栗山観音の梵鐘(栗山)

栗山観音の大手門 栗山観音・佛性寺のある場所には,遠い昔将門の家来であった別当・多治経明(たじ)つねあきが治めていた栗栖院常羽御厩(くるすいんいくはのみまや)がありました。ここは将門の力の源であった軍馬の飼育をしていました。
 承平七年(937)8月6日,都から帰郷して謹慎していた将門を伯父の良兼・良正の大軍が襲いかかりました。旅の疲れと突然脚気をわずらった将門はことごとく戦に負け,妻子とともに芦津江(今の芦ケ谷舟戸)へと逃れたのです。芦津江の諏訪神社に身を隠した将門一行は栗栖院の方角を見つめました。夜目にもはっきりと空が赤黒く燃えています。残忍な良兼の軍勢は民家を焼き払い,人々を殺戮しました。挙げ句の果てには観音堂にも火をかけたのです。幸い本尊の観音菩薩は家来の横島という者が岩井の長谷に移しましたが,寺はことごとく焼き払われました。そして強欲な軍勢は観音堂の梵鐘に目をつけました。彼らは鐘を船に積んで持ち帰ろうとしたのです。
 さて栗栖院は飯沼の谷津に面しており,船の往来が自由に行き来できました。やがて鐘を積み込んだ船が鎌田谷津と呼ばれる沼の最も深いあたりにさしかかった時,ふいに梵鐘が「ぐおーん」と音をあげました。乗り合わせた兵士たちは突然の鐘音に顔を見合わせました。「へんな音を出すのは誰だ」と一同いぶかりましたが,誰も心当たりはありません。それどころか梵鐘はいよいよ激しい大音声をあげます。それは耳をつんざくばかりのすさまじい音でした。兵士たちは「助けてくれー」と口々に叫びましたが,深い谷津の真ん中では飛び込もうにも飛び込めません。やがて梵鐘は雷鳴のような音を上げ,それと同時に船はどーんという響きを上げて,鎌田谷津の中ほどで転覆してしまいました。「ぎゃー」という叫び声だけが空しく水面に消えました。

 それから何百年もの年月が過ぎました。いくたびもの兵火をくぐりぬけ,菩薩像はつつがなく護られました。永禄9年(1566)多賀谷政経の長男重経は,この不思議な霊験に感服して観音堂を再建しました。奇怪な事件が起こり始めたのはその頃のことです。
 梵鐘が沈んだ鎌田谷津から毎晩のように火の玉が浮かび出て,栗山観音の境内に入り込むとふっと消えていきました。多くの村人もこの鬼火を目撃し,不吉なできごとに皆おびえました。そして沼に沈んだ梵鐘の怨念であろうとそのたたりを怖れたのです。
 そこで栗山観音の住職は観音菩薩に祈りを捧げ,梵鐘の供養のため大法要をとりおこないました。その甲斐あってそれからは鬼火も現れなくなったと言うことです。
 
城山に近い鎌田谷津は今では広々とした美田に変わっています。しかし,今もその広い水田のどこかに栗栖院の梵鐘は埋まっているのかも知れません。

                                 栗山観音の観音堂

現在の栗山観音