主観的な時間軸が必要だ

時々、今が21世紀であることを思い出して、なるほどなあと思う。何がナルホドかというと、客観的な時間軸というのがホントにいいかげんなものだということである。20世紀の間、「21世紀」というのはずっと未来だったので、「21世紀は未来である」ということに慣れてしまっていた。「21世紀=未来」なのだから、21世紀になれば我々は「未来の世界」に生きているはずだった。ところが、こうして現実に21世紀になってみると、21世紀は未来じゃなくて現在である。客観的な時間軸で今とか未来を考えようとするとそういうおかしなことになりがちである。主観的にはいつだって「今」なのだ。

20世紀の我々にとっての「未来」はSF的なイメ−ジであった。漫画や映画に出てくる未来の世界では、宙に浮かぶ乗り物が高層ビルの間を縫って走っていたりする。つまり、20世紀から見た未来というのは、科学技術の発達によって実現する「今とは違う世界」のことだったのだ。スモッグや廃棄物で環境が悪化した大都市でロボットが人間の手に負えなくなるというような悲観的なパタ−ンもあるが、それも同じことである。どちらにしても、20世紀に考えられた未来には生活感が無かった。

生活というものは過去も未来も地続きである。生活の基本は「飲み食いして、出るものを出して、寝る」ということで、いつの時代にも変わらない。要するに、身体を維持するのが生活で、我々の身体の仕組みは何十万年も変わらないのだから、生活の基本も変わらないのだ。ところが、頭で考えた未来のイメ−ジには生活感が無い。頭で考えると自分の身体のことを忘れてしまいがちである。実際の21世紀になってみると、そこには相変わらず生活というものがあり、生活感の無い未来のイメ−ジは古臭くなって20世紀の遺物になってしまった。

20世紀とか21世紀という言い方は客観的な時間軸に基づいた時間の表し方である。全世界的に見れば「西暦はキリスト教徒の主観が広まっただけ」ともいえるが、全世界的に広まったものは客観的だということになってしまう。いわゆるデファクト・スタンダ−ドである。客観というのは「目に見える形で表現できる」ということで、目に見えるからみんなで共有できる。そこまではいいのだが、「みんなで共有できる客観的なものだけが正しい」と考えてしまうと行き過ぎである。それはそう考える人の主観なのである。そういう主観が広まったのが20世紀だ。

客観的時間軸の背後には近代科学という思想があるが、近代科学がどんなに頑張っても「」を定義することはできない。「今はA年B月C日D時E分F秒だ」と言っても、次の瞬間にはそうではなくなってしまう。それが正しいのはA年B月C日D時E分F秒においてだけだ。だから、正確に言おうとすると「A年B月C日D時E分F秒において、今はA年B月C日D時E分F秒だ」ということになる。近代科学は「今」というものについてそういうアホらしいことしか言えないのである。でも正しいことは正しいので、否定することはできない。

客観的な時間軸は正しいことは正しいのだが、正しいだけでは生活は面白くない。生活を面白くするためには、主観的な時間軸を持つことだ大切なのだ。客観的な時間を示すのが時計だとすると、主観的な時間は自分の身体によって表現される。自分の身体は自分の生活のリズムによって時を刻む。主観的な時の流れは美しさや面白さに関係している。

主観的な時間軸において「今」はいつでも「今」である。ではいったい、未来や過去というのはどこにあるのだろうか?未来や過去は遠く離れた時間である。自分にとって時間というのは今しかない。だから、過去や未来に到達するには「今」の範囲をどんどん広げていくしかない。今の範囲を広げると過去や未来も今の一部になる。「今でありながら遠く離れた時間」が過去や未来である。それは地理的に遠い場所や心理的に遠い他人のことである。つまり、主観的な時間軸における未来や過去は「自分の知らないことや自分とは違う価値観」の中にあるのだ。主観的な時間軸の方向は自分の可能性を開拓していく方向であり、その方向に進むのにはそれなりの努力が必要である。