とめどない独り言です
湯治場だったさか本
戦後、まだ能登の先端には、知ってる限りで四、五軒ほどの湯治場が残っていた。
どこも立地条件がすこぶる悪く、かろうじて生き残れたのは、さか本と、ランプの宿の二軒。
泉質の善し悪しというより、車が宿まで着けたかどうかの差だった。
ここは昔から、たんぼのあぜ道に湧いていた「くすり水」を、近郊の人たちが
持ち帰って湧かして使っていたが、やがて大工が本業の元の大家さんが、
小学校の物置を移築して湯を沸かし始めた。
その頃は、軽い怪我や病気は湯治場で療養しながら治すような時代だった。
もう70年近く前、吹き出物がひどかった1歳の姉のために、父は家族全員を
大八車にのせて7km離れた漁師町から「ひろやの湯」とよばれていた
この場所に湯治に通ってきた。
かつて金沢で宿屋をしていた祖母達は、能登にもどって母の実家に間借りし、
父は母といっしょになっていたが、あまり実家の居心地が良くなかったのか、
母さえもここに来るとほっとしたという。
そうして、祖母たちはまたふたたび山の中の湯治場を譲り受けて、
宿屋を始めることになった。
民宿だと思えば腹が立たない
さか本が、平成元年に古い旅館を壊して新たな建物の営業許可をもらいに行くと、
部屋数が足りないということで旅館としての許可が下りなかった。
当時、和倉温泉の巨大な旅館「加賀屋」さんの部分改築にかかわって
いた建築家の方との話し合いで「日本一小さい宿」を作ろうと決めた。
そして7部屋あった宿を3部屋にしてしまった。(旅館許可は4部屋から)
係の方に「じゃあ民宿の営業許可ということで」と言われて
「うちは片手間で宿屋をやるつもりはない」と言うと、困ってしまわれ、
結局は「簡易宿所」というジャンルに落ち着いた。(ただし肩書きは湯宿で)
先日、憧れていた「古道具坂田」さんが見え、そのあとにお礼状をいただいた。
その中に「民宿や民芸という言葉は本来は素晴らしい言葉なのに、いつのまにやらいろんなものがくっついたり、転用され、今はなんだか少し悲しい言葉になって
しまいました。それを再度ゴミを取払い、磨きをかけて本来の姿にしましょう。
わたしも古道具という言葉を古美術や、骨董や、アートという言葉に負けない
本来の姿に戻してやりたい・・・」と。
さか本は、サービスはないし、仲居さんが和服でお出迎えすることもなく、
子どもらがお給仕をし、朝からニワトリが鳴いてうるさい。
その意味で「民宿」以下かもしれない(料金は旅館並みなのに)。
ネットのブログで「民宿だと思えば腹が立たない」と書かれてもしょうがない
ところだけれど、なんとか坂田さんの言われる『本来の民の宿』でありたい。
今、一番の宝物のお店
金沢に出るたびに必ず1度は寄る店が「ごはん家」さん。
ようこさん一人で、多分1日5〜60人分の定食を作っている。
仕込みも、片付けも、料理も全部一人でやってる。
メニューは850円の定食のみ。味も、安定感がある。
いっぱいお皿が並んでるわぁと思ってると、まだそのあとに揚げたてのものか
あったかい煮魚が付いてくる。
ある時、おかずが何皿あるんか数えてみると、お漬物も含めて9皿!
「こりゃ仕込みもやってたら〇時やろぉ〜?」とようこさんに言うと、
「たいがい家に帰るのが一時すぎやわ、手が遅いさかいしや。コロッケ仕込むと
3時になってまうわ。」・・・・と。
ただただすごいなぁと思う。