大家の川又です。以下はMくんの書いたHP用の原稿です。MくんのHPが出来るまで、ちょっとここで公開してみます。それにしても、この作品、グルマンな彼ならではの力作です。この原稿を、マニラでボロボロになりながら働いている元同僚に送ったところ、「わたしがこんなに苦労してる時に、あんたら一体なにやってんの?!」と激励のEメールがすぐに帰ってきました(いつもは返事をくれない人なのに)。でも、これだけの力作なら当然ですよね。

 ちなみにこの原稿、最初に読んだ時は「おふざけ」かと思ったのですが、Mくんどうも本気で書いてるみたい。あらら、、


連載:西洋料理店の楽しみ

第1回 料理の注文

 日本でいま西洋料理といえば、フランス料理とイタリア料理が第一に想起されるであろう。スペイン料理やポーランド料理は、東京のような大都会ならばいざ知らず、地方の小都市では食することが難しい。プロバンス料理あれどもフランス料理は存在せず、マルセイユ料理あれどもプロバンス料理は存在せず、というのも事実であり、同じ論理はイタリア料理にも当てはまることである。しかし、この連載では、余り堅苦しく考えず、欧州系の料理全般を料理店で味わうときにどんなことを考えれば楽しく食事ができるかを皆さんと一緒に見ていきたい。そういう願いを込めて、連載のタイトルは「西洋料理店の楽しみ」とした。

 さて初回は、料理店に入ってからまず最初の関門、料理の注文から入ることにしよう。読者の皆さんの中には、西洋料理は好きなのだけれどメニューを読むのが億劫だとか、注文取りの給仕に後ろに立たれるだけで緊張してしまうとか、とかく料理の注文が気の重い作業であると思いこんでいる方が少なくないであろう。もちろん、フランス語やイタリア語で書かれている品書きを読みこなすのには予備知識が必要である。しかし、料理店に入っている間の時間は全て、人間の楽しみのための時間であるべきであり、料理を注文する過程自体を楽しまないという法はない。さらには、何をどのように料理を注文するかで、その食事全体の楽しみが相当程度決まってしまうことも事実である。料理は何でもいいから早く決めてしまおう、とか、隣の人と同じものをとればいいなどと、料理の注文を蔑ろにするのはよいことではない。

 さて、品書きであるが、これはフランス語で「カルト」、イタリア語で「カルタ」という。そう、正月の遊びを思い浮かべるまでもなく、料理の一覧の記された厚紙のことである。品書きのことをメニューと呼び習わす向きもあるが、フランス語で「メニュー」とは、おきまりの定食のことである。であるから、メニューをください、というと、品書きではなくて、定食をくれ、の意になってしまうから注意したい。

 さて、料理店の流儀によって、食事をする座席に座ってから品書きを見せる店もあれば、すぐに客をダイニングルームに通さず、控えの間で品書きを見せて注文を決めさせ、その後で食堂に案内する店もある。圧倒的に前者が多いが、英国の田舎の旅籠であるとか、フランスの高級料亭では、後者の方法、すなわち二段構えをとるところがある。なぜ面倒な二段階の構えをとるのかと不思議に思われるかもしれないが、これは、料理の注文を楽しくくつろいだひとときにするための店側の心遣いである。

 英国の場合、まず、たいていはダイニングルームに隣接したバーに通される。座り心地の良さそうな背もたれの高いソファーが並び、暗めの照明が壁のエッチングやら鹿の首を照らす、そして冬ならば部屋の隅の暖炉で薪がパチパチと音を立てる、そんな空間である。すでに先客の二人連れが品書きをのぞき込んでなにやら言葉を交わしているであろう。そんな先客と軽く挨拶をしませたら、とりあえず、エイル、すなわち、英国独特の二次発酵ビールを注文しよう。たいていは何種類もおいているので、好みの銘柄を注文するもよし、苦めの黒を半パイント、などといっても良い。そのエイルをちびちびとやりながら、その日の食事を何にするか、ああでもない、こうでもないと作戦を巡らすのが、特に英国の場合、食事のハイライトであるといっても過言ではない。フランスではエイルを注文するわけにはいかないから、キールやシェリーなどの食前酒をなめながら、その日の自分の献立を組み上げるわけである。店によってはこの段階で30分ほどの時間をとる場合があるが、待たされた、と腹を立てるには及ばない。店としては、この楽しいひとときをより長く客に味わってもらおうという配慮である。もちろん、アルコールの総量に限界のある向きは、食前酒の代わりに果汁を注文しても良い。

 さて、いよいよ料理選びである。時と場所、連れ合い、食事の目的などによって、どういう食事をしたいかは自ずと違う。はじめての店を独りでぶらっと訪れたというような場合であれば、さしあたり二つの楽しみを充足させたいものである。一つ目は、そのときその瞬間の自分の舌を楽しませること、二つ目は、その店がどの程度の実力を持つ店であるか探ってみようという楽しみである。この二つは、背反的であることもある。例えば、店の看板料理が鴨料理であるのに、自分は前日に別の場所で鴨を食べたばかりである、などという場合である。いずれにせよ、こういったことに折り合いを付けながら、料理を選んでいき、客たる我の最大幸福を目指すわけである。

 実例によって示そう。雲の低くたれ込めた京都の12月の寒いある日、B店の昼の定食が以下のようであったと思ってほしい。


前菜:次のうちから一品を選択
主菜:次のうちから一品を選択
チーズまたは菓子
 
コーヒーまたは紅茶またはチザーヌ
 
白葡萄酒または赤葡萄酒250cc

 定食を選ぶ場合でも一品料理を組み合わせる場合でも、まず、一番食べたいものを選び、それにあわせるように他のものを選んでいくのがよい方法である。私の場合、一番食べたいもの、とは、主菜であることもあれば、前菜であることもある。はてまた、菓子(フランス語でデッセール、イタリア語の複数形でドルチ、デザートとは英語であるがアクセントを後ろに置かないと砂漠の意になるので注意。また、イベリア半島を別にすれば、国外の料理店で米かパンかの選択を迫られることはまずないが、舌先を上の歯の裏につけてライスと発音すると虱の意になるので、これも注意)であることもある。また、珍しい葡萄酒を飲みたいという場合、それに料理を合わせることもないわけでない。

 私は前菜の選択肢に目を走らせたが、どれもなかなかに興味を引くものであった。そこで、主菜に目を移した。この日は冬のはじめの寒い日であったことと、前日の昼食に美味しい魚を味わったあとだったので、主菜の魚は選択する気は起きなかった。それだけではない。日本のフランス料理店で魚を手頃な値段で昼食に出すときには、切り身をフライパンでバター焼きにして出すことが多い。とすれば、その一品の要所は、ともすれば、こんがりと焦げ目のついた魚の皮の風味如何に尽きてしまう観があり、その匂いを鼻腔に吸い込んだ瞬間に、その主菜を味わうという行為の大部分が終了してしまう。それでは、この寒い冬空の下、しみじみと暖をとるという昼食の目的が達せられない危険がある。

 牛の薄切りについては、やはり、寒い日に寒々と皿の上に登場した日には牛肉の醍醐味も半減する。実際には別の格好で出てくるかもしれない、いやそうに違いないが、それでも最初のイメージは拭えない。それよりも、カスレはカロリー豊富で寒い日には食卓の上に光をともしてくれるはずである。それに、余り日頃日本ではお目にかからないこのフランス南西部の地方料理をどのように出してくるのか、それで店の実力の一端が知れようというものである。

 こうして主菜が決定すれば、次は前菜選びである。主菜に選んだカスレは、カロリーは豊富であるが、こってりとして、繊維質に欠ける食品である。とすれば、前菜は野菜をさっぱりと豊富に摂りたいものである。こうして、リヨン風サラダが候補に上った。サラダといって馬鹿にしてはいけない。リヨン風サラダであれば、ソースのあわせ方(フランス語では、サラダのドレッシングも、温かい料理のソースも、ともにソースと呼ぶ)、アンチョビやオリーブなど、具の取り合わせによって、上品にも下品にもなる。また、ふと、店の名前がリヨン市内の広場にちなんだものであることに気がついた。あるいは、この店は、リヨン料理が得意なのかも知れない。しかし、である。

 この定食には、葡萄酒が含まれている。寒い日であるし、主菜が鴨であるから、当然、赤葡萄酒を頼むことになる。店の善し悪しは、その店がグラスワインにどの程度の質のワインを供するかでわかるというのが私の持論である。とすれば、良くても、ブルゴーニュかロワールのありふれた酒か、悪ければオーストラリアの粗悪なシャルドネ種から作った酒しか期待できない白よりも、良し悪しに極端な差がつき得る赤を頼むほうが、試験をする対象が増えて断然楽しいではないか。さて、葡萄酒が赤に決まると、前菜にサラダを選ぶのが躊躇され始めた。なぜなら、酸味の効いたサラダのソースは赤葡萄酒と合わないわけではないが、サラダ(フランス語でいうサラダには、レタスの葉っぱという意味もある)のパサパサした食感を味わった後で、いきなりカスレの密度のある料理に飛ぶのは、飛躍がありすぎる。歯も舌も目も胃も、ついていけない危険がある。

 かといって、前菜を鴨のテリーヌにするのでは、なるほど、赤ワインにはよく合うが、前菜と主菜とで鴨が続いてしまう。おまけに、ねっとりした重い食感まで同じである。これでは変化がなさ過ぎてつまらない。消去法で残ったのが鯖とジャガイモのテリーヌである。寒い日である。本当なら、ポワロ葱とジャガイモのスープで食事を始めたいくらいである。豆のスープでも良い、町から消えてしまった新鮮な緑を食卓の上に見たい。そんな日に、皿の上に、凍えたゼラチンを見るのは何とも寒々しいではないか。しかし、である。鯖といえば臭いのある魚、これを白葡萄酒で食べた日には、その臭みが突出してしまう。生牡蠣が葡萄酒を選ぶのと同じ理屈である。その鯖を赤葡萄酒で食べれば、ひょっとして、魚の身の中のかすかな酸味と油が葡萄酒によく調和するのではないか。小骨が口蓋にかすかに当たる感じを味わうのも悪くない。また、魚とゼラチンとワインの間を取り持つジャガイモがある。これらの食感は、次にくる、こってりしたカスレへの導入あるいは前触れとして、決して悪くない選択である。と、こうして、前菜と主菜が決定する。

 前菜と主菜を選んでしまえば、その後のことは後で決めればよい。店によって、どの菓子を食べるか、はてまた食後にコーヒーを飲むか茶を飲むかまで最初から客に決断を迫る店があるが、これは感心しない。もちろん、品書きをみた段階で、どうしても食べたい菓子が目に飛び込む場合もある。しかし、前菜主菜と食べ進むうちに、気が変わることもあるだろう。主菜を食べ終わった段階でその後のことを相談しましょうというのが親切な態度である。菓子には菓子専用の品書きを用意している店も多い。そのなかから、好みのものを選べばよい。ただし、熱い菓子、例えばスフレのように用意に時間がかかるものは、最初の料理選びの時に選ばなければ、主菜の後で不用意な待ち時間ができてしまい、同伴者を待たせる結果にもなるので、そういうものは例外的に、最初に選ばなければならない。こういうときには、主菜を食べ終えたであろう時点での自分の満足感を想像して、注意深く菓子を選択したいものである。

 以上が料理選びの一例である。人により、判断の基準は様々であるから、要は料理選びを楽しいひとときにできさえすれば、それでよいのである。もっとも、二人以上で連れだって料理店の客となった場合には、他にも若干留意すべきことがある。

 まず、料理の注文はテーブル単位で数をまとめて給仕に告げるより、個人ごとに、誰の前菜は何、主菜は何、自分の前菜は何で主菜は何、と告げるのがよい。給仕は後で食器や皿を運ぶ都合があるので、誰が何を注文したか知っておく必要がある。勿論、女性の同伴者が既に注文の品を決めているのに、男性の客が自分の注文から先に給仕に告げるべきではない。女性と年長者が優先である。

 次に、料理店が特殊な料理を組み入れた定食を用意している場合、往々にして、その定食はあるテーブルの全員に供するか、あるいは全く供しないか、どちらかに決まっていることがある。自分がどうしてもその定食を試したい場合でも、同伴者もそうであるとは限らない。同伴者に選択を強制することにならぬような心配りが必要である。葡萄酒の選択については、連載の別の回に譲るが、同様に同伴者への配慮が必要である。特に、テーブル全体で葡萄酒一本程度の酒量が適当であるような場合、自分が主菜に肉を注文したからといって、同伴者の主菜が魚であることを無視して赤葡萄酒の一瓶を選択してはならない。もちろん、鯛の赤葡萄酒ソースのように魚料理にも赤葡萄酒が合わない場合がないではないが、主菜が魚と肉に分かれたら、各々グラスまたはカラフ単位で赤白両方の酒を注文するか、あるいは、自分の主菜を肉から魚に変更する、ということも考慮すべきである。もちろん、自分が魚の前菜に肉の主菜、同伴者が肉の前菜に魚の主菜を注文し、葡萄酒を赤白一瓶ずつ注文してちょうどうまく収まる、ということもないわけではないが。また、赤葡萄酒は主菜を終える時点で飲み切らなくてもなくても、チーズや、あるいは菓子を食すときまで傍らに残しておける。

 さらに、テーブルを囲む全員が同程度の量を食べるとは限らない。定食を注文するにしろ、一品料理から注文するにしろ、各々の選んだ皿数が一致しないことがある。無論、同伴者の前に料理が出ていないのに自分だけ食べているというのは気まずいものである。しかし、各人の食欲は自ずと違うものであるし、それはそれで仕方がない。気の利いた店ならば、注文が一品少ない客の前に化粧皿をおいて、空間の白い隙間を埋める配慮をするであろう。あるいは、小皿の上に、少量の料理を出して、待ち人の好奇心を満たす嬉しい心遣いを見せる店もある。しかし、それが無かったからといって、料理店を非難するのは見当違いというものである。極めて珍しいことであるが、各々が選択した料理の皿数が違うといって客を咎める料理店があるが、そのような店には二度と行かなくてよろしい。

 品書きの存在しない店についても、触れておきたい。品書きがないといっても、実際には品書きがあるのだが、それをいちいち紙に書かないという店、こういう店は決して少なくない。注文取りの給仕がやってきて、前菜はかくかく、主菜はしかじかと、一気呵成に唱えていく。もちろん、全部が聞き取れなかったら、聞き取れた料理のうちから注文してしまうのではなく、何回でも給仕に確認するのがよい。そういうことに、給仕も慣れている。もし、給仕が質問されて気分を害するようなことがあれば、そんな店にはこれまた二度と行かなくてよろしい。品書きが存在しないということは、家庭的な店であることが多いし、その日の仕入れによって、また客の入りによって、料理が頻繁に変動するということでもある。こういう店では、客に出す料理またはその変形を賄いで従業員が食べていることが少なくないので、これこれの料理は美味しいか、どんな感じか、量は多すぎないか、どんな酒があうかなど、給仕に確認しながら注文を決めるのも楽しい。

 あるいは、常に一種類の定食しか供さないので、そもそも品書きを作ることを一切しない店がある。ジュネーヴ(スイス)のC店は特製バター・マスタード・ソースに浮かぶ牛肉を客がめいめいのコンロの上で焼きながら食べさせるのが売り物の店であるが、この店の料理はたったこれだけである。他にはない。だから、品書きがない。どの客も店の門を入ったときからこの料理を食べるつもりである。そこで席に着くなり、肉を大盛りにするかどうかと、厨房で肉を下焼きするときの焼き加減だけを口頭で給仕に伝えるだけで済んでしまう。また、ローマのX店は日替わり定食屋であるが、定食は一つだけ、選択の余地が全くない。注文を決めるために頭を悩ます楽しみもないが、何も考えたくない、ただ食事だけしたいというときには悪くない。

 極めて稀であるが、料理を選ぶ余地があるのに、品書きが本当に存在しない店もある。例えば、ロル(スイス)のA店はそんな店の一つである。なるほど、席に着いたときから食卓の中央には小さな紙片がおかれているが、それは品書きではない。そこには次の文句が記されているのみである。


当店で普通にお食事を召し上がる場合、
最終的な御会計はお一人様あたり
およそ90フランから120フラン程度になろうかと存じます。

 もちろん、品書きがないからといって、注文するものは何でも作ってくれるというはずがない。それは不可能というものである。もちろん、仕入れによって、その日、是非客に供したいと思っている食材はあるには違いないのだが、それを最初から客に押しつけることなく、給仕長は客のその日の気分を聞き出しながら会話の中で料理のコンセプトを提案していく。まさに、店側と客側の共同作業の中で料理が決まっていく、そういう店である。これが料理の選び方の究極の形であろう。

 最後に、品書きに無い料理の注文についてであるが、これは店側と客側の信頼と日頃の付き合いの上に成り立つことがらである。品書きにない料理を出すためには、余計な手間暇が掛かるわけであるから、店側が進んで提供してくれる場合には勿論それを受けて良いが、客側から無理な注文を出すべきではないだろう。ただし、客側に苦手な食材、アレルギーの問題があって食べられない食材があるのなら、それは最初に素直に申し出て、注文取りの給仕の助言に従うのがよい。多くの場合、特定の食材の交換や除去に応じてくれるはずである。また、イタリア料理店で、ソースと具はそのままでパスタの種類の交換だけを求めるのは、一般的に行われる。但し高級店では、あるソースに最適のパスタを組み合わせて品書きに載せているという自負があるので、なぜ別のパスタを指定するのか、給仕に理由を説明した方が了解を得やすい場合もある。

 店は様々、だが、品書きの構成には必ず店の方針や姿勢が表現されている。品書きはその日の仕入れと準備次第で毎日書きなおすのが基本であるが、定型の品書きを常用している店もある。そんなとき、たまたまその日に品切れの料理があれば、品書きを客に渡す段階で給仕は客にそれを説明するのがルールである。もし、意中の料理が品切れであれば、「ではまた今度」と言って席を立って店を後にすることは、何らマナーに反さない。最も悪質なのは、ある料理を注文すると、それは品切れです、別の料理を注文するとそれも生憎品切れですと言う、そういう店である。従業員の教育ができていないというよりも、客をもてなそうという気がはじめからない店である。今回触れたように、ある料理が品切れと知れれば、その段階で、料理選びのための思考をはじめからやり直さないといけない。大変な手間であるし、楽しみであるべきものが楽しみでなくなってしまう。こういう店で食事をすれば不愉快になること時間の問題であるから、やはりすんなりと席を立った方が良いであろう。これとは逆に、料理の注文の時から楽しいやりとりが給仕との間に成立したならば、その日の楽しい食事はおおかた約束されたようなものである。

(1998年12月8日)

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