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サクマ式ドロップスとインタフェース


 

非常に私事だが、飴が好きである。
勿論飴を嘗めるのも大好きだが、飴を一粒湯飲みに入れて、熱湯を注いで飲む飴湯が至極、好きである。そもそも飴湯という言葉からしてマイナであるため、私のこの嗜好を聞いて驚かない人は非常に少ない。

目の前には、サクマ式ドロップスがある。
上部は金色、側面は赤と白の二色に塗り分けられ、内容物の色とりどりのアメが美味しそうに描かれている、サクマ式ドロップス。サクマ式ドロップスという言葉を聞いたり、実物の容器をみて思い出すのは、やはりスタジオジブリの名作アニメーション・火垂の墓だろう。野坂昭如の原作もさることながら、畑野勲監督の構成のすばらしさ、ジブリのもつ独特の色彩、動きはあの時点ですでに芸術的であった。
私たちが未だ幼少だった頃、戦争の悲惨さを伝えるために公民館で見せられた映画といえば裸足のゲンだった。しかし、あの作品は全編が悲壮感のみで覆われていたために、嫌悪感しか感じることが出来ず、作品の持っていたであろうメッセージは今現在の私の心には何一つ残ってはいない。そういう作品だった。それに比べて火垂の墓は、兄の清太が、妹の節子にそのドロップを与える場面など、今をもっても純粋な兄妹愛に心が洗われる思いである。戦争はいけない。

さて、このサクマ式ドロップスにはいろいろと面白い話があるのはご存じだろうか。なぜ火垂の墓で節子はサクマ式ドロップスを大切に持っていたのか。戦争とサクマ式ドロップスの関係は奥が深いのである。

サクマ式ドロップスの歴史

サクマ式ドロップスは、明治41年東京の佐久間惣次郎商店から発売されたドロップである。このサクマ式のサクマが佐久間からきていることは明白だが、サクマ式というからには何らかの方式を指してサクマ式というのである。それは何か。
サクマ式ドロップスといえば宝石のように綺麗に透き通った飴を誰しもが想像するが、それまでのドロップといえば、濁った色で品質の悪い、夏になると直ぐに溶けだすという代物がばかりであった。ドロップは一度に全て食べるものではなく、子供が毎日一つずつ楽しみに食べることにこそ意義がある、という意識が強くあったのであろう。佐久間惣次郎商店ではドロップの原材料として酸味料を入れ、透明感のある溶けにくい今のようなドロップを作り上げたのである。この方式こそがサクマ式製法である。

ところで、このサクマ式ドロップスに施されたプリントをみてみると、その製品の顔とも云える一番大切な正面部分、それもサクマ式ドロップスと商品名の書かれた部分、サクマ式と書かれた文字のすぐ下に「登録商標」と黒字で大きく書いているのが分かるだろう。これは、デザイン的にみれば明らかにマイナスであることは云うまでもない。サクマ式ドロップスほどの商品ならば全ての人から認知されているだろうから、今更商標云々を書き出す必要はないのではないか。そう、思いたいところである。

あなたがサクマ式ドロップスと聞いて思い浮かべる容器の色は、何色だろうか?
、黒、3通りの回答が期待されるが、正解はである。色の容器のサクマ式ドロップスをみたことがある。黒もあった。という方はその容器をもう一度よく確かめていただきたい。容器にはサクマドロップスと書かれているだろうし、登録商標と書かれてもいないだろう。
サクマ式ドロップスサクマドロップスは双子のような別物なのである。
通称「赤缶」サクマ式ドロップスは池袋に本社を持つ佐久間製菓の製品であり、通称「青缶」サクマドロップスは恵比寿に本社を持つサクマ製菓の製品である。
ここまでの類似点がありながら、全く無関係の会社であるとは思いにくい。
サクマ式ドロップス及びサクマドロップスの歴史を紐解くと、そこには戦争の影が暗く一面を覆っているのである。

有名な話なのだが、佐久間製菓サクマ製菓、この二つの会社は戦前までは一つの会社、サクマ製菓であった。しかし、戦争が勃発し戦況が激しくなると、物資の不足から当然の如くドロップの主要成分である砂糖の供給も止まってしまう。また、当時の風潮としてドロップという戦争に何の役にも立ちそうないものを作っている会社は解散せざる得ないという現状があったため、一時製造をストップせざるを得なかったのである。戦後、何とか復興の目処が立ち会社再建を計ろうとするが、戦後のどさくさに紛れ、なぜか全国にサクマ製菓を名乗る会社が五つ程出来ていたということだ。が、自然淘汰されて今のニ社が残り、当然のように訴訟で争いが起こる。 結局、裁判の結果、池袋の会社がサクマ式の登録商標を獲り、恵比須の会社に元の会社名のサクマ製菓の表記が認められるという、痛み分けの判決が下されることとなったのである。
まるで落語に出てくる本家元祖争いのようだが、ご多分に漏れずこの二つの会社もお互いに自己を主張し続けているのである。
調べてみると、池袋にあるサクマ式ドロップス佐久間製菓は、旧サクマ製菓の番頭が興した会社であり、恵比寿にあるサクマドロップスサクマ製菓は、旧サクマ製菓の社長の息子が興した会社であるという。
なぜこの二つの会社がバラバラになってしまったのか、その詳細を知る資料は残念ながら探し当てることは出来なかった。しかし、サクマ式ドロップスサクマドロップスを並べてみて、ある一つの仮説が唐突に思い浮かんだのだ。

以下は仮説である。サクマ式ドロップスに描かれたドロップの種類は8種類、一方サクマドロップスには12種類の味が描かれている。戦後の復興と共に、子供たちに夢を与えてきたサクマ式ドロップスは今までの伝統を伝えるべくサクマ式製法を忠実に守り、再建へ向けて進もうとしていた。しかし、サクマ製菓の社長子息は戦後の夢のない苦しい時代、せめて子供たちには様々な夢を持たせたいと考え、ドロップの種類を8種類から12種類へと増やそうと考えたのではないだろうか。ここで、サクマ製菓の理想である「子供たちに夢を与えるお菓子造り」に対する解釈の違いから、旧体制派、新体制派の分裂が起こった。長年社長に仕えてきた番頭ら旧体制派は社長の方針を曲げることを良しとせず、今まで通り8種類サクマ式ドロップスを作り、新しい夢を与えるべく社長子息ら新体制派は12種類サクマドロップスを世に送り出した。
5社程あったサクマ式ドロップスが結局はサクマ製菓から出発した2社に自然淘汰されたのは、結局の所、優れた理想をお互いが忠実に再現していたからこそであろう。本物は、いつの世も残るべくして残るものである。
そう考えると、お互いが本物を主張しあい、裁判沙汰まで起きてしまったことは非常に嘆かわしいことである。
サクマ式ドロップスサクマドロップスの両方が置かれている店というのは非常に希であることを鑑みれば、未だお互いに和解するにはいたっていないように思える。お互いが別の道を歩いているようには思えない。サクマ式の下に大きく書かれた登録商標の文字が消える日は訪れるのだろうか。

戦争が産んだシャム双生児、サクマ式ドロップスサクマドロップス。子供たちに与え続けたドロップの輝きは、それを食べた子供の笑顔と全く等しい。

 

サクマ式ドロップスとインタフェース

目の前には、サクマ式ドロップスがある。
一方、その横には明治のフルーツドロップがある。
金色に光る直方体の金属製の容器があり、側面には中に入っているであろう飴の写真が印刷されている。上部の取り出し口には同じ金属製の蓋がしっかりとはめられていて、この蓋を取り外すのはなかなかに厳しい。この二つの製品、一見すると全く同じような商品であるにもかかわらず、一部小さな違いが見受けられるのである。それは、ドロップの取り出し口の位置である。下の図を見てほしい。一方がサクマ式ドロップスとその取り出し口、もう一方が明治フルーツドロップとその取り出し口である。各頂点a,b,c,dは今後の説明で必要となるので意図的に付けたものである。

 

 

一目瞭然だが、明治のフルーツドロップは中央に取り出し口を配置しているが、サクマ式ドロップスは左側に大きくずれた位置に取り出し口が配置されている。

何故か。

もしも私たちがこの形のドロップを造ろうとした場合、私たちは何の疑問も持たないまま明治フルーツドロップの様に取り出し口を中央に配置するのではないだろうか?取り出し口とはそういうものが殆どである。今、私の目の前には「できるかな」のゴンタ君貯金箱があるが、その足下をみればお金の取り出し口が足部の中央にある。目の前にセガトイズのプーチがあるが、電池を入れる部分はおなかの部分の中央にある。何かを入れる、取り出すという行為に対しては、それ程深く考えるまでもなく中央に配置するのがごく自然の処方であろう。実は、ここにインタフェースの罠が潜んでいるのである。

インタフェースとは?

インタフェースという言葉を聞いたことがあるだろうか?コンピュータが普及するにつれて「ユーザインタフェース」という言葉がメディアに登場する機会も増えているから、どこかで聞いたことがあるかもしれない。しかし、同上の理由からインタフェースというものがコンピュータ関連の言葉だと誤解を受けているのも又、事実であるため、ここで少しインタフェースに関しての解説を挟もう。

インタフェースは「モノとモノを繋ぐもの」と定義できる概念である。コンピュータ関連でインタフェースという言葉が使われるときは、人とコンピュータ間における意志疎通を快適にするための方法、手段を指すことが多い。具体例を挙げよう。意志疎通を快適にする為の手段として最近で最も評価の高いものに、ホイール付マウスがある。コンピュータといえばインターネットと云われるほど、ここ2,3年急速にインターネットの利用人口が増えている。猫も杓子もインターネットである。猫と杓子の関係も非常に面白いのだが、解説は後に回すこととするが、とにかく、インターネットである。インターネットと云ってもその利用手段の殆どはブラウザを通じての情報受信である。インターネットの利用率が高まると云うことは同時にブラウザの利用率も高まったということを表し、ブラウザの利用率の高まりはそのブラウザに対しての不満点を大きく浮かび上がらせることとなったのである。
ホームページの情報量はインターネットの普及と共に増大し、それまでは一画面で収まっていたホームページの情報は、それと共に上下に長く伸び始めたのである。スクロールという言葉が巻物を指すことからも分かるように、我々は長く伸び続ける巻物をくるくると開き続け、たたみ続ける作業に没頭することを余儀なくされてしまったのである。
ホームページをみたい。という人間の要求を中心として、人とコンピュータ間における意志疎通を快適にするための方法、手段がインタフェースである。煩わしい巻物の作業を快適にするには、普段あいている中指にスクロールを担当してもらえばよい。そこから生まれた発想こそが、優れたインタフェースを産みだしたのである。優れたインタフェースは正当な評価を得る事ができる。だからこそ、あなたのマウスの中央にもホイールがついているだろう。
インタフェースが「モノとモノを繋ぐもの」である限り、世の中にある全てのモノにはインタフェースが存在する。そして、インタフェースは常に一方の要求を正確に把握し、快適な環境を提示することがその本質であるために、「なんとなく」という感覚で決められたインタフェースはインタフェースとは呼べないのである。

以上の事からおわかりいただけると思うが、サクマ式ドロップスの取り出し口は、人と飴とを結ぶインタフェースそのものなのである。
明治フルーツドロップは、ただ単純に取り出し口を配置したという印象しか受けない。つまりインタフェースに関しての気配りが感じられないのだ。サクマ式ドロップスも、昔は取り出し口は中央に配置されていたのである。しかし、ある年代を境に現在のように左に寄った位置に取り出し口が配置されるようになった。わざわざ工場の金属加工機を変えてまで配置を変更したのであれば、それにはそれなりの理由があるのだろう。
「左寄りの取り出し口」の理由を解明するには、サクマ製菓の歴史は余りにも長く、深い。そう簡単には進むはずもなかったのである。

しかし、邂逅は唐突に訪れた。

卒業研究でお菓子の画像が必要となったため、私はちょうど良い機会だからとサクマ式ドロップスと明治フルーツドロップをゼミに持っていった。お菓子の画像をデジカメに撮影し、お役ご免となったお菓子群は、早速私たちの食欲を満たすためのツールとして、その存在を全うすることとなったのである。サクマ式ドロップスも、なつかしい。という皆の感慨も一瞬で終わり、ハッカ飴が出た人が罰ゲームという確率的ゲームの生け贄となることを強制されていた。勿論、皆はサクマ式ドロップスの壮絶な過去は知らない。
その様子を眺めていた私は、サクマ式ドロップスと明治フルーツドロップに、ある大きな動作の違いを見つけることができたのである。 先ほどの画像にもう一度登場願おう。


これは、ドロップの容器を上部から見た図であり、各頂点にはa,b,c,dとマーキングされている。私が発見した動作を説明しよう。
取り出し口が中央に配置された明治フルーツドロップから飴を取り出そうとする際、人は辺b,c、もしくは辺a,dのどちらかに手を当てて容器を揺することにより、中に入った飴を取り出している。しかし、サクマ式ドロップスの場合は、点bを中心として辺a,bと辺b,cに手が触れるように斜めに容器を傾け、揺することによって中に入った飴を取り出しているのである。この違いは、非常に大きい。

容器から飴を取り出そうとする際、それを受け取る側の手は、落ちてきた飴を受け取るために、常に軽く曲げた状態で待機させる必要がある。そのとき、容器を斜めに傾ける事が出来るサクマ式ドロップスならば、辺a,bと親指が、辺b,cと人差し指が直接接着することによって、落ちてきた飴を落とす確率は非常に低い。しかし、明治フルーツドロップのように取り出し口が中央に配置されたものでは、斜めに傾けると飴の出口からの距離がさらに広がってしまうし、水平に容器を降っても受け取る側の指との接着面が少なく、飴を取り損ねる確率は非常に高くなってしまうのである。これは、実際にやってみるのが一番早い証明となるだろう。

どちらでも大した違いはない。と考えた方はいるだろうか?その人は、もう一度インタフェースの原点を振り返ってみてほしい。インタフェースは常に一方の要求を正確に把握し、快適な環境を提示することがその本質であると述べたが、サクマ式ドロップスにおけるユーザとは小さな子供であり、その要求は「ドロップは一度に全て食べるものではなく、子供が毎日一つずつ楽しみに食べることにこそ意義がある」のである。子供の毎日の楽しみであるドロップは一粒たりとも無駄にしてはいけない。取り出し口を中央に配置することで多少なりとも取りにくくなるのであれば、そこにも最善を尽くすべきである。大人が取りにくいのであれば、手の小さい子供であればなおさらである。さらに、商品改良が功を奏し暑い夏でも溶けにくくなったとはいえ、子供が長い間食べ続けていれば、多少は溶けてしまうこともあるかもしれない。溶けかけた飴は取り出しにくい。子供はありったけの力で容器を振り続けるだろう。だからこそ、少しでも取りやすく、少しでも落としにくくする必要があったのである。

ここから得られる教訓は非常に大きい。
インタフェースはただ漠然と定めるものではない。ユーザを明確にし、そのユーザの目的を正確に定めることによってこそ、優れたインタフェースが産まれるのである。
お菓子産業は巨大企業と零細企業の二極化が激しい産業分野である。明治という超巨大企業が缶入りドロップという市場になぐり込みをかけているにもかかわらず、缶入りドロップといえば未だにサクマ式ドロップスしか思い浮かべない。優れたインタフェースとは、そういうものである。

カランカラン、サクマ式ドロップスを表現するには最も適した音である。
今では意識することのない太陽も、虫網を抱えて走り回った幼少時代には、常に視界のどこかには見えていた、そんな夏の日。カランカランと音を立てて取り出した一粒の飴は、友達と走り回っている間にいつの間にか無くなってしまった。そして、友達との約束は「また明日」。明日もまた飴を一粒。サクマ式ドロップス。

QED

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