ゆっくりやると速くなる

最近、ファストフードに対する「スローフード」(要するに、ちゃんとした食事のことだ)とか、そこから話を生活全体に広げた「スローライフ」という概念が広まりつつあるようだ。スローライフは「(食事を中心とする)生活全般に時間をかけよう、それが豊かさというものだ」という考え方ではないかと思う。そうだとしたら僕も賛成だ。

スローライフという新しい概念が生まれるのは、今のところ我々の生活はファストライフだからである。とにかく忙しいので生活なんかに時間をかけらていられないのだ。では生活以外の何に時間をかけているのかというと、経済活動である。経済活動というのは「お金と交換で、他人に何かをしてあげたり他人に何かをしてもらったりすること」である。我々はお金を稼いだり使ったりするのに忙しいのだ。

生活とは「自分の身体の世話」である。「自分のことは自分でやる」というのが生活の基本で、自分のことを自分でやったらお金を稼ぐことはできないが払う必要もない。生活というのは本来、経済活動の外側にあるものなのだ。生活にお金をかけるほど生活感や生活臭がなくなるのは、経済活動によって生活そのものが消えていくからだ。逆に、お金をかけずに「自分のやりたいことを自分でやる」のは、生活に時間をかけることになるからスローライフである。

20世紀にはスローというと何か鈍くさい感じがしたが、それは20世紀が「時は金なり」の時代だったからだろう。「時は金なり=何ごとも速くやるほど儲かる」という考え方のもとでは「スロー」は否定される。スローというのは「生産性が低い」ということだからである。しかし、スローを否定して生産性を上げていった結果、今では生産力が過剰になってデフレに陥っている。生産過剰でデフレになった世界では「速くやるほど儲かる」という考え方は必ずしも成り立たない。したがってスローを否定する根拠はもうない。

時間をかけてゆっくりやるのは「丁寧に」やることでもある。速くやれば、雑になる。「速く丁寧に」できれば一番いいのだが、いきなりは無理なので最初は「ゆっくり丁寧に」か「速く雑に」のどちらかになる。スローを否定する20世紀的価値観で生きてきた人間は、何でもとりあえず「雑にでもいいから速く」やろうとしがちである。でもそうすると雑なやり方が身に付いて後で困ることになる。

「雑に速く」を繰り返していても自然に「丁寧に速く」できるようにはならない。「雑に速く」から「丁寧に速く」に移行するには、「雑なやり方」をやめて「丁寧なやり方」を身に付け直す必要がある。一度身に付いたやり方を変えるのは心理的抵抗もあって大変である。一方「ゆっくり丁寧に」を繰り返していると、いつの間にか「速く丁寧に」できるようになる。「ゆっくり丁寧」から「速く丁寧」に変化するのは「同じ作業のスピードを上げるだけ」だからやり方を変える必要がない。しかも、同じことを繰り返していればスピードは勝手に上がるものだ。

スローライフとはゆっくり丁寧に生活することである。忙しくても「ゆっくり丁寧」を心がけて暮らしていると、知らないうちにいろんなことがだんだん速く丁寧にできるようになり、時間のゆとりが生まれるはずである。その時間はぼおっとするなり何なり自由に使える。それが生活が豊かになるということなのだ。