人間はお湯だ!

我々の身体の主成分は水である。人間は生きた水の塊だから、水を取り入れ水を吐き出す。我々の食べ物もウンコも、固形であっても主成分は水である。赤ん坊の世話をするとそれが良く分かる。赤ん坊の世話というのは、おっぱいやミルクを与えてシッコやゆるいウンチを処理することであり、お風呂に入れて汗や涙や鼻水を洗い流すことである。赤ん坊が成長したものであるところの現在の我々にしても基本は同じことであって、家事の中心は炊事洗濯お風呂という水仕事である。

水仕事をしていると季節を感じる。夏は水に触れるのが気持いいけれど、寒くなるとつらい。さて、何で水の温度によって気持ち良かったりつらかったりするのだろうか。普通、人間の体温は気温より高い。人間はお湯である。それは、身体の中の化学的活動によって生じる熱を外部に逃がすためである。だから、ちょっと冷えるのは快適で気持ちがいいのだが、冷えすぎると今度は体温を一定に保つのが難しくなるのでつらく感じるわけである。

では、風呂はどうなのか。風呂は体温と同じかちょっと熱いくらいが気持ちいいではないか。それは、多分こういうことだと思う。風呂に浸かっている人間の主成分はお湯であり、まわりもお湯なので、要するに自他の境界がぼやけることになる。それが気持ちいいのだ。「裸の付き合い」などという言葉もあるが、それもつまりお風呂で自他の境界を曖昧にするという意味なのだろう。

風呂に入らなくても、握手したりハグ(hug)したりすれば、お互いに「お湯の詰まった革袋」であることは何となく判る。自分や他人というもののイメージが「37℃のお湯」から掛け離れていたら、主成分を抜きにしてものを考えているわけで、ちょっと考えを修正する必要があるだろう。そして、お湯の塊としての自分の重心はお腹のあたりにある。それを意識していないと、頭が先行して身体が置き去りになるからとても疲れるのである。