村上春樹奥田民生

村上春樹と奥田民生は現実の世界で特に関係があるわけではなく、並べて語られるのを聞いたこともないが、僕の中では不思議とシンクロした存在だ。僕はハルキさんとタミオくんの作品をそれぞれ特別に愛好していて、「199X年といえば村上春樹の『ナントカ(本)』と奥田民生の『カントカ(CD)』が出た頃で、それを受け取る僕の気分はあんな風だったなあ」と思い出すことができるくらいである。つまりハルキ・ワールドとタミオ・ワールドは僕の中で勝手に結びついている。

最初にハルキ・ワールドとタミオ・ワールドの接近に気付いたのは'98年の春のことだった。約1ヶ月違いで奥田民生の『股旅』('98.3.18)と村上春樹の旅行記『辺境・近境』('98.4.23)が出たのだが、ともに旅をテーマにしているだけではなく、作品全体のトーンがとても似ているように僕には感じられた。特に、日常と非日常を別のものとは考えない姿勢と、そこから生まれるユーモアが共通している。真剣でありながら肩の力が抜けているように見えるところがおんなじなのである。

そういうわけで、僕はいつも彼らの本やCDを反芻しながら次作を楽しみに待っているのだが、今回また2人の作品をほとんど同時に手に入れることができた。発売日は村上春樹『海辺のカフカ』が'02年9月12日(9月10日発行)、奥田民生『E』が'02年9月19日とたったの1週間違いである。そんなのはもちろん偶然に過ぎないのだが、内容に関してもシンクロナイズ度は高かった。

『まんをじして』は「その時が来た、力出せ、力出せ」と歌う曲だが、『海辺のカフカ』の星野青年もその時が来るのを待って精一杯の力を出す。また、『海辺のカフカ』の主人公田村少年は「世界でいちばんタフな15歳」になろうとするが、『花になる』という曲でタミオくんは「頼りになる男、最強の花になる」と歌う。『海辺のカフカ』に「ことばで説明してもそこにあるものを正しく伝えることはできないから」というセリフがあるが、『CUSTOM』の詞には「伝えたいことは言葉にしたくはないんだ」とある。

星野青年が力を出して持ち上げるのは「入り口の石」というものである。その白い石は何だかよくわからない世界への通路を象徴しているのだが、『E』の最後の曲『ドースル?』に出てくる「白いドア」というのも「あやしい」「銀色の世界」の入り口である。『ドースル?』の語り手の「僕」は、その「ドア」の向こうへ行ってみるかどうか迷っており、聴き手に「君だったらドースル?」と意見を求めているのである。

歌詞で「君」という言葉をこういう風に使うのは珍しい。普通は、ポップ・ミュージックの歌詞に「君」が出てきたら(架空の)恋人や友人に対して歌っていることを意味する。ところが、『ドースル?』の「君」は聴き手である我々のことである。『ドースル?』の「僕」は聴き手に直接問い掛けている。少なくとも、そう捉えることも可能なようにできている。一方、『海辺のカフカ』には「僕は何々する」という文が「君は何々する」に変化するところがある。この「君」の使い方も斬新だ。小説の中に出てくる言葉でいうと「自己と客体との投射と交換」を表現していることになるだろう。

『海辺のカフカ』には架空のヒット曲が登場する。その曲の中に「不思議なコード」があるという話もおもしろい。奥田民生の'99年のシングル『月を超えろ』の歌詞にも「不思議なコード」という言葉がある。音楽が好きな人間にとっては想像をかきたてられる表現だが、現実には「不思議な和音」などというものは無い。ピアノの鍵盤やギターの弦をどんな指使いで押さえたところで、たった数個の音の組み合わせが出るだけである。でも、ちょっとシュールなハルキタミオ・ワールドには「不思議なコード」が存在するのだ。

 → ハルキ、タミオ、イチロー その2