≪愛知県国民保護計画(案)に対する パブリック・コメントの結果について≫「愛知県防災局防災課 国民保護グループ 2005年10月18日」
「愛知県国民保護計画(案)」に対する意見
[市町村名] xxxxxxxx [年齢] xx歳 [性別] xx [職業] xxxx
[意見内容]
「愛知県国民保護計画(案)」とは摩訶不思議な名称のついた計画である。県の計画ならば、「県民」ないし「住民」であるのがよい。それだけに県レベルでは手に負えない国政レベルの厄介な計画であることを、暗に示しているのかも知れない。県の案に対するというより、県を通じて重ねて政府に意見を述べたい。したがって、「国民の保護に関する基本指針要旨」について述べたのと同様の意見を記す。如何に用意周到な計画でもその根本に考え違いをしているのでは、国民保護も覚束無い。住民の安寧秩序を得るために、地方自治体は真に何をすべきなのか共に考えたい。
国民の保護を課題とするならば、原子力発電所の全廃を国策ないし県の最優先実施項目として挙げるべきである。わが国には現在、北海道から九州まで満遍なく原発が行き渡っている。その数52基で、建設中・計画中を含めれば63基で米国に次で世界第二位である。自然災害、特に地震よる原発災害が云われる中、廃止は喫緊の事である。1986年4月26日、チェルノブイリ原発で原子力発電開発史上最悪の事故が発生したことは記憶にまだ新しい。 加えて、多発する大型自然災害の対応に追われる地方自治体に、「新たな脅威や多様な事態」という災厄を作り上げ、さらなる負担を押し付ける国民の保護のための措置とは何なのか。
国民保護法は何の為の法制か、それは紛れも無く自然災害とは異質の政治災害若しくは政策災害に対するものである。それは他国から惹起されることよりも我が国の在り方から引き起こされるものである。 その政治災害の淵源を辿れば、敗戦後に於いて日本占領にあたった米国の政策であり、国民の保護よりも地位の保証を求める政府にあった。その両者の結実が1951年9月8日、サンフランシスコにおける、軍備制限条項を設けてない「日本国との平和条約」であり、「日本国は、武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない」、「無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので、前記の状態にある日本国には危険がある。」というおかしな理屈から、日本国が希望しているとし調印された「日米安全保障条約」である。既に1943年9月にはイタリアが降伏し、1945年5月にはドイツが無条件降伏し、ヨーロッパでの戦争は終り、この時期日本は50カ国に及ぶ国々と戦争状態にあって孤立したのである。そして1945年8月15日日本国は降伏し、無責任な軍国主義の当事者であるために武装が解除されていたのである。 1946年11月3日にその縛りとして我が国の以後のあり方を指し示した現憲法が公布されたにも拘わらず、再軍備をさせようとの米国の意図が盛り込まれて現在に至っているのである。あたかも小判鮫の様子を呈している我が国のあり様である。いつの日か、「複雑怪奇なる新情勢」が米国に生じないとも限らないのである。 1960年1月19日の「日米相互協力及び安全保障条約」の第一条、国連憲章との関係で、「締約国は,国際連合憲章に定めるところに従い,それぞれが関係することのある国際紛争を平和手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決し,並びにそれぞれの国際関係において,武力による威嚇又は武力の行使を,いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも,また,国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むことを約束する。締約国は,他の平和愛好国と協同して,国際の平和及び安全を維持する国際連合の任務が一層効果的に遂行されるように国際連合を強化することに努力する。」としている。 しかしながら、1997年9月23日「日米防衛協力のための指針」では、「日本に対する武力攻撃及び周辺事態に際してより効果的かつ信頼性のある日米協力を行うための、堅固な基礎を構築することである。」として踏み込んだものになっている。そのため、平素からの行う協力として、「各々所要の防衛体勢の維持に努める。日本は「防衛計画の大綱」にのっとり、自衛のために必要な範囲内で防衛を維持する。米国は、そのコミットメントを達成するため、核抑止力を保持するとともに、アジア太平洋地域における前方展開兵力を維持し、かつ来援し得るその他の兵力を保持する。」とある。 確かに、本指針でも日本の憲法上の制約の範囲内を謳い、専守防衛、非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)の基本的な方針に従って行われるとしているが、共同防衛(安全保障条約の第五条)から、実質的にはこの原則は破られ、自衛力の範囲は逸脱している。イラクへの自衛隊派遣が如実に示す例である。済し崩しに既成事実を作り上げ、その結果、憲法と現実との乖離を憲法を変えることによって帳尻を合わせようとしているのである。 憲法を忠実になぞるなら、日本としては軍備縮小、核廃絶への努力こそされるべきであって、「備えあれば憂いなし」の下に軍備強化・拡張を計る事でない。個人ならいざ知らず国家間においてこの俚諺を適用すれば、際限の無い軍拡競争が惹起されるだけである。既にその兆候として、ロシアは本年より大陸間弾道弾(ICBM)「トーポリM」の移動式の改造型配備を明らかにした。米国のミサイル防衛網を突破する能力を備え精度も向上させたとある。 国民として望むのは、安寧の中に明日への希望を託して、日々の生活を過ごす事である。決して疑心暗鬼の世界に彷徨うことではない。先の大戦で政府は他の国民と自国民とに甚大なる戦禍を与えて来た。その多くの犠牲の上に築かれた憲法の前文に、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」の文言は、単に自国民と自国政府の間の約束事ではなく、世界の国々の人々へ向かっての誓いでもあることを、忘れてはならない。しかしながら、この国の政府は「自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて」の文言を歪曲し、戦争の可能な体制と急いでいる。
日本国民は戦後60年間、憲法の指し示す方向と逆行する日米安全保障条約との拮抗の中に生きて、今その権衡が形式的にも実質的にも崩れ去ろうとしている。政府は「新防衛大綱(〇五年度以降に係る防衛計画の大綱)」で、「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国 2002年7月現在 外交関係を有する国家は197国中151ヵ国:うち南北双方が外交関係を有する国は147ヵ国)は大量破壊兵器や弾道ミサイルの開発、整備、配備、拡散等を行うとともに、大規模な特殊部隊を保持している。北朝鮮のこのような軍事的な動きは、地域の安全保障における重大な不安定要因であるとともに、国際的な拡散防止の努力に対する深刻な課題となっている。」とし、また中国についても「この地域の安全保障に大きな影響力を有する中国は、核・ミサイル戦力や海・空軍力を推進するとともに、海洋における活動範囲の拡大などを図っており、このような動向には今後とも注目していく必要がある」との認識を示す。 翻って我が国は、「憲法第九条で日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」としながら、防衛関係費では世界のトップクラスの支出である。その上経済大国であることを自他共に認めているところである。ミサイル技術はどうか。2月に打ち上たH2Aロケットは平和利用から立派に軍事利用へと転用が可能ではないのか。標準型のH2A202は4.1トンの衛星を軌道に運ぶ能力がある。さらに原発を持つ日本は、既に40トンを越える猛毒のプルトニウムを保有している。その上ミサイル防衛システムである。これで北朝鮮がテポドンを発射したことや北朝鮮の核計画の疑惑を非難できるのだろうか。冷静に考えれば分かることである。北朝鮮は韓国とは戦争状態であり、米国とは休戦中の状態である(1953年韓国を除く米・中・朝休戦協定に調印)。 日本は特に東アジアで、軍備による緊張感を高める方向でなく、あくまでも平和外交に徹しての道を選ぶべきである。国民の安堵感はそこにしかない。
国民に示された新防衛大綱の認識の中から、どうすれば武力攻撃事態等が出来するのであろうか。何とも間の抜けた状況判断である。なぜなら、我が国の防衛の大綱を支えている論理的根拠となる相手国の軍事力の整備は、今に始まったことでは無く、ここにきて脅威乃至武力攻撃が突発する訳でもないからである。国際テロ組織等の活動を含む新たな脅威を挙げるが、これなどはまさに政府が呼び込んでいる政治災害そのものである。 同盟国の米国は、北朝鮮などの弾道ミサイルに対抗するために導入を目指すミサイル防衛(MD)の実験で、迎撃ミサイル発射不能の結果を受けて、「(敵弾道ミサイルの)脅威は強まっておらず、(稼動を急ぐ)圧力はない。」という(ラムズフェルド国防長官2004年12月22日)。つまり、中国・ロシアの米国本土に到達する大陸間弾道弾の存在は脅威となっていないのである。ましてや北朝鮮の攻撃能力など恐れてはいない筈である。 相手国から見れば、日本の新防衛大綱に示すような考えをもって処すれば、むしろ日本の方が脅威と映り、朝鮮半島や台湾海峡における不安定要因となっているのである。現に各国から懸念を表明されている。 日本が1945年9月2日に東京湾上の米艦ミズリー上で、正式降伏するまでに受けた戦禍等の記憶は、日本が動向を今後とも注目していく必要があるとした国々からは、消えていないのである。
拉致問題では声高に経済制裁を唱え、国民を煽りその反響を受けてさらに増幅し、脅えの影を大きくそして濃くし、事態を悪化させ、敵国視させ、憎しみを増幅させている。山積する内政問題にはその能力を十分に発揮せずに、国民の目を増税等から逸らさせる。平成17年1月1日 小泉首相の年頭所感に、「北朝鮮との関係については、拉致の問題、核の問題、ミサイルの問題を包括的に解決するために、国際社会と協調し、「対話と圧力」の方針で粘り強く交渉にあたります。「日米同盟」と「国際協調」を基本に、今年も国益を踏まえた主体的な外交を展開いたします。」とあるが、一見バランスとれた外交のようであるが、日米同盟という鎧を着けていては既に喧嘩腰であり主体的な外交には程遠いのである。江華島事件などの一連の歴史の繰り返しである。 日本はなぜ隣国との平和的調整が採れないのか国民としては悔やまれるが、これも日米安全保障条約が首枷となり障壁となっているからである。 米国にとって、太平洋の西の果てに南北に弧を描く列島は、願っても無い防衛ラインとなることは、見慣れた日本地図を手に持ち、右手側を下にしてみれば容易に理解できる。米国にとっては、前線基地であり、例えそこが主戦場となり攻撃され核爆弾がまたもや破裂しようが、使い捨ての駒である。米国本土からは遠く離れているのである。
脅威や平和と安全に影響を与える多様な事態とは何なのか。これら多様な事態を作り出しているのも新たに描くのも政府自身ではないのか。国民を不安に陥れて、国民保護法を制定し、憲法を越えたところで国民を管理する国家緊急権の設定ではないのか。新防衛大綱にいう新たな脅威は米国のこれまでの対外政策が作っているのである。証の一つとして国際兵器売買全体では41%の輸出を米国が占めているのである。これは事実上の大量破壊兵器の拡散である。その結果が跳ね返っているのである。そして日本はミサイル防衛に伴う決定で、米国との武器共同開発・生産までを共にし、武器輸出3原則を破る。米国は正に国際紛争の当事国または、そのおそれのある国である。新防衛大綱で他国へ懸念したことを自ら実施するのであるから、何とも矛盾したことである。
さて「国民の保護のための措置の実施に関する基本的な方針」第1章で、国民の協力を得つつとあるが、混乱の極みの中で、国民保護計画又は国民保護業務計画に基づき、整然と避難できるものだろうか。卑近な例を挙げれば米国での混乱を極めたハリケーン避難騒動である。保護計画は予知可能な自然災害ではなく、主体が戦禍である。生死の真っ只中で、寸刻を争う中で手引書を紐解くような悠長なことは、現実には無理である。ミサイル攻撃では短時間(約10分程度)で明暗が分けられる。私の住む市の人口79,572人 30,398世帯(平成17年8月末現在)が、どのような事態に、どのように対処しながら、何処に避難するのか(誘導されるのか)。飛来するミサイルの弾頭には核爆弾か、生物兵器(細菌、ウィルス、毒素や、これを充填した砲弾・爆弾で、人、動物又は植物に害を加えることを目的としている)か、化学兵器(毒ガス、またはこれを充填した砲弾・爆弾をいう)か、それとも高性能火薬の詰め物か、破裂するまでは一切不明である。ミサイルは精度が悪いゆえに都市型攻撃に用いられるのである。何処を狙っているか、何処に着弾するのかなども含め、正確な情報など適時適切に出せるはずが無いのである。ミサイルの波状攻撃にあったら一溜まりも無いのである。情報伝達手段が破壊されることも考慮に入れるべきである。最も不可思議なことは、国、地方公共団体、指定公共機関等関係機関は無傷で相互の連係協力体制が確保されるとの判断である。そして短時間に複雑な組織体系が整然と措置を為し得て、国民はどこか安全な避難先に保護されるという想定である。極めて楽観的なお伽話のような想定である。密な組織ほど連携の繋がりが欠けた時、瓦解しカオスに陥ってしまうのである。東京大空襲の例をとるまでもなく、真夜中の攻撃も想定される。避難民は右往左往し、惨禍に遭うのである。 ボランティア活動と戦争状態についていえば、イラクの非戦闘地域で活動する自衛隊の基地に日本の報道機関は入っていない。なぜか。種々の理由の中で、やはり安全の保証ができない、ということも挙げられる。武力攻撃されることは戦争状態に突入していることである。相手が降伏するかこちらが敗北を帰すか或いは休戦協定に調印するのか、いずれにしても当事国政府間等で明確にすべき事柄である。その結果戦争状態の停止が確認され国民に伝達されるのではないか。「武力攻撃事態等においては」とか「武力攻撃事態等の状況を踏まえ、その適否を判断するとともに、ボランティアの技能等の効果的な活用等に配慮するものとすること。」とのことは無いのである。事態対処法第一条・第二条によれば臨戦態勢であり、武力攻撃は我が国に対する外部からの武力攻撃をいい、武力攻撃事態は武力攻撃が発生した事態又は武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態をいい、武力攻撃予測事態は武力攻撃事態には至っていないが、事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態をいうのである。これら三事態を武力攻撃事態等と称しているのである。武力攻撃事態等においては、ボランティアが登場している余裕は無いのである。この事態等は自然災害ではないのである。 「国は、地方公共団体の協力を得つつ、パンフレット等防災に関する啓発の手段等も活用しながら、国民保護措置の重要性について平素から教育や学習の場も含め様々な機会を通じて広く啓発に努めるものとすること」としている。国民はどのように啓発されたらいいのか判らないが、肝心なことは多くない。どのように言辞を多用しても国民にとっては、要は生命、財産がどう保証されるのかである。これに尽きるのである。 「指定公共機関及び指定地方公共機関がその業務について国民保護措置を実施するに当たっては、その実施方法等については、国及び地方公共団体から提供される情報も踏まえ、武力攻撃事態等の状況に即して自主的に判断するものとすること」いわれても、日本銀行、日本赤十字社、日本放送協会その他の公共的機関及び電気、ガス、輸送、通信その他の公益的事業を営む法人は、自主的に何をするのだろうか。武力攻撃事態等が起きた時、政府は干渉している隙が無いから勝手に判断せよということなのだろうか。日本赤十字社などは言われなくても必要なこと、つまり、人の命の尊厳を守るため、様々な人道的活動を実施するのでないか。また放送の自律を保障することにより、その言論その他表現の自由に特に配慮するものとすることの縛りがあっても、放送に携わるものにしてみれば、武力攻撃事態等の情報の入手先は限定される。適宜に的確な情報開示がなされ、そしてその情報を検証することができなければ、大本営発表になりかねない。所謂、挙って垂れ流しである。また放射能汚染等による悲惨な光景が出来したとき、自然災害の様な現場からの放映は報道機関が無傷としても極めて困難であり、国民が事実を知るのは後のことになる。 わが市には風水、地震災害の指定避難先として小・中学校(計12か所 発災直後48,000人 初期4,750人/(1人2平米) 長期3,230人/(1人3平米) 2,300人(最小)〜7,400人(最大)/か所当たり収容)が宛がわれている。また地震災害の一時避難所として、市内各所の公園48か所(151,400平米、一時収容人員41,200人 200人(最小)〜4,000人(最大)/か所当たり収容)が指定されている。連絡網は、防災行政無線固定系設備(同報無線)が全操作を管理する親局を市役所に、遠隔制御設備を消防本部に整備し、屋外子局を市内公共施設に全部で66局(か所)設置されており、市内全域をカバーしている。これらの施設は自然災害向きであって、政治災害である武力攻撃事態等には何の抵抗の術も無い。NBC攻撃のいずれにも無抵抗のため、避難先に集合した場合は却って大量死が想定される。また集中避難は着上陸侵攻で内部侵攻された場合には、防衛側に不利に働く結果になる。肝心要の消防・医療機関は攻撃事態が終了するまでは安易に動けない。 若し私たちの自治体が本格的に武力攻撃事態等に対応する処置をしたいと計画した時、予算措置はどうするのか。事態対処法第十六条等によれば、損失に関する財政上の措置は講じられるようである。丸裸同然の自然災害対応施設をそのまま武力攻撃事態等に当て嵌めては国民の保護にはならない。だからといって、地下50mの深さに地中貫徹型核兵器(核バンカーバスター)にも耐えるような生き残りを賭けた施設、市民全体を収容できるような地下施設を作ることは不可能に近い。結果としては、犠牲者数を数える結果になり、国民の保護になっていない。国民の保護に関する指針は、竹やり式精神的備えに後の祭りの処理を、述べたに過ぎない。いかに詳細な有事法制が整備されようと生命が危険に曝されたのでは意味が無く、むしろ「喪なくしていためば、憂い必ずあたる」ということになる。 基本的人権の尊重が書かれている。不思議なことである。武力攻撃事態等において武力攻撃から国民の生命、身体及び財産を保護することを、国、地方公共団体等の責務であるとしているが、真の責務はこのような政治・政策災害とも謂うべき事態を引き起こさないことである。それが政治の要諦である。 憲法の何処を見たらこのような武力攻撃事態等が想定されるのであろうか。つまり国民の保護といいながら、憲法を逸脱しているのであるから、基本的人権が軽視されるのは明白である。 「武力攻撃災害」つまり、武力攻撃により直接又は間接に生ずる人の死亡又は負傷、火事、爆発、放射性物質の放出その他の人的又は物的災害が発生した時には、既に基本的条件は侵されているのである。例えば、ミサイル攻撃で原子力発電所が究極の破壊を受けた時、想像を絶する被害が待ち受けていることになる。武力攻撃によらずとも、原発事故時の被害のシミュレーション結果がある。浜岡3号炉の(110万kw)あたりは東海大地震の危機が叫ばれており、中央防災会議による想定震源域に位置している。ある設定条件下で3号炉の事故の被害は60数万人が急性障害で死亡、放射線の影響から700万人以上がガンで死亡するとの悲惨なシミュレーションの数字が出ている。最大規模の被害が予想されるのが東京寄りで、水戸市の北東17kmの位置にある東海2号炉である。本州中央部の広範な地域が避難の対象圏内に含まれる。といっても避難することは不可能であり、被害は首都圏に集中する。 地方自治法第一条の二「地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。」としている。住民の福祉を第一義的に考えるなら、政府の武力攻撃事態の想定に対して、自治法第一条二 2項にいう、国際社会における国家としての存立にかかわる事務は国の担当であるからと、住民の避難引率に従事するだけでは事足りない。例えば選択肢として、「無防備地域宣言」を実施し、住民の安全を確保することも必要である。国民の保護をいう政府が国民保護法に基づく措置が唯一の手段であると決め付けることはない。全国の自治体が無防備地域宣言を出せば、戦争の仮定は消える。 中国・ロシア連邦は、ジュネーブ四条約・第一追加議定書・第二追加議定書に批准ないし加入している。北朝鮮は、ジュネーブ四条約・第一追加議定書に加入している(2003年12月末現在)。特に他国からの攻撃を考慮した時、追加議定書の第59条に云う無防備地域であることの宣言を各地方公共団体ができるようにすべきである。ジュネーブ条約追加第一議定書(1977年)第59条は、(無防備地域)「紛争当事国が無防備地域を攻撃することは、手段のいかんを問わず、禁止する。」としている。直接住民の福祉を願う地方自治体として可能ことであり、地方分権下において、普通地方公共団体の自主性及び自立性が要請されるところである。 ただ心配なのは日本と違って第9条の様な制限の無いアメリカが第一追加議定書・第二追加議定書に批准も加入もしていないことである(但し、ジュネーブ四条約は批准している)。日本は米国と共に追加議定書の締約国となっていない。因みに第一追加議定書(国際的武力紛争の犠牲者の保護に関し1949年8月12日のジュネーブ諸条約に追加される議定書)は、1949年のジュネーブ四条約の内容を補い、また武力紛争の影響から戦闘に参加していない一般の人々を保護することを目的としている。第二追加議定書(非国際的武力紛争の犠牲者の保護に関し1949年8月12日のジュネーブ諸条約に追加される議定書)は、1949年のジュネーブ四条約共通第3条の内容を発展させ、かつ補うもので、一国内で行われる武力紛争(内戦)で適用を受ける。2003年12月現在、第1追加議定書に161カ国・第2追加議定書に156カ国が批准または加入している。 一国民として、避難するのか、しないのかの選択の自由は確保しておいて貰いたい。避難先での大量殺戮や強制疎開は基本的人権の尊重にそぐわない。特に放射性物質の放出が想定される場合には、避難移動するよりも自宅に籠もり内部から密閉性を維持するために隙間や継ぎ目を塞いだのが生存の確率は高いこともある。
第2章 武力攻撃事態の想定に関する事項であるが、今我が国の周辺を見渡した場合、国連に非加盟なのは台湾である。台湾は仮想敵国には入っていない。武力攻撃事態等が生じる相手国というと、同じ加盟国同士ということになる。理論的には「どちらが先に手を出したか」の問題になり易い。特にミサイル発射に関しては重大である。攻防が決め兼ねない状況が出来し易いからである。戦争は欺瞞や偽証や偶発をその契機とし勃発し、途轍もない犠牲を払って終了する。張本人よりも無辜の民にその累を及ぼし甚大な被害を与えるのである。国民は自衛の発動がなされたのか、はたまた先制的自衛(将来の武力攻撃に対する自衛権行使はゆるされていない)なのか国民には知りえないのである。国民保護法 第九十八条に発見者の通報義務等がある。その瞬間の現場に遭遇することが無いとは言えきれないが、常人には自衛隊の訓練なのか異国の武力攻撃なのか予測は困難である。何よりも武力攻撃等の定義あっても、その態様が不明のため、「不審者を見かけたら110番」の類と同様である。通報を待つようでは国民の保護など到底覚束無い。日本の周辺国は我々と風貌が酷似しておりその点でも見分けは困難である。この観点から国内で米国と共同行動が執られた場合、特に着上陸侵攻のおいては、米兵により便衣隊と誤認されての国民への誤射攻撃が懸念される。 この狭い国土で、国民に何処に避難しろというのか。わが市でいうならば、車を駆れば東西南北の方角どちらでも、10分程で他市他町に至る。約八万人の市民の生命を守るために、避難させる場所が何処に在るというのか。非戦闘員は無抵抗のまま死に至るだけである。住民の福祉を目的とする地方自治体にとって、その任を負い措置する事は不可能である。国民の保護法制は実に画餅に等しい。 事態対処法 第二条一「武力攻撃 我が国に対する外部からの武力攻撃をいう。」とある。ここで我が国とはどのような意味なのかは政府の恣意的な解釈になるのである。更に謂うと、米国の解釈(指図)によるのである。我が国の外延は米国と共に在るというのが事実である。振り回される自衛、扱き使われる国民、監視される国民、死に追いやられる国民が現実となるだけである。戦端は何時でも何処ででも開かれる準備が整ったのである。我が国の歴史や、直近のイラク戦争から判断し、我が国民は戦争によってまた他国民を殺すということに加担することになる。 さて事態対処法第十八条に、「政府は、国際連合憲章第五十一条及び日米安保条約第五条第二項の規定に従って、武力攻撃の排除に当たって我が国が講じた措置について、直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。」とある。近隣諸国で先に攻撃したと推定される国があったなら、その国も安全保障理事会に報告することになる。互いに自衛権の行使を言い募る。偵察衛星からのデータには期待できない。技術的な信頼性でなく、その秘密性とその得た情報の我田引水の操作に問題があるのである。偵察衛星からの資料を分析する公平な第三者機関の判断が必要とされる。 憲章五十一条でいう自衛権は、「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」であって自衛権の行使を積極的に奨励している訳でない。したがって武力攻撃を回避するために国連による集団的対応が可能でる場合には、自衛権の行使が抑制されるべきと積極的に考えるべきである。自衛権を有することと行使することとは峻別すべきである。 「事前にその活動を予測・察知することが困難で、突発的に被害が生じることを想定」とあるが、奇襲、奇策を用い遊撃するのがゲリラや特殊部隊なのである。ここでも国民の保護の措置は有名無実である。つまり、事の本分を見抜けないのだから特に集団引率的避難行動は無謀なのである。まさか態々命を懸けて他国を攻撃に来る特殊部隊やゲリラがコンビニを狙うとは想定できない。第5章 緊急事態への対処(1)にもある攻撃が同時に行われる可能性もある。本隊に先立つ同時多発の攪乱戦法(BC等を用いての)か、重要拠点狙いか、最悪事態を招来する一発狙いの原発破壊かなど、いずれにしてもゲリラや特殊部隊またはテロによる攻撃から国民が逃れることは困難であり、国民の保護からは程遠い。 大きな自然災害が多発する現今その対応さえ儘ならないのに、「屋上屋を架す」の武力攻撃事態の想定である。弾道ミサイル、其の弾頭は強力な通常爆弾なのか、大量破壊兵器としての生物、化学兵器なのか、核爆弾なのか、定かでない。一か八かの攻撃に他国が通常弾頭のミサイルを日本に打ち込むとは考えにくい。もっともこれもミサイルの数百発を連続して原子力発電所や都市に目掛けて落とせば、日本は終末を迎える。いや東アジア一帯が戻ることない甚大な被害を受ける。別に殊更他国からの脅威に訴えなくても、地震の巣の上にいるので、原発事故からの自滅もある。 来年度の予算では、ミサイル防衛(MD)関連に1,198億円(内訳:海上配備型迎撃ミサイルSM3整備のためのイージス艦改修に
307億円 地対空誘導ミサイルPAC3高射部隊整備に647億円)、政府自ら作り上げた「新たな脅威」に302億円、核・生物・化学兵器による攻撃に対応する新たな偵察車の開発に13億円を計上する。自衛隊イラク派遣の関連経費は146億円である。ミサイル防衛システムには今後どれ程税金を投入するのか。このミサイル防衛システム、米国が開発したもので軍事機密のため当然米国の防衛システムに組み込まれる筈である。万が一にでも他国からミサイル発射の兆候が確認された段階で、「撃ったら迎え撃つぞ」と相手に警告し、その時点で「撃て」の指示はシビリアンコントロールから離れて部隊指揮官に権限委譲してしまう予定である。その後、部隊指揮官は迎撃の指示を、ミサイル発射を監視している北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)から来るのを待つのか。 日米防衛協力のための指針 日本に対する武力攻撃に際しての対処行動等 1、2から日米協力の在り方は、整合のとれた共同作戦の実施なのである。日本は米国防衛システムの最前線で防人を果すのである。日本まで10分程度、米国まで30分程度、この時間差と日米何れの地に撃ち込まれようが、日本のイージス艦からSM3を撃たせる。弾の費用は日本の自己負担(一発約20億円2004年度予算で181億円だから9発購入できる)である。米国を狙ったミサイルでも、日本の弾で撃つ。命中しなかったら、米国行き以外は高射部隊がPAC3(パトリオット)で迎え撃つ。一発約5億円(2004年度予算64億円で12発〜13発)。約マッハ6以上で突っ込んで来るのを狙うのだから外れる可能性が大。数撃つヒマもない。もっとも全部撃っても今は13発である。 私が住む市は先ずMD防衛の傘からは洟も引っかけてもらえないのである。それよりも精度の悪い弾道ミサイルのことだから、流れ弾に中るのが心配である。PAC3も掻い潜ったら、その時初めて、責任者が生きていれば、パソコンゲームで無かったことを理解することになる。多分米国も「2001年9月11日」が米国の主張通りだとしたら、防衛能力はお粗末であるから、同じ目に遭う確率が高いのである。ただ30分程の時間差だが準備に余裕でき、数も多く持っているから、下手なミサイルも数撃てば中る可能性はわが国より大である。 核爆発に屋内への避難でいいのか。屋内の避難というが、具体的にどのような構造の建物を想定しているのか。あの空襲の下、身を潜めて焼夷弾の落ちる音を聞き、死の恐怖に脅え、そして死んだ国民の犠牲を忘れたのか。国民に真実の情報を与えず、批判を許さずただ操る無謀な政治によって死に追いやられた人々の死に思いが至らないのか。迅速且完全なる壊滅あるのみとするとし、原子爆弾投下で市街は壊滅したのを忘れたのか。米国の核抑止力下にある政策を採り、同時に核兵器のない世界を目指すという論理矛盾を引き起こし、包括的核実験禁止条約(CTBT 現在の核兵器所有国に核兵器を撤廃させるものではない)の早期批准の働き掛けや核軍縮、核不拡散の取り組みを推進し、核兵器廃絶に全力で取り組んでいくといっても、虚しい言葉を聞く思いである。 一体何処の国が我が国に武力攻撃をする意思と能力を持つというのか。わざわざ国民の反対するのにも拘わらず、交戦国に憲法を無視し、強弁し、自衛隊を派遣し、新たな脅威を呼び寄せているのは政府なのである。海外に自衛隊を派遣し攻撃を受けたら我が国に対する計画的、組織的な攻撃だというように認定し自衛権を発動するのか。我が国に対する外部からの武力攻撃というが、この国民の保護法制は戦争を意図したものであり、国民の保護の名の下に作られた戦争体制そのものである。つまり、戦争体制を築くために、外部からの武力攻撃の脅威を煽り、利用しているのである。国民の保護にはなっていないのである。国民は、政府が再び戦争への道を歩み始めたことを、危惧するものである。 被爆国としての平和への願いを過去の事として葬り、再び国民を犠牲にしての無茶な野心を懐き始めたのである。そして「股を割きて腹に啖う」の経済界が後を押す。「一鶏鳴けば万鶏歌う」に同調しては滅びに向かうことになる。
政府は「武力攻撃事態における憲法で保障している国民の自由と権利について」で、「憲法第12条その他の規定からも、憲法で保障している基本的人権も、公共の福祉のために必要な場合には、合理的な限度において制約が加えられることがあり得るものと解される。また、その場合における公共の福祉の内容、制約の可能な範囲等については、立法の目的等に応じて具体的に判断すべきものである。したがって、武力攻撃事態への対処のために国民の自由と権利に制限が加えられるとしても、国及び国民の安全を保つという高度の公共の福祉のため、合理的な範囲と判断される限りにおいては、その制限は憲法第13条等に反するものではない。」としている。 そもそも武力攻撃事態等が発生すること自体、公共の福祉の概念に当て嵌まるものではないのである。政府の謂う公共の福祉は、国の政策的、恣意的判断を国民に強いることを意味しているのであって、憲法九条にある、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄するに、真っ向から立ち向かうものである。国民を犠牲にさせずには置かない事態を引き起こすのは政府の行為からである。憲法違反から生じる法制を以って国民の自由と権利に制限を加えるとはどういうことなのか。我が国に対する外部からの武力攻撃は、国民の保護に関する基本指針要旨 第2章 武力攻撃事態の想定に関する事項から判断しても、これは戦争そのものである。国及び国民の安全を保つという高度の公共の福祉のためとは、つまり、政府の行為によって再び起される戦争の惨禍から国及び国民の安全を保つということである。戦争そのものが、国民の福祉に反しているのであるから、そのような公共の福祉は有り得ないのである。戦争という非合理な状態からどのように合理的な範囲が導き出されるというのか。 憲法十三条にある、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利が侵されるとき、むしろ第十二条にいう、「国民の不断の努力」を発揮し、保持しなければならないのである。第十九条の、「思想及び良心の自由」等は、上述の高度の公共の福祉のような場合には、その制約を受けるものでなく、むしろ主権者として外部表現をすることが憲法の趣旨でもある。決して内的に留まることが期待されているものではない。政府見解にいうように、自衛隊法第百三条にその思想、信仰等のために自衛隊に協力しないということが、想定されることではない。「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」のである。
国民の保護に関する基本指針のようなことに、国民や地方自治体等の時間、物、金を費消することは大きな損失であり、国力の消耗である。例えば、「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ平和のうちに生存するための国、地方公共団体並びに指定公共機関及び指定地方公共機関の役割に関する基本指針」なら、国民は明日への希望を持って生きることができ、少子化への歯止めにもなるだろう。経済成長の鈍化、税や社会保障における負担増大、地域活力の低下などの政府の暗い予想の啓発パンフレットで、少子化が止まるとは思えないのである。それと同様に、国民の保護に関する基本指針を読んで、これで安心して子供を生み育てられる環境が揃ったと思う国民がいるだろうか。戦争を常日頃考えながら、いつ何時攻撃されるかも知れないという恐怖に曝されて生きなければならない環境では、人心が不安定になるのは当然のことである。 有事法制が整備されることで、軍事力が直接全面に出ることになり、冒険的小競合いの場を増し、戦争へと突き進むことになる。平和に生きようとする国民の願いは無視され、嘆きへの道を歩むことになる。 一体この先何があるのか、有事法制によって。
【2005年09月27日 愛知県防災局防災課 国民保護グループにメールで送付】
国民の保護に関する基本指針要旨についての意見募集
締切日17.01.21に応募したものである。2005年01月20日夕刻 首相官邸HPにメールで送付。 参考資料等 【154-衆-武力攻撃事態への対処に関する特別委員会
会議録 平成14年05月08日】 【国会会議録検索システム】 【有事法制関連法】 『昭和史』[新版] 遠山茂樹 今井清一 藤原彰 著 岩波新書
昭和46年10月20日 第18刷 『憲法』新版 補訂版 芦部信喜 岩波書店 2002年3月5日第9刷 『国際条約集』2003年版
2003年3月28日発行 『世界事典』2000年版
自由国民社 講演会『差し迫る原発災害の危機!!-今いったい日本の原発はどうなっているのか-』 京都大学 原子炉実験所 小出裕章 2005年1月8日 『完全シミュレーション原発事故の恐怖』瀬尾健著
風媒社 「中日サンデー版」中日新聞社 【中日新聞 記事】 【HP等での疑問解消】
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