FY Nipponのお部屋へ 市松人形のお部屋へ
今から約75年まえ、昭和2年(1927)に
13,000人もの可愛い女の子達がそれぞれ
パスポート、ビザ、汽車の片道切符と親善のお手紙を携えて
1月、サイべりア丸で横浜に着きました。
日本各地で大歓迎をうけたこの可愛いお客さま達は
はるばる海を越えアメリカからの、お人形の親善大使でした。
「青い眼のお人形」。。。と漠然と私達が口にするお人形です。

まず、お人形がこんなにたくさんアメリカから送られた経緯は
余り知られていないようです。
私自身、横浜に5年も住んでいながら
「赤い靴」「青い目」「セルロイド」全てごちゃごちゃでしたから。
今年5月、20年ぶりに横浜行き、
念願の「横浜人形の家」へ行ってきました。
そこで手に入れた本、「青い目の人形にはじまる人形交流」は
多くの素晴らしい事実と発見を私に与えてくれました。

昭和2年頃というと、日本では第一次大戦後の反動恐慌
および、関東大震災により、経済不況が深まっていた時期です。
(そして、私の母が生まれた年でもあります)

大戦後はアメリカでも同じ状況で、多くの失業者を抱えていました。
そのような中、日本からの移民労働者が
低賃金で良く働くことから、反感、蔑視、文化的偏見が
人々の間に広まっていったということです。
(今でも、同じ状況は世界各国にあります)
1924年には、ついに日本人移民の排斥をねらいとした
「新移民法」がアメリカ議会で可決されました。
このような状況を憂えていた一部のアメリカの人達の中に
親日家の牧師さんでシドニー・ルイス・ギューリック博士
と言う方がいらっしゃいました。

博士はこの危機を、両国民相互の理解と親善で
良い方向へ持って行きたい。。。と考えたのでした。
そして、「平和と友情」の気持ちを
次代を担う子供達にこそ持ってもらいたいとの思いから
アメリカの善意の人々に呼びかけ、
ひな祭りと言う行事を持つ日本の子供達に宛てて
お人形を贈ることを思いつかれたのです。
この呼びかけに答えて協力を惜しまなかった人々は
全米48州で実に、260万人に及んだ。。。とのことです。
そして、送られたお人形の多くは
私のコンポジションドールのようなお人形でした。

フランス、ドイツで花開いたビスクドール文化は
アメリカ独自の、安価で壊れにくい合成物(コンポジション)を
用いた人形へと移り変わって行きます。
コンポジションドールは、大鋸屑やニカワ、土などを練り固め
型抜きして大量に作る。。。というお人形でした。
配合は各社さまざまで企業秘密であったとのことです。

さて、数多くあった製造元で、日本に送られたお人形のうち
(全国で残っているのは、現在わかっているだけで252ヶ所)
最も多く残っているのがMadame Hendren 社製のドールだそうで
私のヘンドレンちゃんと同じメーカーです。
昭和2年に、遠い日本へはるばるやって来た親善のお人形と
平成13年に私が出会ったヘンドレンちゃんは、姉妹なんですね。
ヘンドレンちゃんの方は、75年程遅れましたけど。来日が。

アメリカのオークションサイトでは当然の事ながら
コンポジションの数は多く、人気もあります。
ただ、このタイプのお人形の一番の問題点が
乾燥に極端に弱く、ひび割れや表面の剥がれが
どうしても避けられ無いという点で、
状態の良いものはなかなか見つけるのが難しい。

ヘンドレンちゃんはそれはそれは、惨めな状態でしたよ。
まず洋服、靴あるわけない。髪、ありません。
それどころか、頭は「ハンニバル」でした。
映画ごらんになりました?
なってない?じゃ、結構です。忘れてください。

ただ一つラッキーだったのは、表面の状態が割と良かったことでした。
背中には「ママー」と泣くように装置が埋め込まれています。
もう泣くことはありませんが。
(この泣き声が当時の日本の良い子達には驚異だったようです)
おめめはブルーのティンアイで眠り眼です。
(これがまた、市松しか知らない子供達にはびっくり。。。でした)
お顔、腕、足がコンポジションで胴体は布に詰め物がしてあり
典型的なコンポジションのママードールです。
が、
特別可愛い。。。と思うのは私の欲目でしょうか?
あまりにも種類があり、お顔もさまざまあると
これは。。。と思うものにはなかなか出会いません。
ヘンドレンちゃんは
あどけない2歳児。。。と言う感じがします。
ヨチヨチ歩きの。アメリカではトドラーといわれます。

お洋服はペールブルーのリネン。お帽子もおそろいです。
同じ色のレースで縁取りました。
靴は白の革製で靴下もつくりました。
あぶちゃんはパリで見つけたすずらんの刺繍のあるアンティーク。

あれほど大歓迎をうけたお人形達ですが、
第二次世界大戦中は、敵国の人形ということで
焼かれたり、壊されたり悲しい扱いをされました。
でもそれを生き延び、現在解っているだけで全国で
252体が大切に保存されています。青森は5体。
それは、いつの時代にも何が大切で、何が瑣末な事か
解っていた人達が居たことの証明です。

アメリカからのプレゼントのお返しに
日本からは58体の立派な答礼人形が贈られました。
第二次大戦中に、ノースカロライナ州の博物館に飾られていた
ミス香川(それぞれに県名がついていた)のかたわらに
つぎのような表示があったそうです。
「我々は日本の侵略阻止を決意しているが、
日本人全てを絶滅させようと思っているわけではない。平和と親善
そして人間同士が自由に生きると言う信念を捨ててはならない。
無情な支配者の手にある日本の人々にもこのような善意はある。
かつて、日米の子供達を通して交換されたこの人形は
それを証明するものである」。。。と。

Head Mark
A.M.(Averill Manufacturing)C Co
18inch(46cm)
もうひとつのコンポジションドールがこの子です。
メーカーはわかりません。
ヘッドマークがありませんから。
でもこのぐらい質の高いコンポジションはあまり多くはありません。
実際、アメリカのオークションサイトでたまにこの子と同じものがでると
必ず値が付きます。程度がかなり悪くても。。。です。
この子はすぐわかります。髪の毛に特徴がありますから。

私はお人形には名前をつけません。
何故?ときかれても答え様がありません。
でもたった一度だけ、私にも名前を持ったお人形がありました。

わたしが6歳のとき、両親と東京、日光、名古屋、奈良と
いま思えばすごい旅をしたことがありました。
きっと小学校へ入る前に世の中を見せてやろう。。。
と言う事だったのかもしれません。
私はしかし、写真でその事実をただ知るだけで
一つの事を除いて何も覚えていないのです。
一つの事、それは特別のお人形の事です。

彼女は東京の上野松坂屋にいました。
たった一体、椅子にすわって。
このミュージアムの表紙に書きましたが
私の覚えているお人形はそれまでは
セルロイドのちいさなものか、母が作った布のものでした。
初めて入った都会のデパートのそれは
最新の「ミルク飲み人形」と言うものでした。
(ああ、なつかしい!)
それまで物をだだをこねてねだった。。。と言う
事のなかった子供でした。
でもその一人、椅子にすわっている子は
6歳の眼にも特別だとわかりました。
欲しい、欲しい、欲しい!
大きな声では言いませんでしたが
私の気持ちは父に伝わったらしく
これは売り物でなく飾るためのもの。。。と
デパートが説明するのを、無理をいって
父は私に買ってくれたのでした。

田舎では勿論こんなすごいものは
誰も持っていません。
まりこちゃんと名前をつけて
おままごとに、遊びにいつも連れ歩きました。
が、
時は無常です。2年、3年と経つうち、見向きもしなくなりました。
第一、ミルクを飲ませるとすぐ下から出てくるのが
気に入りませんでした。不自然。
髪もモールドで、毛があるタイプではありませんでした。
ただその後、このコンポジションに出会うまで
ほかのどんな人形ともちがうものであったことは確かです。

大人になって、ある日ふと思い出して母に尋ねました。
「あのミルク飲み人形はどうした?」
母いわく、
「あれならもう要らないと思って、親戚のこにあげちゃったわ」
自分の勝手さを棚に上げるわけじゃないけど
要らないといった覚えはないんだけどな。。。
人にあげてもいい、と言った覚えも。。。(泣)
諦めました。
でも「ごめんね…忘れちゃってて」と反省しました。
お人形の話になると皆母親を恨んでいるようです。
大切な人形を、断りも無くあげた、捨てた。。。と。
でもほっといた自分が一番わるいんですよね。

私にも反省。。。があります。
正確には「主人に」ですが連帯責任ですから。
小さい頃、娘にはロバのぬいぐるみがあって
どの写真をみても手にしっかり握っているのです。
「おんまちゃん」とよんでいました。

すこし大きくなって
物を捨てるのが趣味のような主人は
袋に一杯のぬいぐるみ類を捨ててしまったようでした。
さあ大変、「おんまちゃん」は
ただのぬいぐるみではありませんでした。
人間以上、親以上?
同じものがもし今あれば、大学生ですが
私としては、買ってでも会わせてやりたい。。。と
思っているほどです。
それは人形に慰められることの多い
女の子の気持ちが解るから。

娘の「おんまちゃん」はもう
写真のなかでしか会うことが出来ません。
でも娘が母親になった時
この失敗は決してしないでしょう。
(まあ、パートナーにもよりますけど。。。)
まりこちゃんは、本当にこの子によく似ていました。
二度と会う事の無い彼女への
「ごめん」を込めてお洋服、帽子、靴下、靴を作りました。
ジャケットはスコットランド産のウールツイードです。
レースで飾りをつけました。
下にはベルベットのスカートとニットのブラウスを着ています。
アンバーの瞳がきれいでしょう?
私の友人の皆がこの子にひかれます。
ヘンドレンちゃんより表面の状態は悪いのです。
全体細かいひびわれ(crazing) や足にはそれよりひどい
クラッキングがおきています。
それでも。
なにか懐かしいのだそうです。

まりこちゃんは永遠に無くしてしまいました。
でも、いま私の部屋にはこの子がいます。
ビスクドールのように完璧な美。。。というわけでなく
何かほっとする暖かさのあるお人形です。
多くのアメリカの子供達に、普段使いのものとして
愛されたもののはずです。
娘のおんまちゃんの反省を込めて、
いまお子さんが大切に思っているお人形があれば
お母さんにとって汚かろうと、可愛くなかろうと
大切に取っておいて下さい。
大きくなってもしそれに再会できたなら
心に必ず暖かい気持ちが沸いてくるはずです。
幼い日々を共にすごしたお人形は大切な大切な、友達ですから。

Head Mark
None
24inch(61cm)
コンポジションのママードールが
アメリカのお人形1920年代代表だとすると
1930年代代表はこのテンプルちゃん人形でしょうか。
今の人は「テンプルちゃん」といえば
油かためる粉??。。。と言うぐらいのものでしょう。
でも本当は、当時不況下のアメリカで大統領が
不況を救ってくれた。。。とまで言ったというお子様タレントです。
1935年が最も活躍した年。。。ということですから
人形が盛んにつくられたのもその前後とおもわれます。

子役として人気が衰えてもこの時代の人気はもう
凄まじいものがあったようで、お人形のほうは
50年代版シャーリー、70年代版シャーリーと続くほどなのです。
ただ素材はどんどん時代とともに変わっていき
コンポーHP-ビニール。。。と言う具合です。
お顔も70年代ともなるともうニカニカしてしまって
現代版バービー状態なので、なんかなーと。

どの時代のシャーリーちゃんが可愛いかといえば
断然、コンポジションです。
ただ、繰り返しますが、状態はかなり厳しい。。。
ですから皆さんクラッキング、クレイジングがほとんど無いというと
ビスク並で取引しています。
私のシャーリーちゃんおみあしスラリ可愛い。
クレージングもほとんど無い。
でも。。。
問題ありです。
なにかって?どうもこの子は、当時さかんにつくられた
「シャーリーテンプルもどき」のようなのです。
トホホ。。。
そのわけは、
ほっぺにエクボがない!
ヘッドマークが USA 及び、13のみである。
あとは本当はテンプルちゃんのバッジついてるんだけど
それはどうでもいいんです、わたし。

でもお洋服がただものではないし、帽子も良いものです。
靴、靴下もとてもきちんとできている。
いったい、あなたは誰?
私はディーラーからこれはシャーリーだと言われ
ワンオウーナー(人の手に次から次へと渡っていない)
と言うことで購入しました。
大事にされていた物。。。というのは状態をみればわかります。

いいんです。かわいけりゃ。
あなたは永遠のミステリードールです。
媚びを売るような笑顔ではありません。
良い人形というのはボロボロでも
そこはかとなく気品があるものです
状態A+からD、E、Fぐらいまで見ていますが
いつもテンプルちゃんはテンプルちゃんです。
wannabeといわれるもどきちゃんの中でも
あなたはこれまで見たどのお人形より、気品あります。

コンポジションも、ハードプラスティック(HP)に
取って代わられる50年代がすぐそこに迫っています。

Head Mark
USA 13
14inch(36cm)
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  (Oct. 9, 2001)


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