「涙の妊娠・出産顛末記」

<ことのはじまり>
 私は恋をした。
一世一代の恋だ。恋をすると、その人の子供が欲しくなるのが女なのか。この人の子供がほしい!私の子供の父親になるのはこの人しかいない!と思ったのだ。
 「お願いっ!子供産ませてっ!」 迫る私に、彼は「ウン」とにっこり。
 折りしもその時、私の周りでは妊娠ブーム。以前から「赤ちゃんが欲しい!」とわめいていた私は、結婚式4ヶ月前に念願かなって妊娠。後悔先に立たずと言うけれど、同時にそれは、想像をはるかに超えたつらい妊娠期間のはじまりだった。
 
<妊娠発覚>
妊娠が分かって間もなくつわりが始まった。
妊娠する前は、「大丈夫、大丈夫。つわりなんてない人もいるんだから。きっと私も大丈夫よー」とたかをくくっていたのだが、実にあまかった。つらいなんてもんじゃない。とにかく、何も食べられないのだ。食べてもすぐに戻してしまう。水さえもうけつけない。
寝てもさめても頭がぐらんぐらんして、当時まだ仕事をしていたのだが、とてもまともに仕事なんてできない。事情を知っていた同僚に何から何まで助けてもらい、退職するまでしのいだ。
普通の妊婦さんは、「つわりのつらさも赤ちゃんが元気な証拠」と前向きに耐えるそうだが、私はそんな謙虚なことは思わない。あまりのつらさに、
「もう赤ちゃんなんていらない、もとの体に戻して!」
と何度本気で叫んだことか(なんて不謹慎な・・・)。
 結局つわりは約3ヶ月間続き、体重も5キロ落ちた。
つわりがこんなにしんどいと知っていたら、妊娠しようなんて思わなかっただろう。中には、体重が10キロ前後落ちてしまう人や、妊娠後期までつわりが続く人もいるというから、そんな思いをしてまで子供を産みたい、という「お母さん」はすごいと思う。
私にはとてもまねできない、もう妊娠なんてこりごり。子供は一人でいいや!

 そう思っていた矢先のこと。妊娠8週目の検診のとき、おなかの子が双子ということがわかったのだ。
 内診台にすわり、カーテン越しに先生の声。
「あーあ、あー・・・これは・・・お母さん、双子ですよ」
「えーーーっ!」診察室じゅうに叫び声が響き渡った。
確かにモニターには二つの赤ちゃんがはいった袋が見えた。
 双子。双子?双子!
 晴天の霹靂とはこのこと。なんてこった!

最後までつわりに悩まされながらも、無事寿退職。予定外の双子妊娠で思ったよりおなかが目立ち始めてしまったが、なんとか結婚式にこぎつけた。5ヶ月目に入っていた。
そして、今考えると恐ろしいことに、セブ島新婚旅行まで決行してしまう。
この旅行中に随分おなかが大きくなったように思う。この頃から、
「あれ、なんか思うように足が前に進まないな」
という自覚症状が出始める。けど、自分は健康な妊婦なのだと信じているから、それがどうしてなのかわからない。
「あれ、なんかおなかがピクピクしてるー」
とのんきなものだ(おーい、陣痛が来るぞー!)。
 新婚旅行から帰ったその足でザ・ブームの野外ライブに行ったり、帰りの新幹線に乗り遅れそうになって大きな荷物を持って走ったり、無知ゆえとはいえ、随分無茶をした。よく、おなかの子がもってくれたものだ。

 私は、出産するなら個人病院で、とずっと思ってきた。
新婚旅行から帰り、転居先の広島で初めての検診に行ったときのこと。
何やら先生の表情が険しい。
 おなかの中の二人に体重差が出始めているとのこと。なんだかわからないけれど、それはとてもよくないことらしい。
 この病院ではこれ以上は見られないから、すぐに大きい病院に行ってください、と言われてしまった。

 次の日、紹介状を持って広島市民病院に行く。そこで、やはり胎児に体重差が出てきては危険な可能性があること、そして、私のおなかがかなり頻繁に張っていることがわかったのだ(その時点でも、「おなかが張る」という感覚がいまいちよくわからなかった)。
 その場で入院、ということは何とかまぬがれたが、3日の猶予をもらって妊娠23週で管理入院の身になることになった。
 そのとき、ちょうど結婚式から一ヶ月たったばかり。まだ新婚ホヤホヤだというのに、夫と離れなければいけない。今まで入院すらしたことがないというのに、これから出産までの長期の入院。
 入院当日、夫に送ってもらう車の中で涙がとめどなく流れた。

<管理入院>
 入院当日。いきなり点滴をされてしまった。おなかの張りをおさえるウテメリンだ。入院も初めてなら、点滴をされるのも初めて。私はおまけに大の針キライなのだ。緊張で顔が青ざめていく。こわばる顔の私に、「これからずっと点滴しておいてもらいますからね」と担当助産師さんがのたまった。
 幸い、ウテメリンの副作用はさほどひどくなく、しばらくすると慣れた。
 私の血管は意外にも丈夫だったらしく、退院するまで液漏れすることもなく、1週間ごとの針のさしかえだけですんだ。

 4人部屋へ入院。多少わずらわしい面もあったが、家ではひとりぼっちだったのが、たえず話し相手がいることがうれしかった。今にして思えば天国のような生活。とりあえず安静にしていなくてはいけないので、ベッドでごろごろ。
テレビを見たり、漫画を読んだり、それに飽きたらお昼寝すればいいのだ。
 4人中私を含め3人が、同じ1卵性双子の妊婦さんというのも心強かった。

 一方で、おなかの張りはとどまることがなかった。
 どんどん上がっていく点滴の数値。そしてとうとう、ウテメリンはマックスに。次の点滴が待っていた。マグネゾールだ。
 この点滴をされた人は分かっていただけると思うのだが、これがとてつもないしろものなのだ。耐え難いほてりが体中をつつむ。熱い。熱いのだ。運悪く季節は夏で、それも夜12時にはエアコンが止まってしまう。病棟内には冷たい飲み物もなく、ただ、アイスノンを1日中かかえて耐えるしかない。週末に夫が差し入れしてくれるアイスコーヒーやカキ氷だけが楽しみだった。
 食事もほとんどとれず、私の体はどんどん弱っていっていた。

 当時、2種類の点滴を1日24時間連続、それと貧血のための鉄剤の注射、肝機能が弱っていたための解毒剤の注射を毎日打っていた。
 おなかも大きくなり、2,3日に一度のシャワー浴でさえつらくなっていて、
自力で体を洗える自信もなくなっていた。部屋からほんの数メートル離れたトイレに行くこともやっとだった。
 もはや、元気な顔をつくることもできない。
 見かねた助産師さんが、ポータブルトイレを入れた二人部屋に移れるように手配してくれた。仲良くなった同室の人たちと離れることを残念に思う余裕ももはやなかった。
 出産の3週間前だった。

 二人部屋へうつってからは、とりあえず落ち着いた。
 食後の食器の上げ下げもしなくていい。病棟内の移動もすべて車椅子。シャワー浴はできなくなってしまったが、3日に1度ぐらい助産師さんにシャンプーをしてもらえた。体は拭くだけだが、どうでもよかった。それさえも体に負担だったのだ。
 明けても暮れても終わらないあまりのつらさに、精神的にも限界に来ていた。この頃から主治医の先生に「もう限界よー、もうおなか切ってー」と冗談交じりに訴えることが多くなった。
 実際に、体力の限界も近づいてきていたのだろう。見かねた先生が、点滴の数値をだんだん下げてくれるようになった。なるべくおなかを張らないようにして出産時期を遅らせて胎児を守るのが母親の、そして助産師さんの役目。なので、助産師さんは点滴を下げることにいい顔をしなかった。けれど、私は体が少しでもラクになれたのがありがたかった。

「これならもう少し頑張れる」と思い始めた矢先、突然の出産となってしまうのだ。

 出産の目標は胎児の肺の成熟が促される34週だった。けれど、どうもそれまでもちそうにない、との主治医の予測で、31週が終わる週末に主治医から手術の説明を受け、同意書に捺印をしておいた。
 今から思えば、この主治医の予測はなんと的確なものだったことか。
  
<出産>
 そのときは、突然やってきた。32週と3日目の朝。
 その日は朝6時過ぎから胎児の心音のモニターをとっていたのだが、あまり胎児の動いている気配がない、ということで、8時前まで延々とモニターをとりつづけなければいけなかった。
 やれやれ、やっと終わった、と朝食をとり、8時10分。
さて、そろそろ「ちゅらさん」でも見ようかな、とベッドに横になった瞬間。
 ぐしゅっ、ぶしゅっ、じゅぶぶぶぶっ
と、なんともいやな感覚が下のほうを襲った。
「何だろう、まさか破水?」あわててベッドから下りる。
 ぐしゅっ、ぐしゅっ。ぱしゃん!
 なんと、大量の出血だったのだ。床に広がる血。それを見た瞬間、顔から血の気が引くのがわかった。あわててナースコールを押し、泣きそうな声で「出血しましたー!」と叫んだ。
すぐに、助産師さん数人がかけつけてきてくれた。呆然と立ちすくむ私を手早くストレッチャーに乗せ、私は診察室にはこばれた。
その間にも出血は絶え間なく続いていた。水をいっぱいに入れた水風船を何個も何個も針でつつき、破裂した風船から一気に水が落ちる感覚。
動転していた私は、「赤ちゃん、大丈夫?」と聞きながら、「血が、ごめんなさい、汚れちゃう、ごめんなさい」と口走っていた。

診察室のベッドで横たわる私の周りで、あわただしく手術の準備が始まった。
出勤前だった主治医の先生にもすぐ連絡がとれ、駆けつけてきてくれた。
どうやらまだ破水はしていないらしいが、これだけ出血してはもう手術するしかない。
「頑張ろうな」
 「はい」と答えながら横の壁にかかっていたカレンダーを見て、
「あー、7月26日かー。今日がこの子達の誕生日になっちゃうんだー」
9月17日が出産予定日のこの子たち。せめて8月生まれにしたかった。なんとか獅子座になったからいいか、なんてぼんやり考えていた。

<悠太・光太誕生>
 午前9時からの他の手術の予定を待ってもらって、私の緊急帝王切開手術となった。
 後から、「ほんとにタイミングがよかったですよ」と言われた。
 もう少し出血が遅かったら、他の手術で手術室はいっぱい、お昼頃まで手術を待たなければいけなかっただろう。そうすると、私も輸血しなければいけなかっただろうし、赤ちゃんもそれまでもったかどうか。
結局、出血の原因は、はがれかけた胎盤からのものではないか、ということだった。

手術室に入ると、あれよあれよと言う間にことは進んでいった。
そして、9時38分・第1子誕生、9時39分・第2子誕生。
かわいい産声が聞こえた。
その瞬間、「ああ、よかった」と涙が流れた。
「男の子ですよー」と看護師さんが見せてくれた悠太は、小さいながらも一生懸命に泣いていて、普通の赤ちゃんに見えた。光太はあれっと思うほど小さかった。
二人はすぐに病院内にあるNICUに入院となった。

手術室から出ると、病院から連絡をもらって駆けつけてきてくれた夫がいた。
夫の顔を見ると、心底ほっとした。
その日の夫は大忙し。手術後で意識が朦朧として眠り続ける私を置いて、病院からの説明を受け、家族への連絡、NICUに入院した子供たちの担当の先生からの説明などを一手に引き受けてくれた。「父親」としての初仕事だ。
そして、術後の私の付き添い。
まさかその日手術になると思っていなかった私は朝食をとっていた。そのせいで猛烈な吐き気が襲う。目の前で吐く私に臆することなく体をさすり続けてくれた夫。
新婚1ヶ月で入院してしまって、まだまだ恋人のまま、きれいごとばかり、いい顔ばかりしか見せていなかった。
「ああ、この人には全部あずけていいんだな」と実感した瞬間だった。

子供は、第1子を悠太、第2子を光太と名づけた。
確か、夫が名前の読みを、私が漢字を当てたと思う。字画なんかそっちのけ、雰囲気一番で字をあててしまったのだが、よかったのかな?
二人は幸い、32週という早産にもかかわらず自力で呼吸もでき、様態も安定しているとのことだった。

予定より2ヶ月も早く、1700グラム、1195グラムと小さく生まれた二人。
でも、私は「小さく産んでしまってごめんね」という気持ちにはならなかった。自分も、体力・精神力の限界を超えてこの子たちのために頑張った、という自負があったからだ。
私も頑張った、この子たちも頑張った。そして、この結果だったのだ。
「後はお前たちの生命力に任せるぞ」といったところだろうか。

 実際、この子たちがすべてを選んで生まれてきたとしか思えない。
父親を選び、母親の腹を借り(母親の選択はちょっとミスったか?)、自分たちが生まれてくるための最善の病院を選び、生まれる日も、その時間帯さえもこの子たちが選んだのだ。
 自分たちが無事生まれるために。
 自分たちが生きるために。
 それが、この子たちの生命力じゃなくてなんだろう?

 2001年7月26日。 悠太、光太、誕生。


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