崎がうかがうように言葉をつなぐ。 「昨夜、飛び込みでお願いしたら、そんなことないっていってましたよ」 「ああ、そうなんだ。お馴染みさんしかとらないって聞いてたもんだから‥‥。ねえ」 島崎がお栄に同意を求める。 私はあわてた。 「すみません、お勘定を!」 そそくさと勘定を済ませると、私は宿に急いだ。 |