[[[ 黄昏 ]]]


 私がダフレン町にやってきたのは、三年前のことだ。
 夏休みと称した逃避行で東京中をさまよっている間に、ふっと迷い込んだのがこの町だった。どこをどう移動してたどりついたのか、いまでも皆目見当がつかない。ただ気がつくと、どこからか汐の香りが漂ってくる黄昏時のダフレン町にいて、薄暮のなかでくっきりと浮び上る“OEI”の看板を見詰めて立っていた。
 それはB2判ほどの置き看板で、花札を型どったものだった。たっぷりと漆を含ませた黒塗りの木枠に、朱と黒でボウズの図柄がプリントされたプラスチックパネルがはめ込まれていた。右下隅には、イタリック体で“OEI”の文字が、小さく黄色で書き込まれている。妖しげな光が、その花札の中から漏れていた。かなり強い光なのだが、それを感じさせないふっくらとした質感が妙に仇っぽい。
 ――まるで大正ロマンの世界だな‥‥。
 すると、それを見透かしたように、向うから懐かしいステテコ姿の中年男がやってきた。銭湯帰りなのだろう。小脇に抱えた木桶の中の石鹸箱と、素足につっかけた下駄とが、カタコトカッツーンと乾いた音色を響かせている。お誂え向きとはこういうことをいうのだろう。鼻先をついっとシャボンの匂いが通り抜けると、男の背中が“OEI”の中に吸い込まれるようにして消えた。
 思わずつられて、藍染の無地の暖簾をくぐった。
 間口は二間ほどしかなかったが、中に入ると意外と奥行きがあった。そこはゆったりとしたうなぎの寝床といった風情の居酒屋であった。店のところどころに裸電球が案配してあって、これが巧みな光と陰のバランスをつくりだしている。図ってそうしたのではなく、結果的にそうなったという自然体が、なんとも心地よい空間をつくりだしていた。
 ――絵になるなぁ‥‥。
私は無意識で、この店の撮影アングルを頭の中に思い浮かべ、ぐるりと店内を見回した。
 グラフィックデザイナーという職業柄、ちょっと気の利いた光景に出くわすと、すぐにそれをポスターや雑誌の紙面に展開することを考えてしまう。悪い癖だ‥‥。思わず鼻の奥の方からほろ苦い笑いがこみ上げる。
 ふっと視線を足元に落とすと、黒砂糖を堅く敷き詰めたような三和土が、突然、のっそりと鎌首をもたげてきた。
「見かけねぇ、ツラだなぁ‥‥」
 そんな声に、私は思わず小声で「はぁ‥‥」と返事をしてしまった。いつのまにかその場の雰囲気に呑まれていたらしい。だいたい三和土が鎌首などもたげるはずもないし、まして語りかけるわけもない。なのに、そんな気分にさせられた。
 ――これじゃ、初めて酒場に足を踏み入れる中学生みたいだな。
大きく息吸って気を取り直し、あらためて胸を張って一歩前に歩み出た。
 途端、「どうしたぃ?」、左腰のあたりから声がかかった。今度は間違いなく人の声だった。粗野だが、どこか温かみを感じさせる声だった。もうすっかりできあがっている声でもあった。ゆっくりと首をひねって見おろすと、鼻の頭と首筋が酒焼けで赤くなった中年男が目をしょぼつかせて、こっちを見上げている。かすかだが、はにかむような笑いを浮かべていた。私には,そんな風に見えた。
「だめよ! 木下さん‥‥」
 今度は右肩のあたりから声がかかった。張りのある女の声だった。艶っぽかった。柔らかかった。この人が「お栄」なのだと、すぐにわかった。看板には“OEI”としか書かれていなかったが、このときすでに私は勝手に“OEI”は「お栄」の名前から来ているのだと思い込んでいた。
 慌てて顔をそっちの方に向けると、カウンター越しに
「いらっしゃい」
 という声とともに、人懐っこい笑顔が返ってきた。長い髪をくるりと巻き上げてアップに結い、縞柄の着物をしゃんと着こなしている。細面の小づくりな顔だが、きりりとした目元が粋な感じを漂わせていた。
 やっぱり、そうだ。この人が「OEI」なのだ。いや「お栄」だ。思い込みは確信に変わった。十代といっても通りそうな肌の張りが印象的だが、落ち着いた物腰からすると、二十代後半から三十代といったところだろう。
 彼女は笑顔のまま軽くうなづくと、
「どうぞ、こちらに!」
 と、柔らかそうな右の手の平でカウンターの一角を指し示した。
 よく磨き込まれたカウンターの前に置かれた椅子は、昔風のスツールであった。丸い台尻に四本の角木の足ががっちりと組み込まれている。ちょっと伸び上がるようにして腰を滑らすと、すぅっと頃合よく尻がおさまった。たくさんの呑み助たちの尻に磨かれ、鍛えられた椅子は、男たちの間合いというか、呼吸をすっかりと飲み込んでいた。
 目の前の品書きに目をやり、さて、何にしようか‥‥と、左に首を曲げると、カウンターの一番奥で、先程のステテコ男がグラスにたっぷりと注いだビールをさもうまそうに飲み干すのが見えた。
「ビール!」
 反射的にそう口をついて言葉が出た。ゆっくりと首を元に戻すと、カウンターの向こうで、もうお栄が冷えた水滴をびっしりと身にまとったエビスの瓶を手にとり、ふきんでさっと拭っていた。ちょっと下向き加減のお栄の額のあたりの稟とした美しさが、冷えたビール瓶とともに、いっそうの涼味を誘った。
 思わず見とれて、胸がどきどきしている自分に気づいた。
 やっぱり中学生になっていた。
とうの昔に忘れていた胸の高鳴りが、耳の奥の方から聞こえてきた。きっと耳たぶの辺りが赤くなっていることだろう。年甲斐もなくそんな状態になってしまったことが気恥ずかしくて、慌てて目の前のおしぼりで耳の回りや首筋を拭った。
 私はもう不惑に近い年代に入っていた。
 目の前にグラスが置かれ、エビスの注ぎ口がそこに差し出される。ほとんど反射的にグラスを手に取り、お栄の酌を受けた。なめらかに泡立ったグラスの中の琥珀の液体を、私は一気に喉の奥に流し込んだ。
 うまい。
グラスを干すと、さりげなく二杯目の酌が続いた。それを半分程口に含み、グラスを静かにカウンターの上に置いた。
 落ち着いた。
 ゆっくりと目の前のお栄を見た。視線が絡んだ。かすかな笑顔が返ってきた。今度は胸の奥が熱くなった。
 奥から彼女を呼ぶ声が聞こえ、絡んだ視線がするりととけた。お栄は軽く会釈をして、奥へ引っ込んだ。
 ようやく三七歳の私に戻った。
すると、先程の胸の高鳴りが妙に誇らしく感じられた。耳たぶが赤くなったことだって、なんだか自慢できることのように思えてきた。うれしくなって、いつもより早いピッチでグラスを口に運び、突き出しの衣被ぎに手を延ばした。手塩皿に三つばかり盛られた衣被ぎは、いずれも丁寧に火が通されていて、頃合の柔らかさに仕上がっていた。小芋を皮つきのままふっくらと炊いて、塩だけで食べるシンプルな肴だが、私は夏のビールには枝豆よりこいつのほうがよほどとしっくりくると思っている。指先でちょいちょいと皮を剥いて口に含むと、独特の甘味とぬめりが舌の上で踊り、その名残がかすかな余韻となって喉の方に下っていく。そいつをコクのあるビールでさっと洗ってやる。このときにじんわりと口の中に広がるビールの苦みや甘味が、とても気に入っていた。
 最初の一つを口に入れた。にんまりとした。ゆっくりとビールを追いかけさせて、さっそく次の小芋を剥きにかかる。これなら何を注文してもまず間違いがない。衣被ぎの仕上がり一つでそれがわかった。品書きに目を走らせる。丸鍋の上で目が止まった。
 注文をすると、奥からお栄の涼やかな返事が返ってきた。
 首を伸ばして奥をのぞくと、お栄の向こう側で、でっぷりとした初老の男が包丁を握っている。頭はかなり薄くなっているが、眉毛はくっきりと太く、手元を凝視するぎょろりとした目玉がいかにも頑固そうな雰囲気を漂わせていた。腕は確かだぞ、という気配が全身に漲っている。お栄が「お父ちゃん」と語りかけている。親父は手元から目をそらさずに、二言、三言応え、すぐに作業に没頭した。
 エビスの一本目が空になる頃、炭の燃える懐かしい臭いが鼻先をかすめた。台形の木枠にしつらえられた小火鉢が、目の前に置かれた。炭がいい案配におきている。その上に、鉄の小鍋が乗せられる。中は丸のままのどじょう。夏はこれに限るなどとはいわないが、この季節になると一度は口にしたくなる。あつあつのどじょうに、刻み葱をたっぷりとかけて、口に運ぶ。これを冷えたビールが追いかける。なんだか、いつもビールがうまいものの後を追いかけているようだが、これで追いかけているビールの味がいっそう引き立つのだから不思議だ。
 ビールの追加を注文して、ぐつぐついっている丸鍋をつつき始め、すっかり悦に入っている頃だった。
 奥のテーブルに座っていた二人連れの男の声が急に大きくなった。ちょっとした言い争いが起きたようだ。酔った男がもう一方の男に絡んでいる。
「俺はね、俺は、なにも独り占めしようってわけじゃないんだ! ところが、自分の息子に会うこともできないなんて、ちょっとものの道理にはずれてないかい!? えっ!」
「お前のいうこともわかるが、最初にそれを同意しちまったんじゃないか。いまさらぐだぐだいってもなぁ」
「なんだとぉ! それじゃ、親方は俺が間違ってるってのかい! えっ!」
 タァンッ!という大きな音がした。
 振り返ると、絡んでいる方の男が日本酒の入ったグラスをテーブルに叩きつけ、あたりに酒を振りまいた後だった。慌てて対の男がお栄に謝りながら、ふきんを受け取ろうと腰を上げた。すると、何を勘違いしたのか、絡み男はこの初老の男の袖をつかんで、
「逃げるのか!」
 と叫んだ。
OEIが割って入った。
「君島さんも、だめよ。この頃、ちょっと弱くなったんじゃない?」
 それが絡んでいた男の名前らしい。どうやら馴染みの客のようだ。
 先程まで青筋を立て、目を座らせていた男の顔が、急にくしゃくしゃになって、いまにも泣き出しそうになった。
「俺は、なにも‥‥」
 後は言葉にならず、お栄が拭き上げたばかりのテーブルに突っ伏した。皿や小鉢ががしゃっと音を立てた。
「しょうがないわねぇ」
 お栄はテーブルの上のものを片付けだした。ちょっと苦笑を浮かべた慈愛に満ちた横顔に、思わず吸い寄せられた。仕草の一つひとつに無駄がない。客に媚びるようなところがない。
 親方と呼ばれていた男が、じっと見入っている私の表情に気づき、「お騒がせしちゃって‥‥」
 と、こちらを向いてぺこり頭を下げた。
「いえ‥‥」
 口の中で小さく答えて、私はあわてて丸鍋の方に向き直った。半分程に減ったどじょうが煮詰まりかけて、鍋の中でぐつぐつと音を立てていた。お栄の美しい横顔と、あのくしゃくしゃになった男の顔が、頭の中に交互に浮かんで消えた。
「しょうがねえなぁ」
 奥で、親方と呼ばれた男の声がした。君島という男はどうやらテーブルに突っ伏して、そのまま眠り込んでしまったらしい。
 私はやりきれない気持ちになった。すっかり煮詰まってしまったどじょうが、口の中にぼそぼそと広がった。甘みも炭酸も飛んでしまったビールが、ただただ苦かった。
 切り上げる潮時のようだ。
 立ち上がると、お栄がやってきた。
「申し訳ありません」
 また視線が絡み合った。
「いえ」
 その視線をはずして、私はポケットの財布に手を伸ばした。
 勘定を済ませて店を出ると、再びお栄の魅力的な表情と、くしゃくしゃになった男の顔が浮かんだ。男のやりきれない表情だけが残った。
 普段なら決してあの手の酒に乱れるタイプの男に同情したりはしない。だが、今日は少し事情が違っていた。あの男の気持ちがほんの少しわかるような気がした。実は三ヶ月前、私は協議離婚をしたばかりだった。中学ニ年生になる息子は、別れた妻が引き取っていた。あの男のように、子供にまったく会えないというわけではないが、別れて暮らしていることに違いはない。
 入り陽が町の端を濃い赤紫色に変え、辺りを闇が包み出していた。すっかり暗くなったダブレン町の路地に、“OEI”の花札を模した置き看板がくっきりと浮かび上がっていた。看板の中の月が妙に寂しげに見えた。お栄に対する初恋にも似た感情を楽しむ余裕など、もうとうに失せていた。
 着替えを放り込んだ大きなダッフルバッグを肩に担ぎ直して、べたっとした浜の夜風を感じながら、私はゆっくりと歩き出した。
 ――この町に足を踏み入れることも、もう二度とないだろう。
 そのときはそう思っていた。


◇◆◇次章へ続く◇◆◇