哀れ君御前(舟戸・六軒)

 

将門を攻める秀郷・貞盛 舟戸から平塚,六軒と広がる水田は,もとは満々と水をたたえる飯沼と言う名の広大な沼でした。
 その飯沼がまだ「広河の江(ひろかわのえ)」と呼ばれていた遠い昔のことです。

 承平7年(937),叔父良兼たちのしつような嫌がらせや挑発に耐えかねた将門は,ついに出陣し,いくたびかの戦いに勝利しました。しかし,この時は違っていました。川曲(かわわ,現在の野爪あたり)の戦いをはじめ,それまでは勝利していた将門でしたが,子飼の渡(千代川村鯨付近)で良兼たちの連合軍に彼は手痛い敗北を期しました。加えて突然脚気をわずらい,将門は意識がもうろうとし,歩くことさえままなりません。わずかな家来と家族を引き連れて,将門は船を使って広河の江のほとり,芦津江(あしつえ,現在の芦ケ谷舟戸)まで逃れてきました。「手っぴら谷津」とも呼ばれ,五方向に放射状に入りくんだ入江は,それまでも将門がたびたび身を隠した場所でもありました。また手っぴら谷津のひとつには将門の寵愛する女が住んでおり,そこは「山の神」(奥さんや女房の別称)と呼ばれていました。この女房を頼って将門と正妻「君御前」,そして幼い子どもたちは舟戸まで逃れ,「諏訪神社」のお社に身を隠しました。しかし,せまり来る良兼軍をさけるため,やがて君御前と子どもたちは八艘の船に乗り込み,諏訪神社を離れました。同時に山の神と呼ばれた愛妾も山深く逃れました。そこが今もお白木様の祀られている神山集落です。山の神が逃れた山「神の山」から,そんな地名が残ったのだろうと言われています。
 
さて船に乗り込んだ君御前たちは,敵から遠ざかるため,さらに沼を北上しました。その辺が「陸間」(ろっかん),現在の六軒付近でした。幾日かがそうして過ぎました。常に愛しい妻子を遠からず見守っていた将門でしたが,芦の茂みにうっかり妻子の姿を見失ってしまいました。そして,あれほど岸に近寄ってはならないと言い含めていたのにも関わらず,君御前たちは岸辺に船を寄せてしまったのです。それを良兼の軍勢が見逃すはずがありません。
 すぐに君御前と子どもたちは船から引きずり出されました。そして執拗に将門の居場所を問いつめられましたが,君御前は頑としてこれを受け入れません。かたわらでは幼い子どもたちが恐怖におびえて泣き叫んでいました。ついに将門の居場所を白状させることをあきらめた兵士たちは,君御前と子どもたちを処刑することにしました。
 切り殺される直前,君御前は幼い我が子をかき抱き,恩名の君御前祠そっと手をあわせて祈りました。
 「将門様,短い月日でしたが私は幸せでした。菊姫たちとともにあの世に旅立ちます。」
 こうして無惨にも君御前と子どもたちは,叔父良兼の兵士によって惨殺されました。急を聞いて将門が駆けつけたのはそれからしばらく経ってのことでした。冷たいむくろと化した妻子を腕に抱き,彼は狂ったように泣き叫び,まるで気がふれてしまったようでした。

 その後君御前と娘,菊姫の死を哀れんだ村人は,この場所に塚を作りました。それが昔,三和町恩名の飯沼べりにあった「君御前塚」です。そして悲惨な最期をとげた君御前を哀れんで,村人はここを「女」と名付けました。しかし,後にこれは現在も使われている「恩名」に書き換えられました。そうしたのは,悲しいことに逆賊として征伐された将門の巻き添えを避けるためでした。

 いずれにしても,君御前と菊姫たちはここに葬られましたが,昭和40年代,土地改良事業のため塚は切り崩されてしまいました。当時この場所を管轄した業者によれば,掘り起こした塚の中には大小さまざまな刀や副葬品が埋葬されていたと言うことです。そして塚のいただきに祀られていた「君御前」の小さな祠も,同じ恩名地区の別の観音堂に移されました。観音堂の片隅にある古ぼけた灰色の祠には今でも「君御前」と朱墨で書かれた古ぼけたお札が奉ってあります。