ありのままを受け止める、ということ


 子供のありのままを受け止める、ということの難しさを最近よく感じる。

 子供に障害があるのでは、と疑い始め、さらにそれが本当のものになったとき、今まで描いていた家族の未来像が崩れてしまった。
 生命保険をかけるときにたてたライフプラン・・・とりあえず、幼稚園だけは私立に行かせて、小学校は地域の小学校、中学校も高校も公立でいいや。大学もできれば国公立で、だめなら大学なんて行かなくてもいいし。塾は・・・別に行かなくてもいいだろう。習い事もそんなにさせてやれないなあ。まあ、私がパートでも働きに出れば何とかなるか・・・
 そんな、ごくごく普通の、ささやかなライフプランですら、かなわないものとなったのだ。

 以来、目の前の子供のありのままを受け止めよう、と努力してきた。
いや、そんなきれいな言葉ではない。子供には期待しないよう、期待しないようにつとめてきた。期待して・・・だめだとわかったときの失望が怖いから。
できるだけ、過少評価するようにしてきた。「だめなんだ、できないんだ」と思っていれば、万が一、できたときがうれしいから。
屈折しているのは分かっている。けど、障害を持つ子どものお母さんなら、多かれ少なかれこんな気持ちはあるんじゃないかなあ。

もちろん、本来の意味での、子供の「ありのまま」を受け止めている自信もある。
ちょっと(かなり?)おバカだけど、悠太・光太はとってもいい子!今のままで十分、君たちは自慢の息子だし、今のままの君たちで十分、お父さん、お母さんは幸せ。
親の期待を子供に押し付ける、なんてことはしない、というよりできない。だって君たちは、親の期待や思惑とは別の世界で生きているんだもの。

「なんであんたたちはそうなの!」と親の気持ちを押し付けて、毎日ケンカを売りながら生きるより、「あんたたちはそうなんだ〜」と受け止めて生きるほうがラク。
「なんであんたたちは、アイスクリームが食べられないの!なんで真夏でも温かい牛乳しか飲めないの!冷たいほうがおいしいじゃない!」
と冷たいものを無理強いするよりも、「へ〜、冷たいものはいやなんだ。真夏なのになあ。変わってるね」と認めるほうがお互い幸せ。

そんなふうに、ひとつづつ、ひとつづつ、悠太・光太のありのままを受け止めるように、「親の幸せ≠子供の幸せ」ということを学んできたつもりだ。
子供が3歳にして、ここまで達観できたのはこの障害のおかげだと思う。

親はどうしても子供に期待をしてしまうし、普通、子供はその期待に応えようとする。もちろんそれが普通の親子の形なのだが、うまくいくのは、その形を親子がお互いに幸せと感じられるまで。
子供がある年齢に達すれば自然と、そういった親の期待は子供にとって不快になるものだし、重たくもなる。
けど、多くの親はそれに気がつかない。過度な期待をかけ、親の価値観でいうところの「幸せの形」を子供に押し付ける。子供はとっくに、別の世界へ行っているのに。

悠太・光太は・・・生まれながらに「別の世界」の住人だからなあ(笑)
悠太・光太がこっちの世界に譲歩するのは、今はまだ難しいから、私が折れるしかない。そうでなきゃ一緒に暮らしていけない。一応親子だし。

それでも、それでも。
親というのはなんとやっかいなものか。
期待しても無駄(まったく無駄というわけではないけれど)、ほかの子と比べても意味がない、うちの子はうちの子、と分かっていながら・・・「こうあってほしい」とどうしても望んでしまう。

K学園のうさぎ組で、みんなでお絵かき。
みんな嬉々として、クレヨンで思い思いに絵を描いていく。悠太・光太以外は・・・
悠太・光太、まったくお絵かきに興味なし。
悠太は、クレヨンの箱のフタの絵柄に魅入られてしまった。「お絵かきしようよ〜」と誘ってクレヨンの箱を開けようとすると怒るのだ。クレヨンの箱をうっとりと眺める悠太。
光太にいたっては、椅子にすわることさえできない。「つまらん!退屈!トランポリンしたい!」と「教室から出せ、出せ!」と泣き喚くばかり。
他の子の楽しそうな顔をみるにつけ、「どうしてうちの子はこうなんだろう・・・」とへこんでしまう。
後から思えば、悠太・光太はお絵かきに興味がなかった「だけ」なのに。
お絵かきできなくたって、悠太・光太がいい子なことに変わりはないのに。

 「みんなと一緒」が大切なのも本当。
 「みんなと一緒」が無意味なのも本当。
 うー、分からん!

 障害をもつ、ありのままの悠太・光太を受け止めたい。
 けど、「もしも悠太・光太に障害がなかったら・・・」と思ってしまうのも自然な感情。
 その自分の気持ちのギャップに自分がついていけなくて疲れてしまう。

「それでいいんですよ〜」
 そんな悶々とした母の思いに助け舟を出してくれるのは、K学園の先生たち。
「子供にもし障害がなかったら、っていうのはこの先ずっと思い続けると思いますよ。でもそれでいいんです」
 そうなのか・・・別にそれでいいのか。

 K学園の子供にNGはない。
 もちろん、集団生活を送る上での最低限のルールはあるし、危険なことや他者を傷つけることはいけない。でも、それ以外のNGはない。みんな、それぞれの君たちでOK。

 最近の悠太はとにかく、お水。
それは園でも一緒で、教室の中にある子供用の洗面台のお水で延々と遊んでいる。
教室の中での活動にもほとんど参加できない。みんなに背を向けて、ひとり、にっこにこでお水と戯れる悠太。その遊び方も激しくなる一方で、手を蛇口に当てて噴水!あっちこっちへ水が飛ぶ。洗面台の中にすっぽりと座り込み、服は全身びしょぬれ。1日に何度も着替えをさせる。
私は私で、その悠太の水遊びの後始末に追われる。あっという間に床一面洪水状態になってしまうので、何度も雑巾でその水を拭く。
は〜、疲れる。いい加減、やめてくれよー!

「でもさ〜、オレ、何もやることないし〜、ここにオレが食べられるものもないし〜」
と、疲れた顔の私に、絶妙なタイミングで悠太の気持ちを代弁する園長先生。
「あれで、彼の最大限の譲歩だと思いますよ」
 あれが、ですか〜?
本当は外に出たい、帰りたい。おもしろくないし、ごはんも食べられない。悠太にとっては、今教室にいる意味がない、しんどい状態。
「いっぱいいっぱい頑張っているんですよ」
そうか・・・それでも悠太なりに「教室の中にいること」を頑張っているんだなあ。

 そもそも、この教室内水遊び、私は何度もやめさせようとしたのだが、それを見た園長先生が、「いいよ〜やっても。私が水道代払うわけじゃないし〜」あっはっはと笑いながら、いともあっさり。
「こういったこだわりをムリに止めさせる意味がないんですよねえ・・・」
園長先生公認となった水遊び。悠太の足元には厚手のの足拭きマットが、そして何枚ものバスタオルに雑巾が用意されている。
あっという間にずぶ濡れになるTシャツを干すためのハンガーもたくさん。
「どんどんやっちゃってくださいね〜!」とニコニコの担任の先生。
いいんですか、ほんとに。

私も、「ダメ、ダメ!」と言わなくていい、気がラクになった。しかし・・・どこまで許していいものなのか。その線引きが難しい。そのボーダーライン、自分の中ではかなり低い位置まで下げているのだが・・・
「ここ(K学園)にいると、普通に何が良くて何がダメなのか、線引きがわからなくなってきちゃいますよー」と冗談半分に言う私に、
「その線がどんどん低くなっていってねえ、最後にはなくなっちゃいますから。そうしたら、ラクに生きられますよ〜」とまた、あっはっはと笑う園長先生。
それはそれで怖いです、先生。

そんな、ある意味野放図に育てて大丈夫なのかと不安に思う。
でも、ちゃんと子供は成長するのだそうだ。「今の子供の姿」そのままを数年後に当てはめるから不安になる。

光太は光太で、廊下をうろうろしたり、一人園庭に出てふらふらしたり・・・もちろん私も光太に付き合って光太について歩く。
やれやれ。な〜んでうちの子はどいつもこいつも、こうなのかなあ・・・
苦々しく光太を見つめていると、ひょっこり一人の先生が顔を出して、「光太くん、楽しそうですよねえ」とにこにこ。
「あんなんでいいんですかねえ」と眉間にしわを寄せる私に、
「いいんですよー!きっと光太くんの中に、(教室での活動や遊び以外に)今、やらなければいけないことが、まだまだたくさんあるんでしょうねえ」

はーっ!そういうことなんですか・・・
というか、そんな考え方もあるんだなあ。目からうろこ。
「今やらなければいけないこと」が園庭の葉っぱや芝生をさわることなのか、は疑問だが(笑)、きっと、そうなのだろう。うん。

一人でふらふらする光太を、そんな温かい目で見つめてくれる先生。
「わがまま」ととられかねない行動を、悠太の気持ちによりそってくれる先生。
常に子供の目線で、子供たちのありのままをよし、としてくれる。
何がこの子たちの「ありのまま」かを私に教えてくれる。私もまだまだ勉強中。

いわゆる「普通の感覚」からすれば、アナーキーなK学園。
でもきっと、悠太・光太は幸せだろうね。




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