消えた鍵事件


 いつもの朝。
いつものように登校準備を済ませ、靴を履き、ウインドブレーカーを着せ、ランドセルを背負い、「さあ、今日も元気に行ってきまーす!」と玄関を出ようとしたところで、はたと気が付きました。
ない!車の鍵がない!!


一気に顔から血の気が引きます。
そして、頭の中は真っ白。確かに昨日帰ってきたときに、ここに、玄関の靴箱の上のお皿に置いたのに、そしてそれはもう何年も変わらない習慣で、靴箱の上にないということはありえないのに、なんで?


それでも、万が一どこか違う場所へ置いたのかと部屋へ引き返し、カウンターの上を見たり、カバンの中をひっくり返したり、上着のポケットを確認したりしました。
けど、ないのです。
当然です。前日、最後に車の鍵を使った悠太・光太のお迎えのときは、カバンも持っていなかったし、暑かったので上着も着ませんでした。


とりあえず、スクールバスには間に合わないので、バスに連絡。
悠太・光太がいたずらして、どこかへ持っていってしまったのか?いやでも、今まで悠太・光太は鍵に興味を持ったことはありません。それでも、まさか、もしかして、と部屋中をひっくり返しましたが、ない。


 ない、ない、ない。
 そこに確かにあったはずのものが、ない。どうすればいいのか。
 何が恐ろしいといって、悠太・光太にどう説明すればいいのか。

 
 言葉の分からない、予定変更の苦手な自閉っ子です。ランドセルを背負い、行く気まんまんの彼らに「車の鍵がないから、学校に行けない」なんて、理由が伝わらないうえいに、どんな恐ろしい事態を招くか!


 その恐怖と、あったはずのものがない、理解不能で、とうとう私の脳もパンクして、久しぶりにパニックを起こしてしまいました。半狂乱。


 どうしても、どうしても、学校に行きたいのです。行かせたいのです。
 その日は、ぎょう虫検査と尿検査の提出日に当たっていました。もし、何もない日だったら、子どもが大荒れになるのを覚悟で、学校を休ませていたかもしれません。
 でも、あの子たち二人分のぎょう虫検査や尿検査、忙しい朝にそれなりに手間がかかっています。
たとえこの日提出できなくても、一ヵ月後に二次提出日は設けてあり問題はないのですが、あの手間を思うと、せっかく準備万端整えたものを、むざむざゴミ箱に捨てる気には到底なれませんでした。


でも、車の鍵がない。どうして?
一つ考えられるのは、夫が誤って持って行ってしまったこと。
けど、それこそありえません。なにせ、私の車の鍵にはジャラジャラしたキーホルダーがついています。
夫はいつも一つのキーホルダーに家の鍵と車の鍵をつけていますから、それに加えて、私のジャラジャラ・キーホルダーの付いた車の鍵など。


どうしても、学校に行かせたい。それも、業者が尿検査やぎょう虫検査を回収してしまう前に。タイムリミットは11時ごろか。


もうこうなったら、車のスペアキーを持っている夫に帰ってきてもらうしかありません。
8時半過ぎ。会社の始業直後です。非常識は分かっています。でもこっちだって非常事態なのです。悠太・光太は今、このときも玄関でランドセルを背負ったまま、無言で待っているのです。(「まだかー、まだかー」とギャーギャー言われるのもイラつくけれど、この無言がどれだけ恐ろしいか!)


始業直後、さすがに夫の携帯電話にはつながりません。8時40分過ぎ、ようやく電話がつながり、パニック状態のまま、車の鍵がどうしても見つからないから帰ってきてくれ、と泣き泣き夫に訴えます。どうしても、どうしても、学校に行かせたいのだと。
そして、まさかの思いで、私の鍵を持っていっていないか尋ねました。
「うーん、もって行ってないよぉ」そりゃあそうだろうと思いつつも、お願いだから確認してくれ、と頼みました。
「分かったよ。見てみるよ」


 そして3分後。
 「あった・・・お父さんが持っていってた」


 なんだってーーーーー!!!
 怒りのマグマは最大級の噴火。
 問答無用。帰って来い。今すぐ、タクシー飛ばして帰って来い!!
 「分かったよ・・・どうにか、仕事調整つけてみる」


 さらに数分後。間延びした声で、
 「午前中、どうしてもお父さんが出なきゃいけない会議があってぇ、午後からならどうにか・・・」
 この期に及んで、まだ事の重大さを理解していないのか、こいつは!ああもう、信じられない。
 「あんたのミスでしょ、責任とれ!どうにかして帰って来い!」


 怒りに腸は煮えくり返りつつも、鍵が見つかった安堵もあり、とりあえず次の手段をめまぐるしく考えていました。
 夫がどんなに急いで帰ってきても、1時間以上、へたすれば2時間かかるかもしれない。それじゃあ、タクシーを呼んで、タクシーで学校へ行こうか?いや、無理。一体いくらお金がかかることか(私もこの期に及んでお金をケチるか)。


 学校がある団地行きの路線バスがあることを思い出しました。自立登下校のできる高等部のお兄さん、お姉さんたちはこの路線バスを利用しています。
 バスで行くか?バスで行くとしても、一体いくらかかるんだ?(ここでも心配はお金のこと。)
 あ、バスカード!
 市から支給された障害者用のバスカードがあるはず!普段の移動は家の車ばかりなので、未使用のままです。
 確か、ここらへんに収めてあるはず・・・あった!「いきいき乗車券・障害者専用」!
(センスのないネーミングですねえ・・・)

 今考えられる一番の手段は、路線バスで行くこと。
 けど、悠太・光太は路線バスを利用したことはありません。
家から最寄のバス停までは徒歩3分ほどですが、バス通りは片側一車線、歩道もない(申し訳に白線を引いてある程度)、そのうえ交通量の多い旧国道です。その道のりを二人を連れて歩くのは危険極まりありません。二人と手をつなぐと、一人が必ず車道側になるのはもちろん、もし、その道で一人がしゃがみこんで動かなくなってしまったら。その一人を待てなくて、もう一人が手を振り払って一人で歩いていってしまったら。
とてもじゃないけれど、無事に徒歩3分のバス停まで行ける自信はなく、スクールバスは、あえて車で移動してコンビニの駐車場に駐車できる二つ先のバス停を選んだのです。


さらに、悠太・光太は家から一歩出たら、必ず車に乗る、という決まりにしています。
光太が3歳のとき、ちょっと目を離したすきに行方不明になり、用水路で遊んでいたところを保護、警察のお世話になったことがありました。
それ以来、散歩することはもちろん、それが子どもとしてどんなに不自然なことであろうとも、家の周りで遊ばせたことはありません。
言葉のわからない、目の離せない自閉っ子。何よりも安全確保が第一です。
1対2だと、どんなに気をつけていても、目を離してしまう瞬間があります。その一瞬が怖いのです。


だから、家から出たら、とにかく車に乗る。
4年間続けてきた習慣です。果たして、悠太・光太が歩調を合わせて(ここ、大事!)バス停まで歩いてくれるのか。
それを思ったら、徒歩3分の道のりがとてつもなく遠いものに思えてきました。
けど、ぎょう虫検査、尿検査を時間までに提出するには(これは私が譲れないところなのだから)、行くしかありません。


咄嗟の事態に対応するため、荷物は最小限に。自分のカバン・財布は持たず、携帯電話とバスカード一枚をGパンのポケットにつっこみ、出発です。
さっき、家を出ようとしてから30分近くたっていました。その間、悠太・光太は玄関でランドセルを背負ったまま、パニックを起こした私の叫び声も聞こえて不安だったろうに、じっと待っていてくれたのです。


家を出ると、いつものようにさっと車まで駆け寄る悠太。
とりあえず私は光太と手をつなぎ、悠太に「今日は車に乗らないよ。こっち、こっち。おいで」と手招きします。
そこで、「なんで乗らんのんじゃ。ギャーっ!」とならないだけ、立派。「え、なんで?」と?マークを10個ぐらいつけた顔で、ゆっくり手招きに応じ、歩いてきてくれました。
「はい、おいで、おいで〜」
私と光太の後ろから、複雑な顔でトコトコついてくる悠太。光太はもはや、さっきからの尋常でない事態を察してか、逆らう気配すら見せません。「なんか、ヘン。お母さんがやばい。言うこと聞かなきゃ」って感じだったんでしょうねえ。


バス通りからは二人の手をつなぎ、どうにかこうにかバス停に到着。
さーて、T団地行きのバスは・・・とバス停に張ってある時刻表を見て、またもや地獄に突き落とされた私。
このバス通りは、いろんな行き先のバスが2分〜5分間隔で、時には3台連なってきたりすることもあるほどなのですが、私たちが行きたいT団地行きのバスは1時間に1本とか2本しかないのです。
8時台のバスは8時53分、その次が9時38分!?
そして現在時刻、8時58分・・・(涙)
どうしよう。いや、路線バスだもの。少々遅れたりするものね。きっと、その遅れたのがもうすぐ来るわよ!


そんな期待を込め、待つこと10分。その間、一体何本のバスが目の前を通り過ぎていったことでしょう。もはや絶望的。いつ来るか分からないバスを、二人を連れて待つのが、しんどくなってきました。
悠太・光太も、なぜここでじっとしていなきゃいけないのか、分からないはずです。
9時38分のバスまであと20分、もしくはそれ以上このままじっとここでバスを待つのか、いったん家に帰って出直すか、いやでもそれは無理。かといって流しのタクシーなんて皆無だし・・・


そのとき、定刻より15分以上遅れて、T団地行きのバスがやってきたのです!
地獄に仏!
なんじゃい、時刻表なんてあてにならないじゃないか、と思いつつも、「乗りますっ、乗りますーっ!」とバスに大きく手を振ります。
座り込んでいた悠太を「バスに乗るよっ!」と立たせ、「はい、乗って、乗って!」


スクールバスの車体の色は真っ白。路線バスはオレンジ色。まったく違います。さすがに悠太・光太も、「へっ?これに乗るの?」と振り向き、私の顔を見て確認します。
「そうそう。今日はこれに乗るの。お母さんも一緒に乗るから、いいから乗って、乗って。えーと、私はバスカードを通して・・・あれ?挿入口はどこだ?」
路線バスなんて私だってめったに乗りませんから。


ラッシュの終わった時間、車内はすいていました。
車窓を眺める光太。一切の感情を封印、なるようになれ、といった表情。一方悠太は時折、通路を挟んでななめ後ろに座った私のほうを振り向き、「これでいいんだよね」と不安をにじませつつニコッと笑いかけます。
スクールバスには私は乗りませんから、お母さんが一緒にバスに乗っていることが不思議なようです。


途中からスクールバスでは通らない、知らない道を通ります。その頃から、「いっあっうっあっ、うっあ〜あ、うっあ〜あ」と、小声ではあるものの、光太のつぶやきが始まってしまいました。けど、こればかりは黙らせるのは無理・・・乗客の皆さん(数人だったけれど)、ごめんなさい、です。


バスは順調に、学校のあるT団地に入っていきました。
運転手さんに、「養護学校に一番近いバス停はどこですか?」と尋ねると、若い運転手さんだったのですが、首をうーんとかしげ、自信なさげに「A高校前?」
えええっ、ほんとですかぁ〜?頼みますよー(涙)


バスはA高校前に到着。ここだ、ここだ!運転手さん、当たってました。
「ほらっ、悠ちゃん、光ちゃん、降りるよっ!」
えーと、バスカードはどこに入れればいいんだ?と再びあたふた。なおも座り続ける光太をせきたてていると、あまりにもテンパッていた私が心配になったのか、出口近くに座っていた、団地の住人らしき50代くらいの男性が、「学校の場所は分かりますか?」と声をかけてくださいました。
その声かけがどんなにうれしかったか。


バスを降りると、もう学校は目の前です。
意気揚々と歩いて校門を入ると・・・悠太、やっと気付いて固まりました。
「どこへ行くのかと思ったら、学校じゃないかああっ!」
だから、ほら、ランドセル背負っていたでしょうに(笑)。


納得いかないっ!といった顔の悠太。
なんとか校舎に入ったものの、靴を脱ぎ、上履きに履き替えたところで、突っ伏して号泣し始めてまいました。
その間に光太は、「オレ、もう行くから」と一人でさっさと教室へ向かって行ってしまいました。光太のことだから、よそへ行くこともないでしょう。


なんとかなだめすかし、悠太をおんぶして教室へ。
かなり長い間気持ちの切り替えがつかず、悠太は泣き続けました。
その後も悠太は、「お母さん、いてねっ!帰っちゃだめよっ!」とべったり・・・
帰りませんよ、お母さんは。
なんてったって、学校から帰る方法がないですからね。お財布は持たず、バスカードも障害者専用のもの。介助者としては利用できますが、私一人では使えません。
夫に車で学校まで迎えに来させることにしました。


学校まではなんとか路線バスで来ることができたけど、やはり車がないと帰りが困るのです。スクールバスのバス停から家まではやはり車がないと不可能です。(ちなみに、乗車・降車のバス停の変更はできません。変更を申請しても、許可されるまで1年近くかかるのだとか)


結局夫は電車で家まで帰り、その足で学校へやってきました。ヘラヘラ笑いながら、「バス乗ったん?すごいねえ」って、誰のせいじゃと思っとるんじゃい!
そもそもどうやったら、自分の家の鍵・車の鍵のに加え、私のジャラジャラ・キーホルダー付きの車の鍵を「無意識に」持っていけるのか。
無意識だったそうですよ。無意識。理解不可能です。
当然夫は私にこってりしぼられ、ただでさえ少ないお小遣いの中から、1000円のパスタランチをおごらされることとなったのでした。


帰宅すると家は当然朝出たときのまま。部屋中ひっかきまわして鍵を探しましたから、嵐が通り過ぎたようです。
私は、もう精神的にグッタリ。朝のパニックから、子どもを連れて初めての路線バス、極度の緊張で限界でした。
私は二階で休み、当然夫がごちゃごちゃの部屋を片付け、掃除します。


子どものお迎え時間が近くなり一階に下りてみると、すっきりと部屋は片付いて、ピカピカになっていました。
さすがに、ちょっとは反省したみたい。一時も休まず家のいろんなところを掃除していたらしいのです。




それにしても、悠太も光太もすごい!
路線バスで学校へ行くなんて初めての冒険だったのに、本当にいい子でした。
光太なんて、1年前は「初めての道、怖い」って一歩も歩かない子だったんですよ。
さすがに悠太は、その翌日からちょっと体調を崩してしまいましたが・・・新学期の疲れや、ちょっとした変化、いろんなことが細々と重なって、疲れが出たんでしょうね。


その悠太、光太に続いて上の前歯が抜け、今や歯抜けブラザーズとなっています。
悠太はさらにムチムチに・・・最近では人相までも変わり、いろんな人から指摘を受けるようになりました。
「ぽっちゃりしたね」「顔が変わってきたね」はとっても優しい表現。一番面白かったのが、担任の先生から聞いたのですが、3年生の先生が悠太とすれ違いざま、「あれっ?ほっぺが、ほっぺが!」と絶句されたとか。


片や光太は食欲があまりなく、痩せ細る一方(元気なんですけどね)・・・
こんなに二人の体格が違ってその差は歴然なのに、
「最近、やっと悠太くんと光太くんの見分けがつくようになったんですよ!えーと、さっき歩いていったのは悠太くんですよね(自信満々!)」
「いえ、光太です」と、どうやったら間違うんだろう?みたいな先生もいらっしゃったりもしますが・・・(笑)




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