一村皆罰・皆殺しの
小生瀬の農民一揆
(その2)
現代に残る殺戮の名残
大虐殺が行われて早400年が過ぎ,現在の小生瀬地域にはリンゴ果樹園と温泉が名物のひなびた風景が広がっています。
しかし,そんな小生瀬には今も農民が逃げ込んで皆殺しにされた「地獄沢」をはじめ,命乞いをした「嘆願沢」,中程の血刀を洗った場所を「刃拭き沢」,斬られたものの耳を埋めた「耳塚」,首を埋めた「首塚」,胴を葬った「胴塚」といった血なまぐさい地名が現に残されています。
さらに江戸時代後期になって,この陰惨な史実を後生に伝えようと文書に残す研究者も現れました。そうした人々が書き記した記録によって,一揆の概要が少しずつ明らかにされようとしているのです。
またこの事件を題材に描かれたのが,数年前出版された「神無き月十番目の夜」( 飯嶋和一 河出書房新社)です。
事件の発端や虐殺へとつながる展開,そして水戸藩の手の者によって,無抵抗のおんな子どもまで残さず片っ端から殺されていく様子が,生々しく描かれています。(ぜひご一読を。)
悲しい歴史の地を訪ねて
小生瀬の農民一揆を初めて知ったのはかれこれ十数年前です。当時大学院生だった私は関係資料を片っ端から集め,地元の歴史研究家や大子町の資料館に数ヶ月通い詰めました。
そして最も悲惨な殺戮が行われたと伝えられる「地獄沢」へ実際に足を踏み入れました。季節は11月。(実際に虐殺が行われたのは一説によれば「神無月」の頃とも言われていますが。)地獄沢に通じる道のかたわらには,犠牲になった村人を慰めるためのぽつんと慰霊碑が建っています。そこから沢沿いになだらかな登り道が続いています。
やがて両面に鬱そうとした林と険しい断崖がせまってきます。あたりは昼間なのに深閑として日の光さえ入ってこないような薄闇の包まれました。あともう間もなく袋小路になっている沢のちょうどその現場にたどり着きそうな時になって,ふいに誰かが私の足を止めました。
「これ以上は進んではいけない。」そう私には聞こえました。背筋に緊張が走ります。正直足がすくみました。その時になって気づいたのです。この現場は興味本位などで足を踏み入れてはならない場所なのだと。冷たい汗が額に浮かびます。もう少しで袋小路までたどりつける所まで進みましたが,そこで足をとめました。そしてその場所で両手で合掌しながら,この地で哀しい最後を迎えた罪なき村人の冥福を祈りました。
茶の間では今も「水戸黄門」は人気番組のひとつです。そんな史実は全く在りもしないことだと分かっていながら,
この長寿番組は続いています。なぜメディアはそこまで黄門様,徳川光圀の名君の虚像を放映するのだろう?そう
感じたことはありませんか?長年この事件にたずさわった者の一人として,水戸黄門を見るたびに,小生瀬で水戸
藩が行った一村皆罰の大虐殺はやはり事実だったと,私はあらためて信じるようになりました。
実は,小生瀬一村皆罰後,各地で頻発していた農民一揆は格段に少なくなったとある歴史学者は述べています。
それはなぜか?小生瀬一揆の始末によって,徳川幕府は刃向かう者に容赦はしない,それを天下に示したからです。
テレビも電話もない時代,必死に水戸藩が箝口令を強いたにもかかわらず,この大虐殺は瞬く間に日本全土に伝わっ
たのでしょう。特に水戸藩の領民はこの前代未聞の処罰に恐れおののきました。現に幕末まで水戸藩,水戸徳川家の
恐ろしさは他藩に比べて群を抜いていました。やがて時は移りましたが,このぬぐいきれない史実を少しでも和ら
げるために特別なフォローが必要でした。それが「水戸黄門」だと思うのは考えすぎでしょうか。
終わりに