区別しないで

 この10月の終わり、私の母方の祖父の13回忌の法事があります。
 祖父の亡くなる1年前に祖母も他界しています。家には今は誰も住んでいませんが、そのまま残っていて、こうして法事のときには祖父母の家に親族が集います。

 大好きな祖父母でした。
 子ども時代、夏休み冬休みともなると、祖父母の家に長期滞在。いとこたち、親戚一同と楽しいときを過ごしました。
 夏は、土曜夜市に花火、川遊びにキャンプ。怖いなら見なければいいのに、「あなたの知らない世界」。
 冬は、昔ながらの杵と臼での餅つきに、いとこのお姉ちゃんがつくってくれる年越しそば、初詣。夜遅くまで続くトランプ大会も、このときばかりは親も目をつむってくれていました。

 思い出すだけで心が温かくなる思い出のいっぱいつまった祖父母の家です。
 大人になってからも、何か行き詰るたびに祖父母の墓前に話をしに行ったものです。
 父親が転勤族で、高校を卒業するまで社宅暮らしだった私にとって、祖父母の家は唯一心のふるさとと言える場所だったのです。

 そんな祖父母の家やお墓にも、結婚してからというもの、育児の忙しさや距離的なものもあり、すっかり遠ざかってしまっていました。
「おばあちゃんの家に帰りたいなあ」と思っても、悠太と光太の世話はそんなノスタルジーを許してくれません。
 1年前にも祖母の法事があったのですが、そのときは、悠太と光太の障害がはっきりした後で、「大変だろうから」と法事があることすら知らせてもらえませんでした。
 結局、いとこのメールから法事があることを知ったのですが、出席は確かに難しい状況だったのですが、そのときも「なぜ直接知らせてくれないのだろう?」と一族からつまはじきにあったような寂しさを感じたのを覚えています。

 そして、今年の祖父の13回忌です。親族一同が顔をそろえる機会は最後かもしれません。めったに会うことのできないいとこや伯父、伯母に会えるチャンスです。
 悠太と光太も落ち着いてきた今年こそは出席したい。日程が決まったのか、私の実家の母に電話をしました。
 すると、思いも寄らぬ言葉が母の口から返ってきたのです。

「悠ちゃん、光ちゃんがかわいそうだから来なくていいよ」

 思わず返す言葉をなくす私に、さらに母がたたみかけてきます。
 あの狭い家にたくさんの人が集まって座るところも無いくらいなのに、悠ちゃんと光ちゃんが来てもしんどいだけ。がやがやとうるさくて、悠ちゃんと光ちゃんが来ても何もいいことはない。来るだけかわいそう。
 何より、遠いしお金もかかるし・・・

 どんなに、悠太と光太が法事に出席することが無益なことかを延々と語り続けるのです。
 とっさに、漫画「光とともに・・・」の中で、幸子さんが、親戚の慶事にも遠まわしに断られるようになった、知らせてももらえなかった、と寂しげにつぶやくシーンを思い出しました。
 
 ああ、ほんとにこういうことが起こるんだ・・・

 悲しい、という単純な感情ではない、ただただ体から力が抜けていきます。
 反論する気力もなく、心を閉じるしかありませんでした。

 ただ、幸子さんと違うのは、私の母は、本当に悠太・光太のことを思いやってのことだったのです。自閉症児が迷惑、というのではなく。

 確かに、悠太と光太には行ったことのない家で、不安に思うでしょう。聴覚過敏もあり、人のにぎわいも苦手です。
 だからといって、それが人との出会いのチャンスや、経験を奪う理由にはなりません。
 私も夫も、悠太と光太をいろんな場所に連れ出しています。もちろん、2人の様子を見ながら、つらそうなときは予定を変更したり、臨機応変にフォローしています。
 決して、障害があるからとか、しんどいからとか、かわいそうだからという理由で最初からあきらめるのではなく、いろんな経験をさせてやりたいと思っています。

 人とのコミュニケーションが苦手だから、ずっと人と会わせないでおくのですか?
 ずっと温室の中で、心地よい場所に閉じ込めておくのですか?
 障害があるから、かわいそうだから?

 後日、母に問いました。
「悠太と光太がもし健常児だったら、<かわいそうだから来なくていい>と言いますか?」

 答がNOなら、それはれっきとした障害者差別です。「かわいそう」という哀れみのもとの差別。差別という言葉が適当でないなら区別です。

 私の母親の世代にはまだ、「障害=かわいそう」という図式が根強く残っているような気がします。
障害者を「かわいそう」と思うことこそ、健常者のおごりです。
母をフォローするわけではないのですが、孫がかわいいからこそ、余計に思ってはいけない「かわいそう」が出てくるんでしょうね。

私は、悠太と光太を「かわいそう」と思ったことはありません。きっと、今の時代、そんなふうに思う親はいないでしょう。
「お前ら、わけわからん!かんべんしてくれー」とさじを投げたくなることはありますが。

悠太と光太を見たら、よく分かるのですが、ほんとに普通の子どもと一緒。毎日が楽しそうで、「かわいそう」なんて言葉を捜しても見つけることはできません。
笑って、泣いて、遊んで、抱っこして、チューして、また笑って・・・

障害児を、障害児扱いしないで欲しいのです。
「かわいそう」なんて簡単に言わないで欲しい。
悠太と光太は「かわいそうな子」なんかじゃない。
そして、私は「かわいそうな子」の親なんかじゃない。

区別しないで下さい。




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