七夕伝承・中国での起源


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牽牛と織女(090219)

世界樹から分裂した西王母と東王父は、春秋戦国時代に至りその信仰が次第に薄れてゆきます。宇宙軸は機織りの部品にデフォルメされて伝えられ、七夕や 月中の織女 (月に織女がいるとする話は世界中に分布しております)の話などが混ざり合ったのではと言う気が致します。もともと西王母には機織りの神としての役割があったのかは未だ分かりませんが、この時代の壁画などには機織りの道具を持っているものもあります。この時代に、牽牛はアルタイル・織女はベガに割り当てられたと考えます。

秦の時代になり鉄器文化となり、又、灌漑事業が進み、男性は牛を引いて田を耕す、女性は機を織る図式が出来るとともに現在に残る七夕の話が完成したのではないかと考えます。


七夕説話の完成(090219)

さて七夕の起源は早くとも春秋戦国時代の中期、完成は後漢の末期であろうと思われます。農耕の発達・書物・天体観測の3点でお話しますけれども、欠点が多いのです。

農耕の発達(090219)

中国での農耕の始まりは非常に古いのですが、鉄器の農具は春秋戦国時代に普及します。また灌漑農業は漢の時代になります。この頃にほぼ農耕の手順などが確定したそうで、男性は牛を引き農作業、女性は桑を育て蚕を育て機を織る図式が出来たそうです。宗の時代になると農作業の手順が「絵」によって表されて来ます。
七夕の土台となる「牛引き」「機織り」は、灌漑農業が出来た漢の時代前後から更に遡りますと、農作業の定形として一般化していないように思われます。一般化していなければ、七夕伝説の普及は難しいと思いました。

詩経の小雅大東の詩(090219>

漢(かわ)は、以前の説明の通りに、漢水を指す説が最有力なようです。
牽牛は、史記天官書に「牽牛は犠牲を為す。その北に河鼓あり。河鼓の大星は上将にして、左右は左右将なり」とありますので、牽牛は二十八宿 の牛宿を指していて、その北の河鼓が現在の牽牛(アルタイル)のようです。「将」とありますので七夕とは関係ないようですね。この書物は漢代です。

織女星は、同じ書に「織女は天の女孫なり」、春秋緯元命包には「織女の言いたる神女なり・・・」と詩経の話に準じているようです。この中で「織女は瓜果を主どる」とありますので、供物を供える元かと思われます。晋書天文志(後漢末期の三国時代の後の晋)では「織女3星は天妃の東端にある天女である。果瓜糸綿珍賽を司る・・」と「糸・綿」が出てきます。

具体的な七夕の説話が本に登場するのは、梁(502-556)の荊楚歳時記に(#372)、七夕の説話は完成しています。春秋戦国時代に既に説話はあった事になります。その後カササギの話などがつけ加わり後漢末期に、ほぼ現在の形に成ったようですね。但し荊楚歳時記には、七夕の話の骨格のみで、付随的な話が省略されていたとすると、この考えは覆ってしまいます。また荊楚歳時記は当時の風俗を述べた書で、作者の創作を語っている可能性も多分にあるとの事でした。

天体観測(7月7日)(090219)

牽牛星・織女星が最も接近(厳密に観測する場合で、見て分かる角度ではありません)するのが7月の初旬になります。#372の荊楚歳時記の原文には「唯毎年7月7日夜、渡河一会」が私の調べた範囲では日付の最初の記述でした。次には晋の伝玄(217-278) の擬天問に「7月7日、牽牛織女天河会」とありました。荊楚歳時記の7月7日が観測を基にしているならば、春秋戦国時代より更に更に古い伝説である可能性がありますし、陰陽五行説から7月7日の「ぞろめの奇数の日」が当てられたのでしたら、七夕伝説が普及して観測され結果が出る(擬天問)までに十分な時間があることになります。
主な参考文献は 中国古代神話 森三樹三郎 清水弘文堂書房 です。


漢代の話(090219)

□□□ 客星であった張騫(チョウケン) □□□
天の川の源流を探し出せ。との漢の武帝の命を受け武将張騫は、舟に乗り天の川を遡っていった。数カ月後に何ことも知れぬ地に辿り着き、ふと川岸を見ると、一人の女性が機を織っている。その傍らには一人の翁が牛を連れ立っている。此処は何処かと尋ねると「ここは天の川で、我々は織女星と牽牛星です。貴方は誰ですか?」と問い返されました。張騫は「私は武帝の命令で天の川の源を探りに来たの者です」と答えました。すると二人は「此処が源です。そろそろ引き返された方がよいでしょう」張騫はその言に従って引き返し、武帝にこのことを報告した。 このとき天文官が「7月7日に、天の川に大きな客星が出現してします」と上奏し ました。 ・・・と話が続きます(文体がコロコロ変化してすみません)
張騫は牽牛織女の逢う7月7日に、天の川の源流まで辿り着いたわけですね。それを下界から見た天文官には張騫は客星に見えたわけです。

漢の武帝の頃はBC140年頃です。ローマのプリニウスの本に、BC134年7月、さそり座で新星が現れた記述があるそうです。


乞巧奠(090219)

唐の玄宗の時代になり、織物の上達を願う乞巧奠と言う祭りが7月7日に行われ、七夕は「星祭り」として確定していったと思われます。
祭りの日が7月7日に決まったのは、陰陽五行説に基づいておりまして、陽の数が重なった日である7月7日に、互いに強く慕い合う牽牛・織姫の2つの星がその日だけ会えるという説と、七夕と乞巧奠(女子が裁縫や手芸の上達を願う上代に行われていた風習)とが結びつき、願いが叶えられるという意味で両星を祀り、裁縫や手芸の上達を祈るという1本の行事となったと言う説もあるようです。七夕は7日で七日月(上弦の月)で星見に月明かりが邪魔にならないで、しかも夜半には夏の大三角であるベガ・アルタイルの位置も見やすく、農作業もひまなときなので好都合だったのでしょう。
因みに七夕とは中国語であり、日本では棚機(たなばた)をそのまま七夕の訓としたものです

唐の玄宗皇帝といえば傾国の美女楊貴妃。楊貴妃は華清池に湯を賜り、天宝十載(751)7月7日、麗山の離宮にある長生殿において比翼連理の誓いを結びました。「比翼連理」とは白楽天の「長恨歌」によって一躍有名になった言葉で、天上では翼のついた二羽の鳥、地上では枝がくっついた二本の幹のように、夫婦の深い契りを言います。

7月7日の牽牛と織女が相会する夜に、夫人たちは7本の針に5色の糸を通し庭にむしろをしいて机を出し、酒、肴、果物、菓子を並べて織物が上手になることを祈りました。
織女、牽牛伝説に関連し乞巧奠の行事が生じ、日常の針仕事、歌舞音楽の芸事、そして詩歌文字などの上達を願う行事へと発展してきたようです。
このように中国では七夕の行事は唐の時代より盛んになり、上記の玄宗が長生殿で乞巧奠を行ったのがはしりといわれています。日本では孝謙天皇の天平勝宝7(755)年に宮中で行ったのがはじめとされております。

参考引用:年中行事を科学する


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