どうにもこうにも


 気分がすぐれない、元気がでない。
 子供ではなく、私の。

 5月以降、私の身辺で子供のことを含め「いろいろ」ありすぎて、頭の中で情報処理できていない、感覚がオーバーフローを起こしている感じ。
 気持ちが、弱っている。

 そんな状態で、子供の相手などできるわけがない。
 子供も、外(園)で頑張っているぶん、家へ帰ってくるととたんに気持ちがゆるむのか、ギャーギャー我が儘になって、あれこれ要求してくる。また、悠太と光太二人の要求が食い違うものだから、あっちを立てればこっちが立たず。二人に翻弄されてへとへとになる。

 ことに、悠太の要求が面倒くさい。
 箱の開け閉めや扉の開け閉めにこだわる。箱も、自分で開けても、きれいに四隅をあわせて蓋をすることができないものだから、そのたびに「やって」。蓋をしたら、またすぐ開けてしまう。また「やって」。延々と、箱の開け閉めにつきあわされる。

 洗面所、脱衣所の引き戸は、扉を閉めると自動的にロックがかかる。
 当然悠太はロックを解除することができないから、「開けて」。開けてやると、すぐにまた閉める。ロックがかかって開けられない、そのたびに大泣き。
 「だからっ!あんたが閉めるから鍵がかかるんでしょ!」

 車のシートベルトの脱着にもこだわる。
 ベルトのプレスボタンを「押して」。ベルトが外れると「着けて」。「外して」「着けて」「外して」「着けて」・・・これもエンドレス。

 組み立て式のおもちゃをのパーツを分解する。もちろん悠太が自分で組み立てられるわけはないので、「ギャーッ!」
「はいはい、こわしたのね」と組み立ててやると、その場ですぐまたパーツを外して「ギャーッ!(こわれたー!)」
組み立て、こわし、組み立て、こわし・・・
意のままにならぬおもちゃに絶叫。自らパニックになってどうするの。
つきあいきれません。おもちゃ、撤収。
絶叫が家中に響き渡る。
その間、光太も「疲れた、眠れないー!」とパニック起こして絶叫していたりする。

 要求が通らないと、めいっぱいに泣く。腹の底から声を出して。
 赤ちゃんのひっきりなしの泣き声は、否応なしに親の気力を奪うが、幼児の泣き声もなかなかどうして。
 もともと私は、子供の泣き声に対して耐性がない。
 「泣き止まぬなら、殺してしまおう」と殺意がむくむくと膨れ上がる。手を上げる、子供の首に手をかけることもある(手に力は入れないが)。
 さもなくば、自分の感覚を殺す。
 何も聞こえない、何も感じない。
 子供が泣いていても、何をしていても見えない。
ネグレクトと手を上げるのと、どっちがましなんだろう。

悠太の水に対する執着は「異常」の域に達している。水に意識がいっているときは、何も見えなくなる。ご飯のことも忘れてしまう。寝食忘れて、家でも園でも水に没頭する悠太。
「おしまい」ができず、有無を言わさず水道の元栓をしめると、この世の悲しみ、絶望を一人で背負い込んだように突っ伏して泣く。きっと、こんな風に泣く悠太を園の先生が見たら「かわい〜」って笑うんだろうな。けど、私にとってはイライラを増長させるものでしかない。
1日の起きている時間の8割は水遊びをしているのではないだろうか。
遊び方もエスカレートする一方で、コップにくんだ水を、わざわざ部屋中にまく。拭いても、拭いても、水浸しになる部屋。
最近では、水に執着する悠太を見ると吐き気がするようになってしまった。
人前もはばからず、怒鳴り散らしたい、子供を蹴倒したい衝動にかられる。

気持ちが弱っている。
子供が怖い。
子供の笑顔すらかわいいと思えない。微笑ましく思っていたなん語のおしゃべりも、いつまでたっても意味のある言葉の言えないことを突きつけられてイライラする。
要求も、いつまでたってもクレーン。
子供が何かをして欲しくて私の手を引っ張りにくると、手をとっさに隠してしまう。だって、何をして欲しいか分からないんだもの。何がして欲しいの、どれがいるの、分かるように教えてよ!クレーンじゃ分からないよ!

初めてクレーンで要求を出してくれた、思いを伝えてくれた、って喜んでいたときもあったのにね。

私は、なんと欲深なのだろう。
月・水・金と子供が単独通園になり、自分の自由な時間が増えた。
子供を産んで以来、初めての自由を手にした。
子供とちゃんと向き合うための自由な時間のはずが、自由を満喫すると、子供のお迎えが辛くなった。あんたたちがいなければ、私はもっと自由なのに。

今までのもとをとるように、お金を遣って遊ぶ。洋服を買い、映画を見て・・・なんて新鮮なのだろう!
それでも、あっというまに現実に引き戻される。
お金を遣っても、むなしいだけ。
私はただ、子供という現実から逃げているだけ。

私だけが辛いんじゃない、みんな、頑張っている。
障害を抱えた子供を持っているのは、私だけじゃない。双子なんてたくさんいる。
きっと、私よりもっと辛い状況の人もいる、それでもみんな、頑張っているんだ。
なのに、どうして私は頑張れないのだろう。

この子たちを育てる自信がない。自分に自信がない。
子供を施設に入れて、子供からすべて解放されたい。
こんな母親をもった子供は、なんて不幸なんだろう。
私なんかが子供を育てようと思ったのが間違いだった。

夫も、こんな妻でなかったら、ちゃんと子育てできて家を守れる妻だったら、こんな苦労をすることなかったのに。
私のパニックにたびたび付き合わされ、仕事中もたびたび呼び出しをくらい、仕事にならない状態が続いている。「家庭の都合」の有給休暇はとっくに使い果たされた。
夫を苦しめているのを知っている。
夫も、私と結婚したことが間違いだった。

私がいるから、家族を苦しめる。
私がいるから、みんなから嫌われる。
私が生きていることが間違いだった。私が存在していることが、間違いだった。

自分の存在を消したい、死にたい。
私が死ねば、みんな幸福になるんだ。

そんな思いが、私の体中を埋め尽くすようになってしまった。
もう、限界。

夫に付き添ってもらい、初めて心療内科の門をくぐった。
これまでも、心療内科にかかったほうがよい状態がずっと続いていたのだが、なにせ、子供がいるとそれもできない。やらなければいけないことは山積み、いつも自分のことは後手後手にまわり、自分が病院に行くことすらできなかった。

勇気を出して医療の手を借りようとした。
しかし、「どこの心療内科がいいか」なんて情報はない。電話帳の広告を見て、適当に行った先は、これ以上ないくらいの大はずれ!
威圧的なじーさんの医師を前に、絶句してしまった。この人に、私の何を話せばいいのだろう。最悪。
とりあえず、1週間分の精神安定剤だけは手に入れた。
どっと、疲れだけが残った。

病院からの帰り道、通りがかった本屋の店頭に、「元気が出る本」と銘打ったコーナーが設けてあった。
ヒーリング本、というものか。きれいな海の写真とともに、「元気の出るメッセージ」が書いてある。
「あなたの家族にとって あなたはかけがえのないひと
 それは あなたが優秀だからじゃない
 ただ あるがままのあなた自身が 彼らにとって 特別な存在だから」
・ ・・・と、そんな文章があふれている本。

普段の元気な私なら、「けっ!そんなことわざわざ言われなくてもわかってるわよ。きれいごと並べてんじゃないわよ!」と、手にもとらないのだが、本当に、気持ちが弱っているんだなあ。同じような本を、2冊も買い込んでしまった。
こんな本、20代前半で卒業したと思っていたのに。

そのまた帰り、お昼時。
夫と、ショッピングセンターの中にある回転寿司のお店に入った。
目の前を流れるお皿に夢中になっていると、その向こうから視線を感じる。ふと、その方向を見ると、私に笑顔で手を振る二組の初老のご夫婦。
この春先まで毎日のように通っていたプールで、悠太・光太をかわいがってくれていたおじさん、おばさんたちだったのだ。
「最近、悠ちゃん・光ちゃん見かけないから、心配してたのよ〜」
ああ、なんかうれしいな。
私たちを気にかけてくれる人がいたんだ。
こんな偶然が、少し元気をくれる。

気付かなきゃ。
私のことを気にかけてくれるひとがいる。
から元気を出して書いていた私の文章を読んで、「元気がないみたいだけど大丈夫?」といち早く気付いてメールをくれた北海道のYさん、お茶に誘ってくれた母子通園で一緒のお母さん、「ムリして笑わなくていいよ」と言ってくれた、同じく母子通園で一緒のお母さん。

どうにかこの鬱から這い上がろうとして、這い上がりきれなかった。
這い上がろうとして、失敗して、もっと深みにはまっていく悪循環。
この悪循環を断ち切るのは、自分の意思ひとつだと心のどこかでわかっているのだけれど。

どうしてこんなに、母親としての適性がないんだろうなあ。
どうしてもっと、どーんと大らかに構えていられないのかなあ。
母親になって、もうすぐ4年になろうというのに、いまだに母親としての覚悟ができていない。

我が子の愛し方がわからない。

この子たちとの生活の希望が、家族の幸せの形が、今は見えない。




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