タクシーが走り出すと、瞬く間に車窓の風景が変わった。ネオンの明るさが、車内まで明るくした。そのネオン街のはずれでタクシーが止まった。 見ると、「履き物 みねぎし」と書かれたシャッターの横に、カプセルホテルの入り口があった。看板には「カプセルホテル峰岸」と書かれていた。春日屋の主人がいっていた「店の上」という意味がわかった。 店の脇の入り口を入ると、田舎町のバスの待合所といった雰囲気になった。ちょうど発券場のような窓口に、度の強い眼鏡をかけた、でっぷりと太った老人が座っていた。薄暗く、物憂い感じが、まさに時代に取り残された田舎のバスの待合所といった風だ。いわれたとおりに、春日屋から来たことを告げると、こすっからそうな笑顔とともに、「四千二百円」というダミ声が返ってきた。料金を払うと、安っぽいプラスチックのタグのついたロッカーのキーを渡された。下卑た感じのする窓口の老人は、ちょいと顎を突き出すようにして、奥の小さなエレベーターを指し示し、「四階」といった。 乗り込むと、ウィーンという微かな唸り声を立てて、大人が五人も乗ればいっぱいになりそうな小さな小さなエレベーターが動き出した。上の階に向かっていることはわかっていたが、まるで奈落の底に落ちていくような気分になった。突然、エレベーターが棺桶に変わってしまったみたいだ。 息苦しい。 思わず酸素不足の金魚のように口をぱくぱく開けて深呼吸をした。もう耐えられそうもないと思った途端、目の前の扉が開いた。赤っぽい、ほのかな照明の中に、ロッカーがこれまた棺桶のような風体で並んでいた。 私は一刻も早くここを抜け出したいと思った。とにかく明るいところに行きたい。ロッカーキーの番号を確認すると、すぐさま衣類を脱ぎ捨て、三階のサウナフロアへと走った。 明るい照明と、大きな湯船いっぱいに張られた湯から立ち上る湯煙にほっとした。 物事に脅えたり、恐怖を感じることなど、これまでほとんどなかっただけに、先程の得体の知れない感覚が心の奥底に幽かなしこりとなって残った。 しかし、ゆったりと湯に浸かり、サウナで汗を流し、冷水を浴び、再びサウナから出てくる頃には、そのしこりはほとんど感じられなくなっていた。さらに休憩スペースで生ビールを一気に喉に流し込み、火照った体を癒している頃には、ほとんど自覚症状はなくなった。逆に肉体の疲労を急速に感じるようになった。再び横になりたいという欲求が頭をもたげ、あとは何も考えずにふらふらと四階に上がり、あれほど嫌な感じを味わった狭い箱状のカプセルに何のためらいもせずにもぐり込んで、静かな眠りについた――。 翌朝、チェックアウトを知らせる館内放送で目が覚めた。 ゆっくりとサウナに浸かって、身繕いをすませ、例の窓口でキーを返すと、 「ああ、ダフレン町のお客さんだね。二時過ぎまで待ってなよ。うちの若い者に送らせっから」 と、昨夜と同じ表情の老人がスポーツ新聞に目をやりながらいった。 「いえ、私はダフレン町じゃなくて、春日屋旅館さんから」 「だろ? じゃあ、ダフレン町じゃないか」 「あの町はダフレン町っていうんですか? おもしろい名前ですね。でも、確か電柱の地名表示はそんな名前じゃなかったような気がするけど‥‥」 「符丁だよ、符丁」 「符丁ですか。それ、どんな意味があるんですか?」 親父の顔が初めてスポーツ新聞から離れ、鼻の半ばまで下げた眼鏡越しにじろりと私の方を見て、 「意味かい? まあ、いいってことよ」 といい、にやりと笑った。煙草の脂で黄色く染まった乱杭歯が、窓口のプラスチックパネル越しにぎらりと光った。 「そんなことより、その時間までどうする? いまなら延長料金で半日サウナでのんびりできるよ」 新聞を脇に押しやりながら、いま返したばかりのキーをこちらに寄越そうとする。 「いえ、その辺を歩いて、時間をつぶします。この町も初めてだから」 「そうかい?」 儲け損なったとでもいうように、そそくさとまたスポーツ新聞を広げ出した。春日屋の主人とはまったく違うタイプのようだった。計算高く、損得で自分の態度をがらりと豹変させても、いっこうに痛痒を感じないふてぶてしさが漂っていた。 ダッフルバッグを担いで表に出ようとすると、 「荷物はここに置いときゃいいよ」 と、顎で窓口の脇を示した。 横から窓口へ入るドアを開け、ダッフルバッグを隅っこに置くと、 「そうだ。あんた、お昼食べるだろう?」 と、再び新聞を脇に押しやりながら、私の顔をのぞき込んだ。 無意識で身構えた私を見て、親父は目の前で手を振って、 「一緒に食おうなんてんじゃないよ。いい店があるんで、あんたに教えてやろうと思ってさ。この先の四つ角を左にしばらく行くと『川勝』って、うなぎ屋があるんだ。そこはいいよ。今日みたいに暑い日にゃ、精つけなきゃ。ちょっと値は張るけど、味は確かだ。俺がもうちょっと稼ぎがよけりゃ、毎日でも食いたいくらいさ」 軽く会釈して、私はそこを離れた。親父は窓口から身を乗り出すようにして、 「峰岸に聞いて来たっていえば、よくしてくれっから!」 と、私の背中に追い打ちをかけた。 ――昨日、どじょうを食ったばかりなのに、そうそううなぎなんか食えるか。 表に出た途端、かっと強烈な太陽が照りつけてきた。うなぎの甘辛いタレの味を思い出して、胸がむかむかした。 まだ昼までかなり間があるというのに、気温はかなり上昇していた。アスファルトからの照り返しが強い。 ――これじゃ、サウナと変わらないな。 親父のいうようにサウナを延長して、ごろごろしていた方がよかったかもしれないと、早くも後悔し始めた。かといって、いまさら戻るのも癪にさわる。しかたなく、どこか涼める場所はないかと、物色しながら歩いた。 ここは門前町のようだ。やたらに仏具の店や線香の店が目につく。その並びに派手な電飾看板のキャバレーやカラオケスナックなどが並んでいる。人の往来も多い。ダフレン町とは、まったく別の世界だった。 しばらく歩くと、画材屋が目に留まった。こんなところで商売になるのだろうか。ひやかしで中をのぞくと、店の奥のレジのところで、客と店主らしき男が立ち話をしていた。 「こないだもらってったヴァンダイキブラウン、あれ結構重宝するね。土やら木を描くときにさ、あれをベースにすると全体が締まってくるっていうか‥‥」 「そうでしょう。これなんか、空の色を出すときにね、いいですよ」 新しい油絵の具のチューブを手にとって、店主がその色味を見せている。それなりに商売になっているようだ。 店内をぐるりと回った後、大小何冊かのスケッチブックと水彩色鉛筆、折り畳みのパレットと絵筆二、三本を買った。この先、かなり退屈な旅になりそうだし、暇つぶしにスケッチでもするのが、一番手っとり早い退屈しのぎになるのではないかと思ったからだ。 その紙包を抱えて、またぶらぶらと繁華街を歩き出した。 途中、本屋で立ち読みをし、魚屋をのぞき、八百屋をひやかし、ふっと顔を上げると、二、三軒向こうに「川勝」の看板が見えた。 はなから寄るつもりはなかったのだが、ずいぶん歩き回ったせいで、小腹もすいてきていた。前を通るだけでも通ってみようという気持ちになった。近づくにつれ、うなぎ独特のいい香りが、胃の入り口あたりをころころとくすぐった。玄関の前に、四、五人の客が行列をつくっていた。つられるようにその列に加わった。 どうもこの手の店に弱い。客が気持ちよく入っていく風だと、ついいっしょになって入ってしまう。「OEI」のときもそうだった。 時計を見ると、もう正午を少し回っていた。のんびりと待つことにしょう。列の後ろについて、人垣の間から店の中を観察した。二十人も入ればいっぱいの小体な店だった。 二十分程待って、ようやく席につくことができた。回りを見回すと、みんなビールを飲んだり、お茶を口にしたりしながら、うなぎの出てくるのを待っている。直感的に、昔風の客の顔を見てから焼き始めるという店だなと思った。うな重を頼んで、うざくを肴にして冷酒をちびちびやりながら待つことにした。 遠くで蝉の鳴く声が聞こえてきた。アブラ蝉特有の粘りつくような声音が、うだるような外の暑さを伝えていた。程よくクーラーのきいた店の中で、ゆったりと聞くのも乙なものだ。 [四万六千日、お暑い盛りでございます〜] 桂文楽の「うなぎの幇間」が頭の中で始まった。この人の高座はもちろん見たことがない。テレビの録画やテープで何度も聞いていたのが、いまふいに蘇ってきたのだ。聞いたのは録音状態のよくない昔のものだから、ところどころにしゃりしゃりと雑音が入る。この雑音までが、頭の中で再生された。 幇間がようやく捕まえた旦那についてうなぎ屋の二階に上がり、うなぎを注文したところで、現実のうな重が運ばれてきた。冷酒はとうに空になっていた。話の先も聞きたかったが、うなぎの方もじっくりと味わい。とりあえず頭の中のテープの方を止めた。 重箱の蓋をとる。蒲焼きがぎっしりと詰まっている。山椒を振って、肝吸で喉を湿らせ、いよいよ蒲焼きに箸を立てる。すうっと吸い込まれるようにして箸が入った。やわらかい。一口大にとって、口へ運ぶ。香りも申し分ない。舌の上でうなぎとご飯がとけ合い、混ざり合って、独特な香りが鼻孔へと抜けていく。タレの案配がまたいい。甘すぎず、辛すぎず、うなぎの甘みを品よく引き出している。間に香の物と肝吸をはさみながら、あっという間に平らげた。最後までタレの味をくどく感じさせないのはさすがである。 奥の料理場がちらりと見えた。峰岸の親父と同じ歳格好の実直そうな主人が、真剣な表情でうなぎを焼いていた。世の中とは不思議なものだ。春日屋の主人やここの主人のような人物が、俗物を絵に描いたような峰岸の親父と懇意にしている。人の相性とか出会いというものは、なかなか外からはうかがい知ることができないものだ。 考えてみれば、夫婦なんてものも、案外そんなものなのかもしれない。 別れた女房の顔を思い出そうとした。ところが、明確な像を切り結ばない。ピントがぼけている。全体の印象はなんとか形作るのだが、細かい造作がいま一つはっきりとしない。わずか半年前まで、ずっといっしょに暮らしてきた女の顔をどうしてもはっきりと思い出すことができないのだろう。そのぼんやりとした元女房の顔の向こうから、突然、峰岸の親父の下卑た笑いが立ち上がってきた。 嫌な気分になった。 峰岸から聞いて来たことを告げようかどうか迷ったが、結局、そのことは口にしないで店を出た。 むっとするような暑さが全身を包んだ。その熱気の向こうから、線香の匂いが漂ってくる。四万六千日分お参りしたのと同じ功徳があるという四万六千日の観音様の縁日はとうにすぎていたが、何となく寺の境内を歩いてみたくなって、ほろ酔い加減で石畳の参道を、ゆっくり、ゆっくり、進んでいった。 たくさんの善男善女たちが(はたしてほんとうにそうなのかどうかはわからないが)、賽銭を投げ、鈴を鳴らし、香を炊いて、安寧を願う場は、いまの私にもなんらかしらのご利益を与えてくれそうな気がした。 境内の茶店の椅子に腰をおろして、しばらくぼんやりとしていた。 すう〜っと魂が抜けていったかと思うと、かつて妻だった暢子の顔や、息子の建太の顔が陽炎のように浮かんでは消えた――今度も明確な像を切り結ばない。 しかし、魂は青い空に強い込まれる風船のようにどんどんどんどん上昇を続けている……。 ……。 こりゃ、いかん! そう思った途端、ふいに境内の物音が一斉に耳に飛び込んできた。蝉の声、人々のざわめき、玉砂利を踏む音‥‥。 気分がしゃんとなった。 ようやく酔いからさめたようだ。 時計を見ると、午後二時少し前だった。いまから峰岸に向かうと、ちょうど約束の時間に着くだろう。私は熱いお茶を一口すすって立ち上がった。 |