とめどない独り言です





 お煮染め
たしかに、歳とともにし好も変化していくものだと、この頃つくづく思う。
突然隠居宣言した母に代わって、煮物を炊きはじめて1年半。
満足にはほど遠いが、だんだん面白くなってきた。
近くに親しく出入りしていた真宗のお寺がある。
あるとき、庫裏の台所でおばあさんが大鍋を出して煮物の準備をし始めていた。
あしたの報恩講の準備だった。
能登では、たいがいの家に、干したぜんまい、椎茸、海草。塩蔵のふき、わらびなど保存されている。
真宗の報恩講、お葬式のご膳、秋祭りの「よばれ」などには持ち寄って、乾物はじっくり時間をかけて戻し、
塩蔵ものは,一晩塩を抜いて大鍋で煮染める。
この煮物椀があって、ようやく料理全体が落ち着いてくる。
門徒でなくても食べに来てもいいというので、お箸代として、10円!を御膳に置いていただく。
お煮染めも、味噌煮した海藻も、味が濃すぎて決して美味しいというものではなかった。
けれども、思わずっ言葉に言い尽くせないほど胸が詰まってしまった。
そしてこの気持ちを伝えたが、「あんたらっちゃみたいな玄人さんに食べてもらうようなごっつおうではないわいね。」
冗談言うなと言わんばっかりに全くとりあってもくれなかった。
無心・・・このおばあさんの煮物の足下にもおよばないと思った。

 湯治場だったさか本
戦後、まだ能登の先っぽには、知ってる限りで四、五軒ほどの湯治場が残っていた。
どこも立地条件がすこぶる悪く、かろうじて生き残れたのは、さか本と、ランプの宿の二軒。
泉質の善し悪しというより、車が宿まで着けたかどうかの差だった。
ここは昔から、たんぼのあぜ道に湧いていた「くすり水」を、近郊の人たちが汲んで持ち帰っていたが、
やがて大工が本業の元の地主さんが、小学校の物置を移築して湯を沸かし始めた。
その頃は、軽い怪我や病気はたいてい湯治場で療養しながら治すような時代だった。
もう60年近く前、吹き出物がひどかった1歳の姉のために、父は家族全員を大八車にのせて
10km離れた漁師町から「ひろやの湯」とよばれていたこの場所に湯治に通ってきた。
  かつて金沢で宿屋をしていた祖母達は、能登にもどって母の実家に間借りし、父は母といっしょになっていた。
あまり実家の居心地が良くなかったのか、母さえもここに来るとほっとしたという。
そうして、祖母たちはまたふたたび山の中の宿屋を譲り受けて始めることになった。


 湯治場風景
小さかった頃、田植え上がりや雨が降って仕事にならない日などは、さか本はいつも湯治客でいっぱいだった。
バス停から1kmほどの細い田んぼ道を、みんな山裾に向かってぞろぞろ歩いてやってきた。
学校から帰ると、湯上がりの腰巻き一枚のおばちゃん達が、玄関先からトドが昼寝したように寝そべって涼んでいて、
いつもその間を縫うようにして、なんとかじぶんの部屋にたどりついていた。
おばちゃんたちは大概、おにぎりだけ持参するか、お米を華やかな信玄袋に1升ばかり入れて持ってくる。
一部を炊いて、残りをお風呂代として宿に渡し、うどんか茶碗蒸しをおかずにお昼をとり、朝早くから夕方まで賑やかに、
のんびり過ごすのだった。
いうえお
かがや
>>物置(過去ログ)