ユーモアと笑い

ユーモアに対する反応は笑いだ。では、我々は何を笑うのかというと、失敗とか間違いを笑う。偉そうなオッサンがバナナの皮を踏んでコケたら笑える。ただ、オッサンが尻をさすって周りを見回しながら立ち上がったら笑えるが、オッサンが倒れたままで動かなかったら笑えない。我々は自分や他人が失敗したときに笑うが、致命的な失敗は笑えないのである。失敗したけど別に問題はなかったという場合に、我々は笑うのだ。

我々が笑われるのは何か失敗をしたときだが、笑われるということは、その失敗は致命的なものではなかったのである。また、受け入れられないものは笑えないから、笑われるというのは受け入れられているということでもある。つまり、笑われるのは「失敗したのに受け入れられている」ということである。それは、言い換えると「される」ということである。だから、笑われても気にしないでいいのだ。

フィクションの世界の悪者は他人の致命的な失敗を笑う。正義のヒーローを倒してやったぞ、わーっはっはっは。悪者が勝つのは正義のヒーローにとって致命的な失敗である。しかし、問題はその後だ。ヒーローを倒し世界を征服してみても、悪者が自分の能力をフルに発揮してヒーローを倒そうとしていた頃の充実した感じは二度と味わえない。悪者は世界征服を企んでいるかのように見せかけて、実はヒーローと戦うこと自体を目的としていたのであった。何かに反発すると手軽に充実感を味わえるが、それは相手に頼った充実感なので、相手がいなくなると虚しい。

悪者は自分のやりたいことが分からないから、ヒーローを倒すことに必死になっていたのである。悪者はヒーローに復活してもらわないと困る。だから、ヒーローは復活するのだ。つまり、悪者が正義のヒーローを倒したとき、ヒーローの失敗は致命的なものではなかったことになる。悪者もそのことに気付いていたから笑ったのに違いない。

ところで、ユーモアは笑いを生むが、笑うのはユーモアに対する反応とは限らない。悪者が笑うのは、正義のヒーローが面白いことをしたからではない。他人の失敗を笑うのは優越感の表明である。優越感とか劣等感というのは「自分のことがよく分からないから、他人と比べたい」という気持の現れだ。他人の失敗を笑うのは、自分のことがよく分からなくて他人を必要としている証拠である。したがって、他人の致命的な失敗を笑う悪者は、自分のことが全然分からなくて、強烈に他人を必要としているのである。

ユーモアとはわざと失敗して見せることである。でも、失敗して落ち込んでいたのでは他人は笑えない。失敗しても大丈夫であることを表現するのがユーモアだ。失敗した「けど」ダイジョウブだったということは、その失敗は失敗ではなかったということになる。失敗が失敗ではなくなるのは、新しい価値観を発見した時である。ユーモアとは、ある価値観から見れば間違いや無意味であるような行動をあえてしてみせることによって、別の価値観を表現しようとする高度なワザなのだ。つまり、ユーモアは異なる価値観の接点である。正義のヒーローは自分の価値観だけをマジメに追求するせいでユーモアが不足しがちだ。

 → 世界を自分のものにする方法