ごま粥


韓国全州の盛味堂(ソンミダン)食堂で食べたものをアレンジした。

洗い米1に対し、1/4の黒ごま、8の水を用意する。

7の水に(1はすり鉢のごまをゆるめるために)洗い米を入れ、はじめは強火にする。

噴かないように、途中からぽこぽこ程度に火を加減して15分ほど、9割方炊く。

黒ごまを素焼きのごま煎り器に入れて、弱めの火で6~7分間たえずゆすりながら煎る。

匂いを嗅ぐと、煎れたにおいに変化する(決して香ばしくない)。

すり鉢でしっとりと真っ黒になるまで摺り、1の水を入れて溶かし、九部通り仕上がった粥の中に

なるべくごまの香ばしさを飛ばさないように、時間のタイミングを逆算して入れる。

仕上げの塩は、ほんのかすかに感じられる程度に。



 狂うひと


どう言ったらいいのか、良くも悪しくも、計算ずくの領域を越えて、狂ってるって思えるもの作りの人には、めったに出会えない。

博多の美々というコーヒー屋さんは、まさにそんな中のひとりだ。

その一杯、一杯淹れる集中ぶりを見ていて、よくもまあ一日、体が続くものだなあと思う。

また、「職・商人」になりなさい・・・とアドバイスしてくれるある老建築家は

いい仕事していても、先が読めんかったら長続きしないだろう・・・と。

でも、その老建築家、一夜にして何百億という財産をなくして、正しく

狂った家を建て続けている、伊豆の蓬莱という宿のような・・・。

そして、こんなに楽しく狂っても許される世界があるんだということを、

二人が現実に示してくれている。



 おいしい話


実を言うと、インスタントラーメン、カップラーメンがたまらなくうまいと思う時がある。
飲んだ後の小腹の空いたときとか、泳いだ後とか、外国にしばらくいた後の帰りの飛行機の中でとか。
おいしさには、二つある気がする。
ひとつは、口に入れたときおいしいと思う物。
もうひとつは、体がおいしいといってるもの。
さか本は、毎朝あずき入りの玄米が出てくる。
あるときお客さんに「わたしは早死にしてもいいから、美味しい白米
が食べたい」と言われた・・・・確かに・・・・・。
夏の真っ盛り、石蔵に低温貯蔵された玄米でも、さすがに味が落ちてきた。食欲の落ちたとき、かつて四谷にあった伝説の「丸梅」を真似て、白米を澄むまで研ぎ

お櫃に取ってぬれ布巾をかけ、お出ししたら、お代わりが倍以上になった。



 うどの芽

古い料理の話を聞くときは、お寺がありがたい。
きっとそれは、門徒と寺との結びつきが今よりもっと深く、農閑期や長い冬の夜などにおいしい物、情報もいっしょに持ち寄ったのだと思う。
うどの芽のことも、近くの寺の住職に習った。
冬、新鮮な青物の不足するころ、深い雪の中に枯れて立っているうどの大木?
を目印に雪と土を掘っていく。
地下茎にちょこんと春を待つ三角錐の小さな芽のうちのひとつを掻ていく。
真冬に、かすかな春の香りのするみそ汁の具になる。



 朝ごはん

むかし、経団連の土光会長の朝ご飯は「めざしの干物」だと話題になった。
さか本も「日本の朝ご飯」という本に出してもらったが、
朝から雑然とならぶ皿に、なんだか違和感を覚えていた。
人生のしまいの準備をしはじめた初老の建築家夫婦が、
「朝食は、飯腕、汁碗、そして焼き締めの一皿だけにして・・・・」
と、器を処分しはじめていた。
簡素のなかに、ほんとうの贅沢があるのかも・・・。


 ある日のお弁当

スポーツクラブに入っていた高校時代、ほんとうによく食べた。
そして、なによりもおひるの時間がたのしみだった。
天気のいい日は大概、グラウンド横の川縁で友達と弁当を広げた。
その日の連れは、両親とも小学校の先生という友達だった。
ふっと、隣のおかず入れをみると、ウインナーがたこになっていたり
りんごがうさぎになったりしていた。
そして、自分のおかず入れを開けると、なんとでっかい油揚げがひとつ
切らずに丸々入っていた、ショックやった。
明らかにあれは、前の日の近所の葬式の残り物だった。
帰って猛然と文句をいうと、逆に「バチあたりがなにを言うとる、あんな
ご馳走を!」と叱られた。
あれ以降、母親には決して美味しい料理を期待しなくなった。



 企業秘密


「それどうやって作るの?」って聞いたことがある。

「ええっ、そんなこと簡単に聞くの?」って言われた。

必死の思いをしてようやくたどりついた料理法・・・秘伝。

自慢にもならないが、蕎麦を習うのにいろんな思いをした。

リュックを担いで押し掛けて体よく断られ、ようやく習える師を見つけたが

支払うべき報酬が大きすぎて、働きながら習うつもりも仕事が見つからず、

野宿して警察につかまり、駅で公安に追い出され、

帰ってお金を作ってようやく習えた。

しかしそれは、商業ベース的な蕎麦でしかなかった。

その後、独自に工夫をかさねてようやく今の形にたどりついた。

時々習いにくる人もいるが、一切包み隠さず教えてしまう。

その人が逆に教えてくれることもあるからだ。

出し惜しみは、よりいいものに改良されるための障害になる。

「企業秘密」の中身には、恥ずかしくて言えない事とか、

あまりにもバカバカしくてすぐ真似されるから‥‥というのもあるのではと、

穿ったものの見方をしてしまう。



 お煮染め


たしかに、歳とともに嗜好も変化していくものだと、この頃つくづく思う。

突然隠居宣言した母に代わって、煮物を炊きはじめて十年あまり。

満足にほど遠いが、だんだん面白くなってきた。

近くに親しく出入りしている真宗のお寺がある。

あるとき、庫裏の台所でおばあさんが大鍋を出して煮物の準備を始めていた。

あしたの報恩講の準備だった。

能登では、たいがいの家に、干したゼンマイや椎茸、塩蔵物のふき、わらび

海藻などが保存されていた。

真宗の報恩講、お葬式の弔い膳などには持ち寄って、乾物はじっくり時間を

かけて戻し、塩蔵物は一晩塩を抜いて大鍋で煮はじめる。

この煮物椀があって、ようやく料理全体が落ち着いてくる。

門徒でなくてもいただけて、お箸代として何十円か御膳に置いて席に着く。

お煮染めも味噌煮した海藻も、どちらかというと味が濃いめだったりするが

それでも深い思いに満たされた。

その気持ちを伝えると「あんたらっちゃみたいな玄人さんにたべてもろうよな

ごっつぉうでないわいね。」といわれた。


おもわず手を合わせてしまいたくなるような料理って・・・



 月心寺


先日、京都の中東さんとの会話のなかで、月心寺の庵主さんがすでに亡くなら

れていたことを知った。

三十代の頃、精進料理の教えを請うため訪ねたことがあった。

師走初旬、突然お訪ねしたので外で二時間待つことになった。

再度お手伝いさんにお願いしてようやく入らせてもらった。

「まず、氏素性を!」

事実には違いなかったが、なるべく同情をかうように、高校のクラブで脊髄

損傷になったこと、その一年後見舞いにきた父が帰りの車中で亡くなったこ

とを告げると即

「あんたは甘い!一足す一は零のあんたには教えまへん!」で終わり。

二十年後に客として予約をしたとき、かつての門前払いの件を告げると

「ほやったかいな、あんたのお客さんやし当日二時においで。」と

二時とは夜中の二時のこと。昼食の準備は二時から仕込み始めるということだ。

結局タクシーを飛ばして着いたのが五時。

そのときの、たった半日間で観たことをたよりに、いま煮物を炊いている。

ありがたい!  そして申し訳ない。



 煮物

「煮直しはあかんなぁ、煮直しわぁ〜・・。」
これは京都 月心寺の庵主さんの言葉。
おでん、カレーは何度も煮直して美味しいのに、わからんなぁ〜。
素材によって、煮方もそれぞれ違う。
ごぼうはケモノの旨味を好み、にんじんは内を甘めに外を濃いめに、ふきは塩蔵の野蕗を程よい塩抜き加減で、たけのこは質と鮮度に頼り、天日干しのしいたけは
一晩冷蔵庫の中で戻し、焼き豆腐はスをたてずに煮る。
そして、なんといっても難しいのが高野豆腐。
月心寺のように、ダシをたっぷりと含んで、ほったり煮上げることを目標に
試行錯誤で三年半。
乾物の高野豆腐にさえ鮮度があり、泉質によってそれぞれ戻り方が違うこと。
くずれる寸前まで戻してから煮含めても、固いスポンジのように締まってしまう。
今、お客さんが高野豆腐の出来に気づいたとき、ちょっと嬉しい。


 身なり

リュート奏者で食いしん坊のT氏が、金沢へコンサートにやってくるという。
打ち上げのために、牡蠣の土手鍋が旨いMという料理屋さんへ予約に行った。
ここは、何度か通ってて気に入ってるお店だ。
夕方4時、仲居さんたちが開店前の支度で甲斐甲斐しく働いていた。
「ごめん下さい」と言って返された言葉が・・・「お引き取りください」だった。
すぐにはその言葉の意味が理解できなかった。
用件を伝え、「女将さんを呼んで」というが、「すんません、すんません」の一点張りで、三十分玄関先で粘ったが、とうとう顔を見せてくれなかった。
このときのじぶんの出で立ちは、杖をつき、頭陀袋を下げ、ガーデニング用の
ゴム靴(一応フランス物)、デニムのオーバーオールだった。

インド通の建築家夫妻、ラフな格好でインペリアルホテルのアプローチを、
荷物を曵き曵きのぼっていった。
ホテル前のボーイたちは、それを見ながらただ笑ってて手を貸そうとはしない。
次に泊まるとき、きちんとした身なりで行くと、全く対応が違ったという。

誰のためでもない、じぶんが愉しむために「きょうは一丁ビシッと決めて!」
もオトナのマナーかな。
そして場を壊さないために!



 食いしん坊だった父

食べることに関して、親子といえど情け容赦のない父だった。
夕方、父の戸棚に見つけた袋菓子、夜には分けてもらえるものだと思ったが、
朝にはなくなっていたし、スイカも、白菜の漬け物も、美味しいところは
真っ先に父が食べた。
料理の手ほどきを受けたこともなく、4人姉弟で、真ん中の姉だけが唯一、
父の期待を背負った(機転も利いたし、調理の手際もよかった)。
一番下のわたしは、忙しくなると調理場を追いやられて、お風呂の釜番で、
ボイラー室の小屋が所定の位置だった。
料理に関して、父から手ほどきを受けたものは1つもない・・・と思っていた。
父の歳を1つ越したとき、あることに気づいた。
食べ物に限りなく「いじぎたない」のは父親譲りなのだった。
そして、それが食に対する執着心を支えてきたんだと思う。



水タコ

「きょうは贅沢なもの喰わせてやる」と、久しぶりに父が賄いの準備にかかった。
なんだかぶよぶよした大きなかたまりを湯引いて、薄く切り分けて、
それを浸けて食べるる酢みそをつくった。
半透明のゼラチン質的なところが、なるほどさすが高級品なんだな、と思わせ
るものだった。
ほんとうに美味しかった。
それから随分経って、それが本来なら捨てるような、タダ同然の水ダコの頭だったということがわかった。
すっかり騙されたけど、父はよくそういう手で『捨てるもの』をおいしく食べさせてくれた。



夏野菜みそ


夏野菜は、もう堪忍して!と言わんばかりに採れてしまう。

なす、キュウリ、ピーマン、ししとう、青じそ・・・。

そして、それを肴に飲もう・・・などという気は起こらない。

なんの縁だったか、鎌倉の辰巳芳子先生のところに居候させてもらったとき

この料理を習った。

エピソードでは、先生のお母様が、野菜嫌いの子ども達のために、なんとか

たくさん食べてくれるように工夫されたものらしい。

作ってみると、白いご飯にもいいが、なんと日本酒の肴になるではないか!

それも、いっぱい有り余った夏野菜で!

このチープな贅沢さ、たまらんなぁ〜。



  松茸


能登はかつて、松茸の一大産地だった。

さか本も、松茸料理を始めてもう55年くらいになる。

最初のころは、調理した食材やら、七輪やら山に担ぎあげ、お客さんが穫った

松茸をその場で捌いて、すき焼きにしていた。

いまはご多分に漏れず、能登松茸ももうすぐ絶滅危惧種か。

ある時期から「松茸づくしフルコース」というメニューをお出ししたら

飛躍的にお客さんが増えた。

ご飯、焼き物、土瓶蒸し、茶碗蒸し、フライ、すき焼き、しゃぶしゃぶ、汁

味噌漬け、ホイル焼き、香り酒。

そのなかで「山主さん」に習ったのが味噌漬け。

朝早く、おにぎりと生味噌を持参して山に入る。

早いめに採れた、形の悪いものを生味噌に突っ込んでおく。

それが、お昼時にはちょうどいい漬かり具合になる。

 松茸料理も、単純なほど美味しい。そして、鮮度と天気に左右される。

選び方、管理の仕方、使い分け、どの部分からどの程度に焼くか。

虫の入ったものの扱い・・・




  ミシュランガイド


        今年の初夏にミシュランガイドの北陸版が出るらしい。

ネット上では、もうすでにどの料理店が載るかの予想まで書き込まれている。

   ミシュランに対する評価自体も別れるらしいが、かつて南イタリアで尋ねた

       1つ星のおばちゃん食堂は最高の1つ星だったし、東京で3つ星認定を蹴ったと

       噂の料理店も、味も食材も値段も超3つ星だった。

   ミシュランがすべてじゃないけど、それなりに価値のある情報源だと思う。

 もしうちにやってきたら取材を受けるかどうか、などとアホなことを考えた。

 そして次に、そういう評価に振り回されそうな自分がいると、ふっと気づいた。

一番だいじな事は、からだが喜んでくれること。そして病的にならないこと。

食べる人も、作った人も、そのまわりの人も「しあわせ!」って思えること。

        日本のミシュランを選ぶ人は、たったの8人。

        彼らの名字は旅先ではもちろん、本社でも本名は明かさないという。


       食べ歩き


仕事半分、楽しみ半分と称して、評判を聞いて気になったところは機会を作って

  大抵食べに行く。

  最近そのことが苦痛に感じるようになった。

すごいなぁと感心することは必ずあるし、いいことも、気になったこともみんな 

  勉強になる・・・けど心がしんどい。

ふっと思ったこと、それはあちこち食べ回る人たちって、実は美味しい物を

  探しながら、もしかしたら別なものを求め回っているのかも・・・と。

  ほっこり温まるもの・・・か。