![]() |
|
◆◆◆ クリスマスの日 ◆◆◆ |
毎年12月25日のクリスマスの日はキリストの誕生日とされています。 しかし教会によっては1月6日をキリストの誕生日としているところもあります。なぜこのような違いが出たのでしょう。そこでなぜ12月25日がクリスマスの日になったのか お話しようと思います。へ(^^へ)もうお分かりですね。 12月25日がキリストの誕生日と言う証拠はないからなのです。
◆◆◆ 聖書の記述から ◆◆◆ |
さてキリストの生まれた年が西暦何年かは、 古天文の「ベツレヘムの星」の項に譲る事ととしまして、 ここではキリストの生まれた月日に焦点を当てる事に致します。
キリストが生まれる場面は新約聖書の「ルカによる福音書」にあり、 ベツレヘムの星の記述ある箇所の前の第2章7節にあります。「 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリアは月が満ちて(6節)」
「初子(ういご)を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた〜後略〜(7節)」
マリアは夫ヨセフと伴にシリア総督の人口調査の登録をするためにベツレヘムに来ていましたが、 ここまでの記述では「月日」を示唆するような記述はありません。続く第8節に 季節にかかわる記述があります。
「 さて、この地方で羊飼い達が夜、野宿しながら羊の番をしていた(8節)」
さて羊飼いがパレスチナで野宿できるのは3或いは4月から11月頃までであると言うことなので、 少なくとも季節的には「冬」ではない事がわかります。
キリストの誕生日は12/25ないし1/6との事ですので、 「羊飼い達が夜、野宿しながら羊の番」との聖書の記述とは一致しないことに なってしまいます。ではどのような変遷でキリスト誕生の日を決めたのでしょうか。
◆◆◆ 初期 ◆◆◆ |
古代の教会では、キリストの死亡した日が重要でありまして、 生まれた日を重視しなかったので、生まれた日付に関しては、見解を示していませんでした。 誕生日を祝う習慣は異教徒の風習であるとされ問題視されなかったためです。しかしこの時代からすればキリスト教徒は新興宗教であったので、 既にあった宗教をまったく無視続けていては、 人々をそれまであった宗教から、キリスト教へ改宗させるのは非常に困難であったのです。 その様子がクリスマスの起源からかいま見えます。
旧約聖書の最初の創世記・第一日に 【神は「光あれ」と言われた。すると光があった】と 記述されています。これは神の言葉によって、混沌又は暗闇の状態よりも遥かに良くなった ことをも示唆しております。P典創世記では、太陽よりも先に 【光を造り、昼と夜を分けた】 と書かれており、違う典では 【夕となり、また朝となった】とあります。 注)ユダヤでは一日の始まりは日没からです
さて、「昼と夜を分けた」を昼と夜を半分半分に分けたと推測しまして、 その日は昼の長さと夜の長さが同じになる春分の日(ニサン)であると考えました。 そこで当時春分の日は3月25日に定められていたので、 その3月25日が天地創造の第一日目と考えたのですね
次に旧約聖書のマラキ書第4章第2節に 【義の太陽が昇り】 第3節【その翼にはいやす力をそなえている】とあり、 救世主(メシア)は「義の太陽」と 言うことになります。旧約聖書の創世記では第四日に「神が太陽と月を造った」ことに なっておりますので、その日は3月28日になります。
このような理由で、イエス・キリストは3月28日に生まれたと考えたのです。
それにしてもこの記述「有翼日輪」ですね。え!ほらエジプトとかゾロアスター教とか ミスラ教とかで出てくるでしょ。あ!画像持ってたな。
こう言うやつ。私は皆既日蝕のコロナだと思うんだけどな・・・なんの話しでしたっけ・・・あそうか 話しを戻さねば(^^;
その他上記の説をこねくり回して(^^; 【4/29】.【5/20】.【4/2】などの説もあったようです。 何故春にこだわったかと言いますと、世界の始まりは春、キリストの降誕も春、亡くなったのも春 とすっきりしたかったようです。
キリストの母マリアがキリストを身ごもったのが、世界創生の最初の日と合わせて春3/25として、 出産を9ヶ月後とすれば、12月25日がキリストの誕生日となります。
またキリストの死亡した日4/6と、受胎の日を合わせれば、その9ヶ月後の1月6日が キリストの誕生日となります
この12月25日や1月6日はキリスト教の初期段階では、他の日付と同じぐらいの意味合いの日付で、 有力な説と言う訳ではなかったようです。時が経ち 東方教会では次第にこの1月6日の説を採るようになってきました。
キリスト教はもともと使徒や殉教者などの祝日も彼らの命日を使っていました。 キリストも例外ではなく命日とその後の復活の日が重要視されたのです。だたまったく誕生日が省みられなかったわけではなくて、マタイ伝・ルカ伝にも ベツレヘムの星の記述などと伴に特別な日として書かれています。
ただし異教徒の風習だと言っても、当時の状況ではキリスト教の方が 遥かに少数であるわけで、それまでの習慣・風習・又、他の宗教を 完全に無視しては成立しえない立場にあったことは確かですね。
◆◆◆ ニケアの宗教会議 ◆◆◆ |
時代は下って、起源後325年〜354年の間にキリストの誕生日は1/6から12/25に変わった と言う事がほぼ確実であるようです。確実な記録としましては、336年12月25日にキリストの降誕祭が行われました。 1/6は顕現祭となったようです。ではなぜ変更があったのでしょう。
まず、キリストが救世主であることで意見がわかれていました。 それは 神が洗礼の時に、「これは愛する私の子」と言ったときに救世主としての性格を帯びる と言う考えと、「受肉の時」すなわち 人間として生まれながらにして救世主であるとする 2つの考えです。この2つの説では時間的に差が出てくる事になります。このような説のバラツキに統一見解を出すため行われた、ニケアの宗教会議において、 「イエス・キリストの内に神自身が人間となった」とする説以外を、 全て異端とすることを決定した事に有ります。 生まれながらにして救世主の方を採ったのですね。
1/6はキリストが洗礼を受けた日として顕現祭が行われてきてしまったので、 その前の12/25が採用されたわけですね
現在では神の言葉と伴にこの世にきたとされているようですね。
この第二の理由の方が遥かに重要な事なのです。当時の最大の宗教勢力は ミスラ(ミトラ又はミトラスなど)教でありました。このミスラはもとはゾロアスター教(拝火教)の 大天使で、太陽崇拝の象徴でもありました。このミスラは有翼日輪の姿で表されます。このミスラの誕生日は冬至の12/25でありました。この日は昼の長さが一番短くなる日で、 これより段々と昼間の時間が長くなり出します。つまりは段々と出てこなくなった太陽が この日を境に復活し始める意味を持っていたからです。
このミスラ神の太陽崇拝とキリスト崇拝を結び付けるために、 もとは熱烈なミスラ教の信者で、後にキリスト教に改宗したローマのコンスタンティヌス大帝が 意図的に12/25の日付を使った事も影響しました。
キリストが地上に降り立つ際に、闇の中から輝くイメージがあるので、 太陽を拝むのではなく、その太陽を造ったお方を拝めと言い、 同じ日付を使う事で混同を狙ったのでした。
◆◆◆ バッコス神・コレー神・オシリス神 ◆◆◆ |
ではその他の神々が日付に与えた影響も見てみましょう。ローマ名バッコス神つまり ギリシア名ディオニュッソス。ローマ名コレー神つまりギリシア名ペルセポネ。 とエジプトのオシリス神でお話しましょう。
ディオニューソスは酒の神で主に葡萄酒を指します。 星座のお話ではかんむり座ですとか、ヘラクレス座などのお話にも登場します。
ブドウは黒海の南岸で栽培されて、パレスチナなどを経由してギリシアへと入ってきました。 ディオニューソスも、同じ経路を辿ったようであります。 また一説にはビールの神であったものに、葡萄酒が付け加わったとする説もあります。
おとめ座のデメデルの祭儀にディオニューソスが加えられたのは紀元前6世紀初頭で、 葡萄酒に酔い舞い狂うディオニューソスの祭りは当時の支配者からは危険視されていたようです。 その様子はこと座のお話にもかいま見えます。
このディオニューソス祭が1/6に行われました。季節的には冬至が過ぎ少し昼が長くなったのを 実感できる時でありました。
ペルセポネは冥府の神ハーデスの妻で、おとめ座のデメデルの娘です。 ハーデスの妻となったとき冥界の食べ物を口にしてしまったので、 この世に帰ってくる事が出来なくなってしまいましたが、 食べた量が少なかったので、半年は冥界に、半年は母のもとに帰ってきます。ペルセポネが冥界にいる間、デメデルは怒りのため作物を実らせない季節、つまり 秋から冬にしてしまいます。デメデルは季節と実りを司る神なのです。 このためデメデルがいるとされるエレウシースでは、 ディオニューソスやペルセポネをも合わせ、大変多くの信者がおりました。
この冬の季節に、ペルセポネが主催するとされる 「時又は永劫の神アイオーンの誕生祭」を行っておりまして、 その日が1/6に当たりました。
エジプトにおいて1/6は死後の再生の象徴オシリス神を祭る日でもありました。
エジプトのセト神はギリシア神話の大地母神ガイアの子のテュフォンと混同されました。 やぎ座のお話で出てくる怪物ですね。このセト神が五柱神の1人オシリスを倒しまし、 14の部分に切りあちこちにちりばめました。
バビロニアのティアマトもテュフォンと同一視されましたが、 バビロニアではティアマトがバラバラにされます。
話しをエジプトに戻しまして、 同じ五柱神でオシリスの妻のイシス神は、オシリスの体を繋ぎ合わせ再生させました。 そして息子のホルス神に命じセト神と戦わせました。 ホルス神はこの戦いでも、更なるもう1度の戦いでもセト神に勝ち、 至上権を得る事になります。
このようにオシリスは死後の再生を強く願うエジプトの信仰の中で重要な位置を占め、 特に1/6のナイル川の水は特別な奇跡を行う力を持つとされました、
この1/6にキリストが洗礼を受けヨルダン川で神に「あなたこそ私の愛する子」と いう声と伴にこの世に来たとして、それまでの宗教勢力に対し、キリストこそ 地上に現れた神的な存在であるとしたのです。
◆◆◆ 現在 ◆◆◆ |
ローマのコンスタンティヌス帝は、臨終の床で洗礼を受けるまではキリスト教徒ではなかたのです。 太陽神の2つの像を造らせ、1つはヘリオス(ギリシア神話の太陽神)、もう1つは自分であると 文を刻ませていたほどでした。そこで洗礼の後、その太陽の日Soontag(Sunday)、つまり日曜日を「主の日」 と呼ぶ事にして、キリストを太陽と結び付けようとしました。 現在でも各国で日曜日は「太陽」を表すか、「主」を表すかが大勢を占めていますね。
この辺りまでは、キリストの誕生日として1/6と12/25はどちらともつきませんでしたが、 386年12月10日にクリュソストモスのクリスマス説教により、12/25に決着がついたようです。しかし、例えば東方の教会ではキリストがいたのはこの地であるので 指図は受けないと、すべての教会でキリストの誕生日を12/25日とする事を納得したわけではなく、 現在でもキリスト生誕日に関しては取り扱いが分かれているようです。
現在、おおまかな区分では以下の様に取り扱われているようです。
12/25採用 1/6採用 1/18ないし19採用
- ローマ・カトリック教会
- プロテスタント教会
- コンスタンティノープル教会
- アレキサンドリア
- アンテオキア
- ルーマニア
- キプロス
- ギリシア
- フィンランド
- ディアスポラ
- エルサレム
- ロシア
- セルビア
- ブルガリア
- グルジア
- ポーランド
- チェコ
- エチオピア
- コプト
- シリア
- インド
- アルメニア
新約聖書・日本聖書協会
旧約聖書・日本基督教団出版局
クリスマスの起源:O・クルマン著/土岐健治・湯川郁子訳:教文館
エジプト神イシスとオシリスの伝説について: プルタルコス著:柳沼重剛訳:岩波文庫/青664-5
世界の神話伝説:自由国民社
ディオニュソス:カール・ケーレニイ著
ギリシアの神話/神々の時代:カール・ケーレニイ著:中公文庫