おバカじゃないもん


 まわりの子どもたちが、伸びている。
 身長の話ではなくて(身長なら悠太・光太も負けないんだけど)。
 言葉が出るようになった、着替えが一人でできるようになった、ボタンを留められるようになった、なんて話を聞く。

  親しい友人の子どもの、そんな成長を「うわ〜、すごいね。よかったね!」と心からうれしいと思う。嘘偽りのない、正直な気持ち。
 けど、その一方でため息が出る。
 うわ、なんで?ほんの1、2年前はうちの子と似たようなもんだったじゃん。
 あーあ。なんでうちの子はこんなにおバカなんだろう・・・

 分かっている。悠太と光太だって、それなりに伸びている。それなりに。
 あー、そういや、年中さんになってから、二人とも帽子がかぶれるようになったっけ。
いつも、園児が園庭で遊ぶときにかぶる帽子。この帽子をかぶると、大好きな園庭に出ることができるらしい!と気付いた二人、お部屋でほかの遊びや活動をしているときでも、「ボクはお外行きます!」と帽子をかぶってアピールしていたりする。
いやいや、今はお外と違うから。
悠太と光太、クラスは違うのに、なんで二人とも同じことしているのよ。
はぁ。

 伸びている子は、大概にして手先が器用らしい。「手先を使う」ということと発達とは密接な関係があるというのはこのこと。
 言葉が出てきたという子も、この1、2年の変化に「工作が好きになった」と言っていたっけ。
 は〜。悠太・光太、アウトじゃん。
 うちの二人、ひも付きのハンドタオルをフックにかけることすらできないってのに。
スプーンもフォークも使えないのに。

 そうそう、以前は悠太、園ではスプーンを使って食べていたってのに、最近はスプーン放棄だそうですよ。まあ、仕方ないか、家では手づかみさせているからなあ・・・
 けど、進歩どころか退化じゃないかー!
 ううう。手づかみ食べなんて、園でもごく少数、っていうか、うちの子くらい?み〜んな上手にスプーンやフォーク使っているというのに。

 悠太・光太と毎日接していると、悠太と光太が私の中の「一般の子どもの基準」になってしまう。で、一歩外に出るとカルチャーショックを受ける。
 なんで、ほかの子はスプーンで食べられるの?そっちのほうが不思議だったりするのって・・・ああ、やばい、何か違う、私。

 しかし、どうしてこうも悠太・光太はおバカなんだろう。
 おい、これ、見てわかるだろうっ!ってのがまったく分かっていないのだから。

 先日の光太の個別療育でのこと。
いろんな玉ころがしをして遊んでいた光太。ビー玉サイズの玉、ピンポン玉サイズの玉、それぞれに合った大きさの穴に入れるのだけれど、光太は「これ、絶対入らないってば!」と思うような小さな穴やコインしか入らない穴に、懸命に大きな玉を入れようとするのだ。
まったく、物の大きさとか、形の認識ができていない。
先生いわく、「そういった大きさや形の認識できる前の段階」なのだと。

こういう場面を目にするたび、もー、がっくり、全身の力が抜けるような脱力感に襲われる。情けないったらありゃしない。
「なんでこんなにバカなんかねえ?」といつも先生に愚痴る私。そのたびに先生は、
「もー、バカじゃないってば!」と笑ってたしなめてくれる。
先生のこの言葉が大好きなのだ。先生に、「バカじゃないってば」と言って欲しくて、ついつい「バカじゃ、バカじゃ」と言ってしまう。

まあ、「なんでこんなにバカなんかねえ」と聞かれて、先生も「ほんまじゃねえ」とは言えないよなあ。
というのは冗談で、先生は本当に、こいつらのことをおバカだとは微塵たりとも思っていないのだ。もちろん、それぞれの子どもに沿った丁寧なかかわりや配慮をしてくれる。けどその前に、ただの一人の子どもとして(障害児うんぬんでなく)見てくれる、扱ってくれる。それが、親にとって一番うれしい。

 悠太・光太をおバカだと憤るのは私だけ。孤独なのだ。
 夫に「なんでこいつら、こんなにバカなんかねえ」と言っても、夫は「いいじゃん、かわいいんだから〜」とニコニコ。この、バカ親め。
 じじ・ばばたちも、孫がかわいいばかりで、「元気で大きくなってくれればそれでいい」と目を細める。
 
 園の先生ときては、懇談のたびに、これでもか!というくらい、悠太・光太の「伸びたところ」を挙げ連ねて「すごいでしょう!」と褒めまくる。ダメだしされたことがない。どこからそんなに褒めるところを見つけてくることができるのか、不思議でならないのだけれど。
 うちの園の先生たち、「よかった探し選手権・団体戦」なんてのがあったら、圧倒的優勝だろうなあ。

きっと、恵まれた状況なんだろうな。私にとっても、子どもにとっても。


ああ、こいつらとの生活、疲れる。
ため息をつきながら新聞を広げる私に、光太がぐいぐい頭を押し付けて、すぽん、と腕の中に入り込んで私を見上げ、にこっと笑う。
くううっ。かわいいじゃねえかっ。
あんた、これで一生やっていけるよなあ。
まあ、いいか、おバカちゃんでも。


 昨夜の出来事。
 子どもの夕食を終え、私が夕食を食べているその背後で、「んっ、んっ、んっ」と悠太の声。
 はて、なんじゃろか、と振り向いてびっくり。悠太が自分で紙パンツをはこうと頑張っていたのだ。
 その格好が笑えるのなんの。
 片足の足首まで紙パンツを通し、立ったまま、その足をバレリーナように上げて、その体勢のまま、懸命に紙パンツを引き上げようとしていたのだ。
 そ〜んな格好ではけるかいな。

 悠太は(光太も)手先が不器用なので、誰かに足先を通してもらったパンツやズボンを引き上げることはできても、パンツやズボンの穴に足を入れることができない。ウエスト部分を両手で持ち、穴を見て、そこに足を入れる、その一連の動作ができないのだ。
 だから着替えも、協力動作はあっても、ほぼ着せ替え人形状態。

 そんな悠太。
 このとき、開放感を求めて紙パンツを脱いでうろうろしていたのはいいけれど、うんちしたくなっちゃったみたい。紙パンツでないと、うんちもおしっこもできない悠太。困った!
 ここでいつもなら、すかさず「お母さん、パンツはかせて〜」と頼みにくるのに。

 ここ最近、悠太のその要求が微妙に変わってきていたところ。
 以前の「パンツはかせて〜」は、なぜか、わざわざ部屋の外、廊下に買いだめして置いてあるパッケージごと、ずるずると部屋の中まで引きずってアピールしていた(すぐ近く、部屋の中にもあるのに)。
 最近は、パッケージごとでなく、袋の中から紙パンツを一枚取り出し、それを私のところまで持ってきて「はかせて」、と。
 それだけでも、「へ〜」と思っていたのに。

 1週間前のこと。
私の目が離れているときに、悠太はうんちをしたくなったらしい。私が部屋へ戻ってきてみると、なんとかして自分でパンツをはこうと足首までパンツを通して、でも、かかとのところで引っかかっていたのか、うまく引き上げられず固まっていた。
それでもびっくり。おおっ。お母さんがいないから、自分でなんとかしようと思ったんだー!すごいじゃん!えらいじゃん!

そんな経過があっての、この日である。
私が、母が目の前にいるのに、母に頼まず、最初から自分でなんとかしてみようとチャレンジしたのだ。

おしっこ・うんちはトイレでしろよとか、そんなことは今の悠太にとってはどうでもいいこと。
その格好が笑えるのもひとまず置いておいて。全然はけてないし。
でもなんで、お母さんに「はかせて」って頼まなかったの?
自分でやりたかったの?
自分で頑張ってみたかったんだね。
すごいぞ。えらいぞ、悠太!

きっと、のんびりで甘えん坊の悠太、どうせまだしばらくは「お母さん、はかせて〜」なんだろうけど。
初めて見せてくれた「ボク、自分でやるよ」、そのやる気に感動ひとしお。
そして、悠太の目の前にいたのに、初めて頼られなかった。なんだろう、ちょっと寂しい。
「はいはい、お母さんがやってあげるわよ」と手をかけることが当たり前だと思っていたのに。できない、できないと思っていたのに(実際できていないんだけど・笑)。

あー。この子たちも普通に成長するんだなあ。
普通の子どもが「自分で」「自分で」の時期があるように、悠太・光太にも「うーんと、自分でやってみようかな〜」という気持ちが出てくるんだ。
確かな芽生え。
全然、おバカじゃないじゃん。
ただ、ゆっくりなだけ。それも、気が遠くなるほど、ゆっくりなだけ。
待てばいいんだよね。ずいぶんと待つことには慣れたはずなんだけれど、もともと気が短い私。たまーに待ちくたびれて、くたびれて、へとへとにくたびれちゃう。

「おバカじゃないよね。ごめん」
「そーだよ。ボクたちだって、やるときはやるんだから!」
「ふうん。じゃ、いつやるの?」
「それは、ボクたちも知らない」
「・・・・」



育児なんか大キライ!目次へ
ホームへ