キレちゃった


 今週(9月26日から30日まで)悠太・光太は、まるまる1週間、母子通園なしの、単独登園となった。園のはからいによって、「母にお休みを!」ということになったのである。
 実は私、先週、母子通園で園にいるときに、キレちゃったのだ。
 原因は、やっぱり「食事」のこと(はー、またかよー)。

 しばらく、精神的に不安定な日が続いていた。
 今までこんなことはなかったのだが、何かをしているとき、たとえば料理をしているときなどに、ふと、不安でたまらなくなる。心臓が妙にドキドキして、「パニックになったらどうしよう」と、過去のパニックを起こした自分の姿が、フラッシュバックする。
 ああはなりたくない、と必死で気持ちを押さえ込む。
 いつ爆発してもおかしくない爆弾を抱え込んだ状態で、子供の世話をしていた。

 先週は、月曜日は敬老の日、祝日だった。
 当然、園はお休み。そして、夫は出勤(夫の会社は、祝日はお休みではなく、通常通りの出勤なのだ)。
 私一人で、まる1日悠太・光太に向き合わなくてはいけない。
 午前中はプールに連れて行き、そのときは喜んで楽しく遊べたものの、帰宅後は「疲れたー!」と大荒れ。
 すっかりお昼寝をしなくなった二人に、ずーっと振り回される。
 自分の中に抱え込んだ爆弾が、ついつい暴発しそうになる。

 火曜日は母子通園日。
 この日の悠太は、とにかく機嫌が悪かった。朝からずーっと、ぐずぐず、キーキー言って、おんぶをねだる。私の背中に張り付いて離れない。腰痛もちの私は、できるだけおんぶや抱っこは長時間しないように心がけているのだが、そうもいかない。
 朝の集いにも、遊びにも参加できない。ずっと、おんぶのまま。

 この日、悠太はお気に入りのプラレール図鑑を手にしていた。こだわりの一品、これを手にしていないと、不安定にさらに拍車がかかる。
 けど・・・男の子って、みんなこういうのが好き。クラスのお友達がかわるがわる、この悠太のプラレール図鑑を狙って、取り上げに来る。そのたびに、悠太は絶叫。

 お昼時。朝ご飯を食べていない悠太は、空腹も絶頂、イライラも絶頂。
 どうにか、なにか食べてくれ、と家から持ってきたカレーを、電子レンジで温める。その間すら待てない悠太。両手で耳をふさぎ(悠太の怒りのポーズ)、キーキー叫ぶ。 
「待ちなさいよ!温めないと、あんた、食べれないでしょ!」
 焦る。食べて欲しい。けど、タイミングを逃すと、食べてくれなくなるのだ。悠太が食べる気になったその瞬間に、適温の状態で食事を差し出されなければいけない。

 「おなかがすけば食べるよ」
 悠太を知らない他人はそう言うだろう。そして、電子レンジのタイマーのカウントダウンを鬼のような顔で睨み、まるで赤ちゃんに与えるように、一さじずつ口に含み、温度を確かめてから「ハイ、食べて!」と与える私を、滑稽に思うだろう。
 我ながら、自分のその姿があまりにも滑稽で、情けなくなる。
 けど、腹が減っているのに、食べるタイミングを逃して食べられない。そうして、空腹のあまりに荒れ狂う悠太の面倒を見るのは、私なのだから。

 以前にも書いたことがあるが、子供に食事を与える前は、胃が痛くなる。「食べてくれるか、食べてくれないか」と心臓がバクバクする。
 間が悪い私に怒って食べなかったら、食べてくれなかったら・・・
 子供の食事の時間は、苦痛でしかない。

 悠太は、椅子に座るのがイヤ。長テーブルの上に座って、耳をふさいだまま、みんなのご飯を見回している。早くしなきゃ、早く。
やっと温まったカレーを悠太の目の前に見せる。
「ご飯だよ、悠太の食べられるものだよ、食べようね。」
 カレーの乗ったスプーンを差し出すと・・・パクッ。食べてくれた!
次の瞬間、長テーブルの上に座っていた悠太が動いた。カシャーン!という音と共に、カレーの入ったお皿が床に落ち、中身は無残にもひっくり返ってしまった。

「あああああーーーっ!」
思わず、絶叫。
とうとう、数日前から抱え込んでいた爆弾が、爆発してしまった。
思わず、部屋を飛び出す。
せっかく温めたのに、せっかく温めたのに!
体ががたがた震え、汗が滝のように流れ始める。
でも、戻らなきゃ。私が食べさせなきゃ、私じゃなきゃ悠太は食べられない。

なんとか部屋に戻るが、体の震えはおさまらない。汗と、涙と、声にならないうめき声がもれる口元を、タオルで押さえつける。
そんな私を、先生が「大丈夫、大丈夫」と声をかけながら抱きしめてくれる。
悔しい。悔しい。悔しいよう。なんでこんな思いをしなきゃいけないの?
きっと、先生は私の気持ちを分かってくれていた。周りの、お母さんたちも。

とにかく、悠太に食べさせないと。私が、食べさせないと。
もう一度、冷めてしまったカレーを温める。震えはとまらない。ガチガチとスプーンが皿に当たる。ダラダラ流れる汗をぬぐいながら、口に含んで、温度を確かめて、悠太の口元に運ぶ。まさに、鬼のような形相で。
情けなさ過ぎる。なんて滑稽なんだろう。そんな自分を知りつつも、もう、人前だからと取り繕うことすらできない。

結局は、悠太は食べてくれた。それほど量は多くないけど、とりあえず満たされた悠太は落ち着いてくれた。
ああ、よかった。本当に、よかった。

けど、帰りの車の中では、泣けて泣けてしようがなかった。
どうして、こんな「当たり前」のことすらできないのか。
この子たちのことで、今まで一体どれくらいあきらめてきただろう。あれも、これも、あきらめて、あきらめて、でもまだあきらめ足りなくて。
当たり前のことができないから、障害児なのか?

口にするものの温度のこだわりがなかったら、いくら偏食だろうと、どれだけラクだろうかと思う。
冷蔵庫から出した牛乳をコップにそのまま注ぐだけでよかったら、どれだけラクだろう。悠太・光太など、何ccなら電子レンジで何秒、と決まっているのだ。ちなみに、100ccだと40秒。二人ぶんで、ただ牛乳をあげようとするだけで、約2分かかるのだ。
けどこれも、その日の気温、湿度、天候に左右されるので、それを見計らって、温める時間や量を調整する。まさに職人技。あほらしい。こんな面倒くさいお子様がいるだろうか?

毎日、毎日、手をつけられることなく捨てられる朝食。
「どうせ食べないんだから、食べないものとあきらめちゃえば」
そんなことを言われたことがある。「あきらめちゃえば、ラクになるよ〜」と。
あきらめることなんて、できっこない。100回のうち、1回でも食べることがあるかもしれないのだから。それがもし、今日だったら?もし、ちょっと小腹がすいて、子供が「食べたいな〜」と思っているときに、「どうせ食べないんでしょ」と私が朝食をつくらなかったら。
そう思うと、また、食べてくれない朝食をつくる。そして、捨てる。

あえて、何も感じないようにする。
「食べたくないんだから、仕方ないよね」
仕方ない、仕方ない、とあきらめる。
けど、三角コーナーに捨てられる、まだ温かい食事を見て、傷つかないはずはない。食べ物を粗末にすることが許せない、それ以上に、そこに捨てられているのは、私の気持ちなのだから。
「今日は食べてくれるかな?食べて欲しいな。おいしくつくったからね」
そんな、私のささやかな望みは、数分後、ゴミとなるのだ。虚しくないはずがないじゃないか。

そんな気持ちを、ごまかしてきた。平気なふりをして。ちっとも平気じゃないのにね。その結果が、これだもの。


木曜日は通常なら母子通園日なのだが、その週は、私の様子を心配した先生が、子供を預かるから、と単独通園を申し出てくださった。ありがたく、甘えさせてもらうことに。
けど、心配なのは悠太。私の介助なら食べられる可能性が高いのに、もし、食べられなかったら・・・
結局、悠太の昼食の介助のときだけ、園に行くことにした。
悠太の食事が終わったら、とっとと帰って、どこかでランチをする予定で。

園に着いて、建物に入ると・・・そこには、いつもお忙しくて、めったに姿を見ることのない園長先生が、ニコニコして待ち構えたように立っていた。
「おかあさ〜ん、一緒にごはん食べよう〜。話きくよ〜♪」

う、きた。どうしてこうも、私が精神的にピンチのときに、この先生は現れるかな。というか、「悠ちゃん・光ちゃんのお母さんが、どうもやばいらしい」という情報は、あっという間に伝わってしまうのだ、この園は。
もちろん、私にとって園長先生は天の助け。
けど、けど、今日の給食はしょぼいから、いやいや、あまり私の好みではないから、この後どこかでランチしようかな〜と思ってたんです・・・とは、言えないわな。
園長先生と面と向かって、二人だけでゆっくりお話できる機会もめったにないので、悠太にお昼を食べさせた後、一緒に給食をとった。

とりとめもない話をした後・・・思い切って、ずっとずっと抱えてきた疑問を、園長先生にぶつけてみた。
「この子たちの存在価値って、なんなんでしょう?」

我が子の存在価値を疑いながら、我が子を育てる母親というのも悲しい。けど、疑わずにはいられないのだ。
親は、いい。我が子なのだから、かわいい。それだけでいい。
けど、今のこの世の中、生産性や合理性ばかりが尊重されている世の中で、この子たちが生きる場所があるのだろうか。こんな考え方は悲しいのだけど、この子たちは、社会のお荷物でしかないんじゃないだろうか?
ただでさえ、自活が難しいこの子たち。みんなが納めた税金から捻出された、お手当てやら、この先、障害者年金を頂きながら生きていくのだ。
皆様からの施しによって、生かされている・・・そんな肩身の狭い思いが消えない。

そんな私の質問を、先生は一笑にふした。
「なに言ってんの〜!悠ちゃんや光ちゃんがいてくれないと、私たちご飯が食べられないのよ〜!」???
つまり、「悠太や光太のような子供がいなければ、K学園の経営が成り立たない=先生たちは食いっぱぐれる」ということ。
そりゃあ、そうだけどーーーーっ。うーん、そういうのじゃなくってー。
「そういうことですよ」と先生は笑う。「目に見えないところで、いろんな人が、そうやって悠ちゃん・光ちゃんの恩恵をこうむっている、かかわりあっているんです」
うーん、そういうもの、か。
なんとなく、無理やり、納得。
いいのかな。じゃあ、悠太と光太は、いても、いいのかな。

先生は続けた。
「こういう子は、光の子、って言われるんですよね」
私の言うところの、生産性や合理性ばかりの世の中にあって、その価値観にとらわれない存在。人の気持ちを、優しくさせる存在。
夫に、同じ質問(悠太・光太の価値ってなんだろう?)をしたとき、夫も同じようなことを言っていたのを思い出した。

「光の子」
その言葉は、まだ私の心には落ちてこないけれど(なにが光の子じゃ、おどりゃー!)、いつかそんなふうに、悠太・光太の存在を誇れるようになったらいい、と思う。
そう、願う。

粉遊びをする光太 同じく悠太
バカ殿悠太 お水でさっぱり




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