母のこと


 私の母親は、ごくごく普通の母親だったように思う。
 私が小さい頃は、「明るく素直な、優しい子に育ってね」と言われ続けていた。その母の希望は、私が3歳の時点で打ち砕かれてしまう。私は素直どころか、我が儘いっぱいで、意地クソ悪いガキだった。4歳上に兄がいるのだが、「お兄ちゃんはこんなに優しいのに、なんであんたはそうなの!」とよく言われていた。

 母親は子供に謝らない。
 私の母から「ごめんね」といった言葉をきいた記憶がほとんどない。「私(親)の言うことは絶対正しい」を地で行くような人だった。
 小学校低学年の頃だったか、ある日、「今日は雨が降るから傘を持っていってね」と傘を渡された。母の言うとおり、天気は崩れ、雨が降り出した。「お母さん、すごーい!」という私に、「そうよ。お母さんの言うとおりにしていれば間違いはないのよ!」と豪語する人だった。
今から思えば、あんた、天気予報を見ていただけでしょうに。子供が何も分からないと思って・・・それでも、「お母さんは何でも分かるんだ、正しいんだ」と洗脳するには十分だった。

普通の母親にありがちな、子供に過度とも言える期待をかけるような人だった。
それでも、私は女の子で2番目の子供だったこともあり、あの両親にあってかなり自由に育てられたように思う。
気の毒だったのは兄。この兄がまたよくできた人で、両親の期待を一身に背負うはめになる。その期待に応えちゃうのだからすごい。
しかし、両親の期待に応えることはかなりのプレッシャーだったらしく、そのストレスのはけ口は弱い者=妹の私に常に向けられた。親の見ていないところでいじめられる、殴られる・・・両親の自慢の息子は、子供心の私の目から見てもゆがんでいた。
「親に言いたいことがあるなら言えばいいのに」と親の期待をそれほど感じることのなかった私などは思っていたが、兄にしてみれば言えなかったんだろうなあ・・・
それでもどこかで反動はくるもので、大人になった兄からは手痛いしっぺがえしをくらうことになる。兄は20代後半以降、親の呪縛から逃れるがごとく、とっても「ユニークな」生き方をしている。
「子供は意のままにならぬ」ということを、子育てが終わってから知る母だった。

母は生真面目な人で、兄と私をできるだけ平等に扱い、比較しないよう心がけていたように思う。もちろんことあるごとに比較はされるのだが、比較しないように努力している母の姿勢は、子供ながらに伝わっていた。
よくできる兄に卑屈になりがちな私に、私の数少ない長所をすくい上げ、褒めてくれいていた。

それでもボロ(本音)は出るもので・・・
中学校3年生のときの模擬試験。400人以上いた学年の中で、私は結構いい順位だった。私も大いに満足、担任も「良く頑張ったのう」と褒めてくれた。ほくほくで家に帰り、結果を報告する私に、母親の顔がなぜか曇った。
てっきり「良く頑張った」と褒めてもらえると思っていた私に、母は、「もうちょっと頑張らなきゃ!せめて20番代か30番代ぐらいはとらなきゃねえ。お兄ちゃんはもっとできたわよ!」と言い放ったのだ。
このときのショックは忘れられない。
この人は私のことなんか見ていない。ありのままの私を見ていない。「お兄ちゃん」という絶対の基準があって、そこから私のことを判断しているんだ。

きっと私の母は、ごく普通の母親なのだろう。
そして、私も普通の子供にありがちに、反抗も反発もした。順風満帆に親の希望どおりに歩む兄と違い、自分のこうと決めたことは、どんなに親に反対されても、親の言いなりになることはなかった。
意のままにならぬ私に、親は辟易していたことだろう。
しかし、私の「こうと決めたこと」の援助は惜しむことなくしてくれた。

親との衝突は数知れず。
それでも、親元で就職し20代後半にもなると、親に反発する理由もなくなり、親も私に干渉する必要もなくなった。
ここにきて、母と私は絵に描いたような仲良し母娘になった。
週末は母とデパートめぐり。一緒に買い物して、母の洋服をみたて、ランチして・・・
友達とおいしいレストランを見つけると、「これ、お母さんにも食べさせてあげたいなあ。今度はお母さんと一緒に来よう」と思ったりした。

微妙な年頃だった。とっくに親元から離れて自立していなければいけない。それでも、その自立は面倒だった。干渉されない親元はなまぬるく、居心地がよかった。
恋人もおらず、愛情をかたむける相手もいない。そんな手持ち無沙汰な感情を、母親と愛犬でまぎらわせていたのかもしれない。

そんな母との関係は、現在の夫の出現で変わり始める。
週末は夫との時間にほとんど費やされるようになり、いいレストランを見つけても、「今度は彼と一緒に来よう」と思う。
そんな私の変化に、母はどう感じていただろう。案外、「やれやれ、これで娘のお守りから解放されたわ」なんて思っていたのかもしれない。

その後順調に婚約、後は結婚式を待つばかりだった。
そのとき私は29歳になっていた。
「子供をもつこと」は夫も私もお互い最初から意識していたし、私は子供が欲しくて欲しくてたまなかった。今にしてみれば、「どうしてあのとき、あんなに子供が欲しかったんだろう」と思うのだが、年齢的な焦りもあったのかもしれない。
夫と相談したうえで、結婚式前を承知で私は妊娠した。

孫ができたことをどれだけ喜んでくれるだろう、と思いながら、両親に子供ができたことを報告した。
その場が凍った。両親の顔がみるみる青ざめていった。
え?なに、これ・・・
両親は口々に、結婚式前の妊娠を責めた。軽蔑、侮蔑、ありとあらゆる言葉を私に投げつけた。
喜んでもらえると思っていたのに、どうして?どうしてこんなことになるの?
両親にとって、結婚式前の妊娠は許しがたいことだったらしい。
「嫁入り前なのに」「傷物になって、相手の親御さんに顔向けができない」「世間体が悪い」等々・・・
まさか、自分の両親がこんな考え方の人だったなんて、思いもよらなかった。

世代の違い、考え方の違い。
私と夫は至極真面目で真剣な付き合いだった。
心から愛し、信頼する人と肌を合わせること以上の幸せで、神聖で、きれいなことはないと思っていた。
お互いそんな気持ちだったからこそ、悠太と光太は私たちを選んでくれたのだ、と今でも思う。

このときお腹に宿っていた悠太・光太は、生まれるまで私の両親からとうとう「おめでとう」の言葉をかけてもらうことはなかった。

それから、結婚式までの約3ヶ月は地獄だった。
両親は、次の日からまるで私が存在しないがごとくふるまった。口もきかない、目も合わさない。汚らわしい。私の存在すべてを否定した。
つわりがひどく、食べ物はもちろん、水すら受け付けず吐き続ける私に、「あんたの食べるものはないよ!」と吐き捨てるように言った母。そりゃあさあ、何も食べられないけど・・・
どうしてここまでされなければいけないのか。
「そんなに私が妊娠したのがいやなら、この子を堕ろせばいいの?」と詰め寄ると、母はさらに侮蔑の表情を向けた。

母に嫌われるくらいなら、お腹の子なんて堕ろしたほうがまし。
本当にそう思った。
そして気付いた。自分がこの年齢になってもどんなに母親に依存していたか。親から存在を否定されることは、いくつになっても子供にとっては脅威だった。

しかし、お腹の子を殺す勇気もなかった。
この時期、私を支えてくれたのは夫と、そして子供ができたことを、諸手をあげて喜んでくれた夫の母だった。
夫と家族になれることがうれしかった。夫と家族になる決意は固まっていった。自分が帰る場所は夫のもとで、もはや両親のもとではなかった。

その後、母の態度は、兄の説得・援護射撃のおかげで急速に軟化し、無事に祝福されて結婚式をあげることができた。
私はようやく、親の呪縛からのがれることができた。

悠太・光太が生まれてからは、ごく普通のジジババのごとく、孫にメロメロになった。それは、悠太・光太に障害があると分かってからも、変わることはなかった。かわいいばかりの孫の障害を受け入れることは簡単ではなかっただろうが、そんな気持ちはおくびにも出さなかった。
ジジババにとっては、悠太・光太はただただ、いとおしい存在だった。

先日の、光太の行方不明騒動の後、久しぶりに母と電話で話をした。最近は私も忙しく、連絡をとる暇もない。
母もこのホームページを見てくれていて、光太の騒動も知って心配してくれていた。
悠太・光太命の私の母、「ちゃんと見てやらないと!」とお叱りを受けること覚悟だった。しかし、電話の向こうの母は、
「悠太・光太はもちろんだけど、それよりも、一人で頑張っているあんたのことを思うと・・・」と声を詰まらせた。

母は体が弱く、子供を抱っこすらできない。自分のことでいっぱいいっぱいの母に、頼ることなど考えたこともなかった。産後も実家に帰ることはなく、夫と私でやってきた。
ただでさえ大変な双子育児、それに加えて障害児。私一人では手にあまることは目に見えている。そんな私を助けてやれないことに、母なりに心を痛めていたようだ。

けど。
悠太・光太が元気でいれば、私のことなんてどうでもいいんだろうと思ってた。私はただの悠太・光太のお世話係というだけで、母にとって大事なのは悠太・光太だけなのだと。

 産後間もない頃、一番しんどくうつ状態だった頃、子供を夫にまかせ、実家に帰って母とお茶でもして息抜きしよう、と実家に電話したことがあった。私一人で帰ろうとしていることを告げると、母は、「な〜んだ、悠ちゃん・光ちゃんは来ないの〜?」とあからさまにがっかりした声を出した。
 母は冗談めかして言ったのかもしれない。初孫のかわいさに浮かれていただけなのだろう。けど、うつ状態の私には「存在を否定された、私は価値がないんだ」と思うに十分だった。

夫にしたって、私のことは「大人なんだから大丈夫」とのたまう人だったし(大人でも助けて欲しいときはあるのよ!)、私のことを大事にしたり、家事をしてくれたりするのも、私のためというよりは、ストレスを溜め込んだ私が悠太・光太に八つ当たりしないよう、悠太・光太がとばっちりを食わないように気を遣ってのこと。まずは悠太・光太ありきで、私のことなんて二の次だ。
光太の行方不明事件のときも、夫の頭の中は「光太が無事でよかった」ばかりで、一人で右往左往して、警察の対応もした私にねぎらいの言葉一つなかった。

光太が行方不明になり、責任を感じていた。その責任の重さに押しつぶされそうになっていたときの、母の言葉。
悠太・光太よりも、あんたのことが心配。
誰よりも私のことを一番に思ってくれている人がいるんだ、と思うと、温かい気持ちで体中が満たされていくのが分かった。
「パンクしないようにね」
今の私に、何よりの言葉だった。

思えば、悠太・光太が生まれてから、母はいつも私の体のことを気にかけていてくれた。あの、世間体ばかりを気にして結婚式前の妊娠を毛嫌いしていた母が、悠太・光太の障害が分かってからも、全く偏見にとらわれず、ありのままの二人を受け入れ、かわいがってくれている。ときに私と同じように心をいため、気持ちを共有してくれている。
そして、いつも一番に私のことを思っていてくれたのだ。
今更ながら、母に感謝。


この週末、久しぶりに子供たちを連れて実家に帰った。
父は、「悠太・光太が帰ってくるから」と朝から掃除を張り切ってしてくれていたらしい。
ニコニコの悠太・光太の笑顔で、しばしの、そして何よりの親孝行。
ちゃんと元気に、いい子に育っているからね。
ぼちぼちやっていくから安心してね。




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