一村皆罰・皆殺しの

嘆願沢より地獄沢を望む

小生瀬の農民一揆

(その1)

大子地域はもともと佐竹氏が勢力を誇っていた依上保(よりがみほ)と呼ばれた地方です。豊臣方についた佐竹氏は徳川家康によって秋田へ移封となりますが,佐竹氏を慕う領民の徳川幕府に対する反発は予想以上だったようです。
 そこで水戸徳川家では断固たる態度を農民に示すべく,その機会を伺っていました。そして事件は起こりました。それは慶長7年(1602)とも元和7年(1621)とも言われていますが,定かではありません。これほどの大事件でありながら,なぜひとつも記録が残っていないのでしょう。その理由は簡単です。この事実は水戸藩によって一切表沙汰にされなかっただけでなく,堅く口止めされたからです。文書に残すことはもちろん,口にすることさえ厳しく罰せられました。
 また数百人いたとされる村人ほぼ全員が殺害され,この事実を伝える者はいなかったからです。ただかろうじて虐殺をまぬがれ,隣村の持方集落などへ落ち延びた生き残りの村人が,この悲惨な歴史を口伝えに残しました。
 さて,この大虐殺を指揮したのは水戸家家老芹沢(或いはK家)だと言われています。(名前を伏せたのはその子孫が今も実際に水戸市に在住しているからです。新聞や雑誌が数年ごとに取材を申し込むと,この事件に対しては未だに一切ノーコメントを貫いています。)

「常陸国北郡里程間数之記」みなごろし地獄澤図(国立国会図書館蔵)

事件のあらまし

はじめに

  あまり知られていないことですが茨城県大子町の小生瀬で江戸時
代の初め,一つの農村で500人もの老若男女が,一村皆罰(すなわ
ち皆殺し)の目に遭うといった日本史史上でも稀に見る大虐殺事件が
起こされました。それがこの小生瀬の農民一揆です。