<双子との生活・0歳代前半>
 悠太、光太との生活が始まった。と同時に穏やかな生活がすべて崩れ去ってしまう。
光太はよく泣いた。それに触発されるように悠太も泣き叫び続けた。抱っこしてもたえずどちらかが泣いている。
お昼寝も両方が同じ時間に寝てくれるわけではない。交互に寝て、起きてとされるともうお手上げだ。
夫は仕事が忙しく帰りが遅い。当時、事情を話し、どうにか都合をつけて夜9時ごろには帰宅できるようにしてもらっていたが、泣き続ける二人を両腕に抱っこして、夕方から何時間も身動きできないまま、ただただ夫の帰りを待った。

夜もなかなか寝付かない。
あんなにいい子だった悠太も、泣いて泣いて寝ようとしない。何度もミルクをあげ、抱っこし続けて、ようやく夜中の1時、2時に眠ってくれる。
ほっとするのもつかの間、またその2時間ぐらい後にはどちらかが起きて授乳しなければいけない。
当時、私は2時間以上続けて眠れることはなかった。30分、1時間、1時間半、
30分・・・こまぎれの睡眠時間を合わせて、1日の睡眠時間は3〜4時間ほどだった。
 寝ているのか起きているのか自分でもわからない。ただ、子供の泣き声が責めたてる。
朝一番でまわした洗濯物を干すことができるのはお昼をすぎてから。1日中パジャマのままで、顔を洗うことも、鏡を見る余裕もない。
 疲労はあっという間に蓄積されていった。

 眠ることができない、というのはこんなにも人間から理性を奪い、人格を破壊してしまうものなのか。
 絶えず泣き叫ぶ二人。
 当時、1日のほとんどを台所に近い4畳半の部屋にいたのだが、狭い部屋でずっと赤ちゃんの泣き声にせめたてられていると、神経はささくれだってくる。
今から思えば、悠太も光太も、ただ、「おっぱい飲んでねんねして・・・」の時期が過ぎ、泣きの時期に入っていただけのことだったのだろう。けれど、初めての育児でパニックになっていた私。
怒りは光太にむけられた。
「あんたが帰ってきたせいで、いい子だった悠太までおかしくなっちゃったじゃない!」

 私は育児ノイローゼになっていた。
 朝が来るのが怖い。夫がいなくなってしまう。子供が怖い。
それはたとえようもない恐怖だった。
どんなに夫に訴えても「しんどいけど頑張って」と危機的な状況をわかってもらえない。
 私の実母は体が弱かったし、夫の母も当時パートとはいえ仕事を持っていたので助けてもらえる人はいなかった。
 誰にも助けてもらえない。どんどん追い詰められていった。

 光太が帰ってきて3週間たったころ、とうとう夫に狂ったように訴えた。
もう、体力も精神的にも限界だ。どうしてわかってくれないのか、なぜ助けてくれないのか。
 その私の様子を見てようやく夫は腰をあげてくれた。
 とりあえず、一時、夫の実家に家族で身をよせることになった。

 夫の母は仕事があったので、すべてにおいて手伝ってもらえるというわけではなかったが、食事の心配をしなくていい、お風呂にも「いつ泣き出すか」とびくびくせずに入れるということが心底うれしかった。話をする相手がいるのも気がまぎれた。
 とはいえ、決して育児が楽になるわけではなかった。
 夫は、実家から車で高速道路を使って1時間半、または新幹線で通勤することになったのだが、仕事がどうしても片付かず帰宅できない日が多くなった。
 慣れない夫の実家での姑との同居生活に、違う心労もたまっていった。

 夫が休日のある日、子供をおいてふらっと家を出た。あてもなく夜道を歩き続けた。
 もう、死にたい。
頭の中はそれしかなかった。逃げ場のないつらさ。このつらさから解放されるには死ぬしかない。
 誰か、私を殺して。あのトラックが私を轢いてくれないかしら・・・

 あのときの私は限りなく「死」に近かった。
 ほんの少しの勇気があったら、私は、そばを通り過ぎていく車の前に身を投げ出しただろう。
だが、それさえもできなかった。私は1時間以上歩き続け、結局家へと戻った。
家では、夫が泣いている子供を懸命に抱っこしていた。
逃げられない、これが現実。

夫の実家には約3週間お世話になり、二人がうまれた病院での経後観察のための検診日にあわせて自宅に戻ってきた。一人でもなんとかやっていけるという気持ちになれたためだ。

この頃・生後4ヶ月目ぐらいから二人がミルクを遊び飲みするようになり、一人の授乳に30分以上かかるようになる。二人にミルクをあげていると1時間。まだ授乳は1日8回あったので二人で16回。それだけでも8時間労働だ。
二人同時に授乳する方法もあったのだが、私にはできなかった。

二人が退院してきてまもなく、同時授乳を試みたことがあった。一人をラックの上に寝かせて哺乳瓶をくわえさせ、もう一人を抱っこして飲ませてみた。
最初のうちはうまくいっていたのだが、突然ラックで飲んでいたほうがむせてしまったのだ。あわてて抱っこしていた子の授乳をやめて、むせてしまった子を抱き上げた。すると、いきなり下に置かれ、授乳をやめられてしまったことがショックだったのか、もう一人が火のついたように泣き出した。泣いて、泣いて、泣いて、そして、ひきつけを起こしたのだ。
「泣き入りひきつけ」といわれるものだったのだろう。
 あわてて抱っこして名前を呼んでも揺さぶっても顔面は硬直したまま。時間にしてみればほんの10秒たらずのことだったのだろう、けれどそのときの恐怖といったら。
「泣き入りひきつけ」は再度同時授乳を試みたときに同じように起こった。悠太、光太それぞれ1度ずつ。
それ以来、同時授乳をすることが怖くなってできなくなってしまった。

少しずつ楽になるよ、と周りからよくいわれたものだが、そんな実感は全くなかった。
次から次へと違うことが出てくる。その対応だけでも必死だ。
 外出も相変わらずできない。1日中パジャマのまま、鏡を見たり髪をとかす余裕のないのも変わらない。
 夫の帰りも遅くなっていた。

夫は仕事が忙しい。朝はまだ私が寝ているとき、6時40分すぎには家を出る。夜間の授乳で少しでも体を休ませておきたい私は夫を見送ることなどできない。帰宅はいつも深夜だった。
夫も仕事で疲れている。睡眠時間もただでさえ少ないのに、育児を手伝ってもらうことなどできなかった。
夫と一言も言葉を交わせない日々が続く。孤独感はつのる。
そのストレスは週末、夫のいるときに爆発する。言い争いは絶えなかった。パニックになり、泣き叫ぶ。そして、私は自傷行為をするようになってしまった。

このつらさから逃れるには子供を殺すか、自分が死ぬしかない。子供は殺せない。ならば自分が死ぬしか楽になる道はない。電気コードを首に巻きつけ、力いっぱい絞める。ふっと意識が遠のく。ああ、これで楽になれる。
もちろん、それぐらいでは死ぬことはできない。どこかで力の加減をしてしまうからだ。
自傷行為は夫のいるときに限られた。ふた月に1回ぐらいか。多いときでひと月に2回ぐらいだったろうか。子供が2歳になるぐらいまでは続いたように思う。
原因はいろいろあった。
今にも壊れてしまいそうな二つの小さな命を私ひとりで背負うには重すぎた。そして、たとえようのない孤独。「自分」の全くない生活。社会と切り離され、自分が価値のない存在、透明人間になったような錯覚。
夫に包丁をつきつけたことも何度もある。そこにあるのは、気が狂いかけている私の、ここまでさしせまった状況を理解しようとしない夫に対する憎しみだった。




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