自慢の息子

 悠太と光太。
「自慢の息子」という言葉が頭をよぎるようになったのはいつ頃からだろうか?

 療育センターの教室の中でも、群をぬいて「できないちゃん」の2人。おバカだけど、一番表情が豊かで、にこにこ、いい笑顔で楽しく遊ぶ2人を見るにつけ、誇らしくてたまらなくなる。
  大好物のクリームシチューを食べて、満面の笑顔で「おいしい!」と言ってくれる時。かわいくて、うれしくてたまらなくなる。
 日々、些細な「できたね」「えらかったね」が温かい気持ちをくれる。

 いつもニコニコ、人懐こく愛されキャラの光太。お父さんとお母さんだけに見せてくれる、安心しきった屈託のない笑顔の悠太。
 いい子に育ってくれているなあ、と思う。素直で、とても気立てがいい。
2人は自慢の息子たちだ。
だって、かわいいんだもの。

子どもたちには一歩ひいて、クールな視線で育ててきた私だが、不覚にも最近、「お前らはかわいいのう」と思うことが多くなった(夫ほど盲目的ではないが)。
ある日曜日の晩、みんなでのんびりテレビを見ていた。
すると、光太が何を思ったかくるりと夫と私のほうを振り向き、いきなりケタケタ笑いだした。もうこうなったら止まらない、笑い袋・光太。「こうちゃん!」と呼んでもケタケタ、調子に乗っておどけた顔で「ばーっ!」なんてしようものなら、腹をよじるように笑う。
夫も私もそんな光太に大笑い。
「こうちゃん、かわいすぎるっ!やめてくれ〜!」
 心とろかすような笑顔、というのはこのことか。あまりのかわいさに、すっかり骨抜き、白旗をあげてしまった。
 あまり「かわいい、かわいい」と夫の前では言いたくないのだけれど。
普段、「かわいくなーい!ブサイクー!」と公言する私だけに、「ほらね!悠ちゃん光ちゃん、かわいいでしょっ!」と鬼の首をとったように夫が言うのがムカつくのだ。

そんな「いい雰囲気」の我が家。
先日の療育センターの小児科の診察は落ち着いて受けることができた。
今まで、はっきりとしたことを言わない、責任逃れかしら?と思っていた主治医のT医師が、実はとても親の気持ちに気を遣ってくれる先生だと分かった。あいまいな表現をするのも、親がショックを受けないようにできるだけ心を配ってのことだったのだ。
T医師いわく、「自閉症」という言葉をつかっただけで、動揺して拒否反応を示す親御さんも多いということ。
「そうなんですか?」
動揺はするけれど、現実をしっかり受け止めたい私はちょっとびっくり。
「自閉症だろうが、うちの子はいい子ですよ。自慢の息子ですもん。」
そう、T医師に言おうとしたけれど、思い直してやめた。親バカ丸出しだもの。
私と夫がもはや自閉症云々で動じるわけもなく、T医師と率直な意見交換ができて満足だった。

悠太と光太は自慢の息子である。
ゆえに、夫の手のある休日はあっちこっちへ引っ張って外に出る。こ〜んなかわいい子と外出できるのがうれしくてたまらない。「もっとうちの子を見て!」ってな感じである。まあ、外でも奇声はあげるわ、奇怪な行動をとるわ、嫌でも注目をあびるのだけれど。



障害者福祉センターのプールに行くようになってびっくりしたことがある。それは障害者といわれる人たちの多さだ。障害者のための施設なので、たくさん障害者が集まるのはあたりまえなのだが・・・
視覚・聴覚障害者はもちろん、うちの子のような知的障害、肢体不自由の人たち、車椅子の人たち・・・ありとあらゆる障害を持った人たちがいる。
初めて見る光景だった。
「初めて見る」ということに、戦慄に似たものを感じた。
あらゆる障害を持つ人たちを、普段の街中で見かけないのはどうしてだろう?
街の構造的なもの、バリアフリーが依然として進まないというのももちろんだが、うちのように多動な子どもの背中を追い掛け回している親を見かけないのはどうしてだろう?確率的には、いつどこでかちあってもおかしくないはずなのだが・・・
やはり、健常者と障害者の住み分けは根強いのだと思うと悲しくなる。
障害を持つ人がすぐ隣にいて当たり前の社会はそんなに難しいのだろうか。

私も夫も、悠太と光太を人前に連れ出すのを臆することはない。もっと悠太と光太をいろんな人に見て欲しい。ちょっと変わった彼らを見た人が何と思おうと平気。見て欲しい、知って欲しい、自閉症という障害を。障害を持って、なおかつ生き生きとしてかわいいこの子たちを、もっともっと見せびらかしたい!

 悠太と光太は私と夫の自慢の息子だから・・・




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