[[[ 宵闇 ]]]


 今回の旅は、いきあたりばったりの旅だった。
 世間的にいえば、夏休みということになるのだろうが、その気になれば二ヶ月だって、三ヶ月だって休みを延ばすことができた。離婚後、長年勤めたデザイン会社をやめ、いまはまったくの自由の身だったからだ。
 歩きながら、あたりを見回した。
 暗かった。
 とりあえず今夜の宿を決めなければならない。しかし、とても近くに宿があるような町には見えなかった。周辺は小さな仕舞た屋ばかりで、町の中心の通りも十数軒の商店が寄り集まっているだけの、本当に小さな町だった。
 しかたなく、私は近くの大通りに出て、タクシーを拾ってどこかのホテルに着けてもらおうと考えた。四方を見回し、車が行き来する音がどこからか聞こえてこないかと、耳をそば立てた。かすかだが、北の方から聞こえてきた。その方向へゆっくりと向かった。
 しばらく歩くと、「春日屋旅館」と書かれた看板が目に留まった。看板というより、表札をちょっと大きくしたといったしろものだった。相当な目利きでも、これがなければ、旅館だとわからないだろう。ちょっと大きな仕舞た屋といった風で、玄関の上の丸い門灯が、その一角だけをうすぼんやりと照らし出していた。商売っけのない、通好みのするようなたたずまいに魅かれたのと、もう歩く気がしないという二つの理由から、私はこの宿の玄関の引き戸に手を掛けた。
 から、から、からと、あっけないほど軽やかに開いた。
「ごめんください!」
 声を掛けると、奥で人の気配がし、程なく枯れた感じの和服姿の老人が現れた。昔は下町のいなせな若い衆で鳴らしたといった雰囲気が漂っていた。
「いらっしゃいまし」
 上がりがまちの板の間にきちんと正座をして、両手を軽く付いて頭を下げた。
「あの、今夜、泊めていただきたいんですが‥‥」
「あいにくですが、今夜はご勘弁ください。なにしろ年寄りが一人でやっているものですから、急なお泊まりは‥‥」
 かなり古いつくりなのだが、大切に使っていて、掃除が行き届いている風なので、玄関の三和土に立っているだけで、とても落ち着いた気分になった。
「お馴染みさんでないとだめなんですか? それとも独り者は泊めないとか‥‥」  普段なら、こんなに執着はしないのだが、今夜は疲れていたのでつい意地悪な気分になり、こんな物言いをしてしまった。
「いえ、滅相もありません。一見さんお断りなんて、そんなたいそうな宿じゃあございません。ただ、事前にご予約をいただかないと、それなりの用意ができませんものですから」
「それでは明日は泊めてもらえますか?」
「えっ」
 短く刈り込んだ胡麻塩頭をかきながら、老人は困ったような表情を浮かべた。しばらく考え込む風だったが、いたしかたねぇやと膝を軽くぽんと叩き、こくりとうなずいた。
「よぉございます。明日の午後三時以降なら、いつでもお越しくださいまし。お待ち申し上げております」
 私はちょっと拍子抜けしてしまった。こうなってくると、今夜の宿の方が気になってくる。
「近くに泊めてくるような宿はありませんか?」
 なんとも間の抜けた質問をした。老人はあきれたように顔を歪めて、後頭部を平手でぴしゃぴしゃ叩きながら、逆にこう質問してきた。
「お客様はカプセルホテルなんてところでもよろしゅうございますか?」
「えっ。ど、どこでも‥‥」
 今度はこっちがびっくりする番だ。正直いって、あの狭苦しいカプセルに入って眠るのは気が滅入るが、とにかくどこでもいいから早く横になりたかった。口の中でもごもご答えると、
「しばらくお待ちください」
 と、老人は奥へ引っ込んだ。
二、三分すると、座布団を片手に戻ってきて、こういった。
「どうぞ、お当てくださいまし。おっつけ車がまいりますから‥‥」
 上がりがまちに座布団を敷いて、私に座るようにすすめると、そのまま奥へ引っ込んだ。
 そして、盆に乗せたお茶と煙草盆を持ってきて、私のそばに座った。お茶をすすめながら、こういった。
「十分程でタクシーがやってまいります。なに、そいつに乗れば、十五分ほどでホテルですから。いえ、昔の知り合いが店の上でカプセルホテルをやっているものですからね。そこにいま電話させていただきました。大丈夫ですよ。ちょっと狭っ苦しいですが、とにかく今夜のねぐらはなんとかなったわけですから。どうぞ、一服なすってください」
 マッチをこする音が、静かな玄関先に響いた。ジュッ、ポッ、チリ、チリ、チリ‥‥。ハイライトの先がポット赤くなって、老人がゆっくりと紫煙を吐き出した。
「それにしても、なんでうちなんかに‥‥」
 遠くを見つめるようにして、そうつぶやいた。
「いや、いまどきこんなたたずまいの宿は、そうはお目にかかれませんから」
「ハッ、ハッ、ハッ」
 乾いた笑い声が返ってきた。
玄関先が明るくなって、すぐにブレーキの音がした。
「来たようですね」
 老人は自ら先に立つと、引き戸を開けて表に出た。
運転手に何やら告げると、
「向こうに着いたら、春日屋から来たといってください。では、明日」
 こういって、私をタクシーに乗せると、深々と頭を下げた。


◇◆◇次章へ続く◇◆◇