消えた鍵事件の裏側


今回の一件は悠太・光太の成長もさることながら、夫の認識の甘さが際立った一件でもありました。
これまで、悠太・光太の父親として、私の夫として決してやってはいけない数々のNGを犯してきた夫。家族の危機、夫婦の危機を何年もかけて修復してきて、今があるのです。その積み上げてきたものがまた、崩れてしまったような感覚です。


責め立てる私に、「ゴメンナサイっ!」と謝る夫。
そのゴメンナサイには、例えて言うなら、汗、汗の絵文字付きの「お父さんったら、あわてんぼさん♪てへっ」という響きがありあり。これっぽっちも、自分のしでかしたことが分かっていないのです。
自分のしでかしたことで、どれだけ私に迷惑を、精神的苦痛を与えたか。
夫的には、「悪気があったわけじゃなし、無事に学校にも着いたんだし、お父さんだって大事な会議を欠席して迎えに来たんだから、いいでしょ」なわけです。


信じられない。
悠太・光太がパーフェクトに頑張ってくれたからいいようなものの、一つ狂えば、とんでもないことになっていたのです。
確かに悪気はなかったのでしょうよ。うっかり、だったのでしょうよ。でもそのうっかりは、悠太・光太の父親として許されることはできない「うっかり」です。


たとえば病院で、「うっかりして、ほかの患者さんの点滴をしちゃいました〜。ゴメンナサイっ。てへっ♪同姓同名だったから間違えちゃった」なんて、ただではすみません。「いっとき危篤状態になっちゃったけれど、まあどうにか容態も持ち直したし、良かった、良かった」なんてありえないですよね。
それと同じことです。


普通の子どもなら、「お父さんが間違って鍵を持って行っちゃったんだって。今日は学校行けないから、お休みしようね」もしくは「違うバスで行こうね」と説明すればいい、簡単なことです。
でも、それが悠太・光太には分からないのです。
どれだけ彼らに精神的負担をかけたことか。
それを想像したら、ヘラヘラ笑うことなんてできっこないはずです。夫の、想像力の欠如。耐えられません。
もし私が同じ過ちを犯してしまったら、自分のしたことに顔面蒼白、自己嫌悪で3日は立ち直れないでしょう。
なんで、笑ってるの?


夫は何も分かっていないのです。1対2で面倒を見るということを。それがどれだけ大変かということを。
そりゃそうです。夫が子どもと過ごすときは必ず私がいて、マンツーマンが可能なときだけですから。
でも、ちょっと考えたら分かるでしょうよ。


移動支援でヘルパーさんを利用するとき、最低限1対1です。利用者の状態によっては、利用者一人に対してヘルパーさんが二人、三人とつくことだってあります。すべては安全面の配慮。咄嗟の出来事に対応するためです。
それを考えたとき、うちのように介助者一人、障害児二人の状況がどれだけ尋常でないか。


夫は、慣れっこになっているのです。
私一人が日中面倒をみて、自分が「ただいま〜」と帰ってきたときに、悠太・光太が無事でいてくれることを。それが当たり前だと思っているのです。
決して当たり前なんかじゃない。私が朝も夕方も、安全第一に配慮して世話をしているから、あの子たちが無事でいるのです。



最近ことあるごとに、夫とのジェネレーションギャップを感じます。
私は昭和46年生まれ、夫は51年生まれ。
私は、「もっと頑張れ、さらに上を目指せ、もっと、もっと」と言われて育ちました。でもそれは、裏を返せば「今のままの自分ではダメだ」という強烈な否定のメッセージでもありました。
大人になった今でも自己評価は低く、自分を追い詰めて辛いこともありますが、、家事も子どもの世話も、できる範囲で最善の状態にしたいと努力しています。自分に厳しく、他人にも厳しく。


片や夫は世代的にも育ち方も、否定されることなく、はなからその存在を肯定されて育ったタイプ。
彼本来の性格もあるのでしょうが、とにかく、ゆるい。ギラギラした向上心など微塵もない、そこそこの状態で幸せを感じることができる人です。
それはそれで長所とも言えなくないのでしょうが、自分自身に対して、私から見れば信じられないくらい甘い。反省がない。反省しても3歩歩けば忘れてしまう。


たとえばこんなふう。
子どもが学校からもって帰った汚れた服のチェックを頼みました。悠太・光太はそれはダイナミックに砂場で遊ぶ子どもなので、ズボンのポケットにはたんまりと砂が入っています。それをしっかり払ってから、洗濯機に入れなければいけません。それは夫もよく知っていることです。


しかし洗濯後、二人のズボンからは音をたてて砂が落ちてきました。
夫は、「ちゃんと払ったんだけどねえ・・・」
どこが「ちゃんとやった」んだ?ちゃんとやったのなら、今こんなにポケットから砂が出てくるか?
それでも夫は「やった」と主張。結局、「砂くらい、どーでもいいじゃん」なわけです。
けどそれって、依頼された仕事の書類を、ミスだらけのまま「やりました!」と自信満々に提出することと一緒でしょ。許されないことでしょうよ。
なんでこんなに自分に甘いんだろう。


今回の鍵事件にしたって、私に本気で許しを請う前に、自分で自分を許していましたから。「いやー、やっちゃったよ、わっはっはっは」みたいな(そこまであからさまではなかったですが、限りなくそんな雰囲気に近い)。
それは違うでしょう?だから、言いました。本気で謝ってくれ、と。


いくら根にもつタイプの私だって、本気で謝る人をしつこく罵ったりしません。それなのに、夫には罪の意識があまりにも薄い。だからいつまでたっても、どれだけのことを夫がしでかしたのかをこんこんと説明しなければいけないし、罵倒しなければ私の怒りは伝わらないのです。


もし、「ゴメンナサイっ」と罪の意識のかけらもなく、口先だけで謝った夫を「もういいから」と許してしまったら、「そうだよね、もういいよね、はい、おしまい」と反省することなく、同じような過ちをまた繰り返すでしょう。そういう人です。
自分は「いい人」だという、尊大な自信がある。こんなにいい人の自分が、他人に迷惑をかけるなんてあるわけない、と思っている。
そんな自信、どこからくるのか。


結婚して8年。
結婚する前は、夫と喧嘩するなんてありえない、と思っていました。この人と結婚すれば、穏やかな日々が待っているのだろうと。恋人時代の思い込みというのは、すごいですねえ。
外から私たち夫婦を見ていると、恐妻と虐げられている夫に見えるのでしょうが、被害者は私だと常々思うのです。どうして、あんなに愛した人をこうやって罵倒しなければいけないのか。それも「のれんに腕押し」。
私のほうがかわいそうです。


 今回の一件のちょうど一週間後が私たちの結婚8周年、結婚記念日でした。
 はからずも、「よい夫婦の日」。
 以前はこんな語呂合わせなんてなかったんですけどねえ。11月2日の「いい夫婦の日」ってのはちょっと前からありましたが。
 それはいいとして。

 
 まあ、あんなことのあった後ですから、とてもラブラブでお祝い、なんて気にはなれませんでした。
 それでも、記念日の3日前にはアメリカ在住の私の友達から、恒例のハッピーアニバーサリーカードが届き、夫もそれを手にしていました。
 

当日はそれなりにご馳走を準備して夫の帰りを待ちました。
 その夫、なんと手ぶらで帰ってきやがったのです。ミニブーケや気の利いたスウィーツすら無し。
はあああああ。
あんなことのあったすぐ後。ちょっとしたプレゼントを差し出し、許しを請う格好のチャンスでしょうがよ。
それどころか、テーブルの上に並ぶご馳走を見ても、ただニッコリするだけ。ロゼのスパークリングワインを見ても「へー、すごーい」。
 今日はなにごと?
 なにごと??????
 たーっぷり5秒以上間があり・・・「今日は結婚記念日!」びっくり仰天!
 夫は本気で忘れていたのです・・・だめだ、こりゃ。

 
 夫はことごとく、こういうチャンスを無にする人です。
 ジュエリーなんて贅沢なことは言わない、妻のご機嫌取りなんて、300円のプリン一個でも、380円のミニブーケでも、180円のシュークリームでもどーにでもなる、超簡単なことなのに、なんでそれをしないのだろう?
 こうやってまた呆れられ、株を落すことになるというのにねえ。


 全然、大事にされてない。
夫婦円満の秘訣は、自分の忍耐だと本気で信じている夫。冗談じゃない!こんな不当な扱いをされて、私だって耐えてるんだ!
やっぱり、私ってかわいそうだなあ・・・
 



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