円山応挙宅址

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円山応挙
応挙は享保18年(1733)丹波国桑田郡穴太村(現亀岡市)の農家に生まれたが、幼少より画を好み17才のとき、京都に出て狩野派の画家石田幽汀の門に入り、画法を学んだ。写実主義に傾倒し、三井寺円満院門主の知遇を得、幾多の名作を世にあらわした。
この地に居をかまえたのは、若い頃、近くの四条道場金連寺の境内に借家住まいをしていた関係からでもあろうか。その画風は当時の京都画壇を風靡し門人1000人といわれ、呉春の四条派と京都画壇を二分する流派(円山派)をなした。
寛政5年(1793)応挙は病にかかり、間もなく回復したが、その後は歩行の自由を欠き、視力も衰えた、それにもかかわらず、毎年伏見の梅渓(現伏見桃山)に梅見に行くのを楽しみとしていた。亀山候依頼の名画「保津川図」を描いて間もなく同7年(1795)7月17日、63才で没した。墓は太泰の悟真寺にある。




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